5、学校に来る理由の四割
一時間目の授業は最低だった。古典の宇津井先生の1/fゆらぎで発せられる癒しボイスと、半ば外国語のように聞こえてくる古典語にまんまと眠らされてしまった私は、放課後の補習を命じられてしまった。
二時間目の授業の体育は無難にこなし、三時間目の社会の授業は脱線した先生のうんちく話が面白くて、それなりに楽しめた。四時間目の英語は先生の話を聞いているふりをしながら、ノートの端っこに落書きをしていた。
そうして、午前中の授業をすべて終えて、待ちに待った昼休みがやってきた。
正直に告白してしまえば、学校に来る理由の四割はこの昼休みに友達同士で無駄話に興じることだと言ってしまっても過言ではない。さらに、あと四割は放課後に友達と駄弁ることで、残りの二割は各授業の合間の休み時間に友達と楽しくお喋りすることだ。つまり、私は友達と会って話すためだけに学校に来ているのだ。決して、勉強をするために学校に来ているわけではない。勉強をするのは、あくまで友達と会うついでにしているオマケに過ぎないのだ。
お母さん特製の冷食おかずたっぷり弁当を片手に、アイリと共に学食に向かう。学食で、高校に入ってから仲良くなった、東明日奈と、漆原愛希の二人と合流した。ちなみに、私と特に仲の良いこのアイリと明日奈と愛希の三人組はなぜか三人ともイニシャルがAなので、私は彼女たち三人をまとめてトリプルAと呼ぶことがある。実際に口に出してそう呼ぶ機会はそうそうないけれども。
「やっほう」
「お待たせ―」
と、アイリと私は先に来て座っていた明日奈と愛希の向かいに座る。
「おっす」
「先に食べてるよー」
と、愛希と明日奈は小さく手を振った。見ると、明日奈は学食の天津丼を食べている。愛希はコンビニで買ってきたパンに噛りついていた。
私はお弁当の包みを広げ、アイリはさっき学食で買ってきた麻婆定食の麻婆豆腐に山椒を振りかけていた。
「げ、まだ辛くすんの? それ」
愛希は、山椒を振りかけるアイリの麻婆豆腐のお皿を指さす。横一文字に綺麗に切り揃えられた前髪の下で、その眉は八の字を描いている。彼女のやや大きめの虹彩のせいか、まるでウサギが困っているみたいで面白い。
「え? だって、麻婆には山椒の刺激が必須でしょ?」
「いや、もともと入ってるんだって、そもそもウチの学食の中華は無駄に本格的で麻婆豆腐も尋常じゃなく辛いんだから、そんなの足さなくても充分でしょ」
「えー、でもやっぱり山椒は必須だよー。それに、もともとそこまで辛さも酷くないって」
と、笑いながらアイリは麻婆豆腐にスプーンを通した。
「いやあ、ちょっと私には理解できないっすわ」
「私も愛希に同意」
なんて、白い目で見る二人を気にもかけずにアイリは山椒を大量にまぶした麻婆豆腐を頬張る。私は、明日奈や愛希よりも少しだけ長くアイリと付き合っているから、今さら彼女の辛いもの好きには驚くことはない。こんなふうに周りの人間を驚かせた場面は何度も見てきた。
「まあまあ、二人ともアイリのことは放っておきな。こんなのに驚いてたらこれから先、何回驚かされるかわかんないよ」
と、私はアスパラベーコンを箸でつかんで、口の中に放り込む。塩コショウがよく効いていて、すぐに白いご飯が欲しくなる。
「はー、やっぱ付き合いが長いと違いますなあ、余裕を感じるよ」
「ですねぇ」
と、愛希と明日奈は半ば呆れたままで、それぞれコンビニのパンと天津丼を口に運ぶ。それから特に意味もない雑談を交わしながら、昼食を食べ進める。
あの俳優が格好いい。あの映画が面白い。数学の明崎先生の授業がすごく眠い。隣のクラスの鈴木さんが水泳部の佐藤先輩に告白されたらしい。なんて、そんな毒にも薬にもならない、けれどもとても甘いレモネードのような会話が続いていく。
そんな会話の流れを変えたのは、明日奈だった。
「あ、そういえばさ、知ってる?」
口に放り込んだ天津丼を飲み込んだ明日奈はスプーンを掲げて、前のめりになる。それに合わせるようにして、私たちも彼女に顔を寄せる。
「最近さ、この学校で行方不明になる人が続いてるって」
と、周りの生徒には聞こえないようにして囁く。
もちろん、それは知っている。とはいえ、その話は私も今朝アイリから聞いたばかりの話なのだけれども。
「うん、知ってる。確か一年の子が三人と……」
「二年の子が二人、で三年生が三人だよね」
と、アイリと愛希は小声で答える。
「今朝、そのうちの一人が見つかったんだって」
さらに明日奈の声のトーンは下がる。その声色の変化に、嫌な映像の断片が脳裏をよぎる。
「見つかったって……」
「死体で」
その言葉に、私たちは食事中のその手を止める。
死体。
普通の高校生である私たちにとっては、それはとてもショッキングな音の響きを持った言葉だ。想定はしていた。けれどもやっぱり実際に音にして聞くと、ひどく重い質感を伴って胸の中に沈んでいく。
「本当に? それは確かな情報なの?」
愛希は問い詰めるようにして言う。
「ええ、間違いない」
明日奈は頷く。その瞳に、揺るぎない確信を抱いているのがわかる。
「どうしてそうだと言い切れるの?」
と、不安げにアイリが訊ねた。当然だろう。私も、その言葉の根拠を知りたい。決して軽くはない、むしろ平凡な高校生にとってはとても重い、人ひとりの“死”を断言できてしまうそのわけを。その疑問に、明日奈は答える。
「私ね、その行方不明になったっていう生徒の一人の家の前を毎日通るのよ。通学路なのよね。で、その家の前に今朝、警察の人が来てたの。その警察の人が家の人に説明してる声が聞こえてきちゃってさ」
「お子さんが遺体で見つかりました……とか?」
愛希のその言葉に、明日奈は頷く。四人の沈黙の中で、自分自身の飲み込んだ唾の音がひどく大きく聞こえた。
「……でもさ、さすがに死者が出たんならニュースとかになるんじゃない?」
きっと、明日奈の聞き間違いだったんじゃないだろうか、と微かな期待を抱いてそう言ってはみたものの、彼女はそんな期待を打ち砕くような目で私を射抜く。
「うん。だから今日、親に連絡が行って、これからニュースになるんじゃないかな」
「……そっか」
それはそうだろう。親が自分の子の死を報道で知る、だなんてこと、あってはならないことだ。ならばやはり、今朝警察からその行方不明だった生徒の両親は自らの子の死を聞かされて、これからその生徒の死が報道されていくのだろう。
黙ったまま、私たちは互いの顔を見合わせることなく……いや、お互いの顔を見ることなんてできずに、ただ虚空を見つめる。食堂内の他の生徒たちの喧騒が、いつもよりもうるさく聞こえる。
「……ま、ここでこうして私たちが落ち込んだり怯えたりしたところでどうすることもできないんだけど、さ」
なんて、身も蓋もない、けれどもどうしようもなく本当のことを告げて、アイリは麻婆豆腐に再び手を付け始めた。それを合図としたかのように、明日奈も愛希も、私も昼食を再開する。
「はあ、そりゃそうだ」
「だねぇ」
と、愛希と明日奈は顔を合わせる。
「とにかく、私たちも怪しい人には気を付けなきゃいけない、ってことだよ」
アイリはそう言って、私の顔を見る。どうやら彼女は、また彼のことを言っているらしかった。
「そうだよ、特に遥香はね」
「そうそう」
明日奈と愛希までもがそんなことを言ってくる。明日奈は割と険しい表情で、愛希は少し楽しそうな顔をしている。
なんだか、三人に責められているような気がしてきて、少し不安も感じてしまう。けれども、揺らいじゃダメだ、と首を振る。少なくとも私は、アイツのことをここにいる誰よりも知っている。そして私の知るアイツは、決して人を殺したりするような人間ではない。そんなことができるような人間ではない。この連続失踪事件には関わっていないはずだ。
「だから、大丈夫だって。確かにアイツは怪しくは見えるかもしれないけどさ、中身はただのいい奴なんだから。ちょっと大学が卒業できないポンコツなだけだよ」
あまりうまくフォローできている気はしないけれども、まあ七年かけても大学を卒業できてないのは事実だし、私の悪口がポンコツで済むだけまだマシだと思ってほしい。
「あのねえ、私たちは本気でアンタのことを心配してるんだよ?」
と、明日奈は人さし指を私に向ける。真っ赤なその唇の先を尖らせ、切れ長のアーモンドアイで私を睨む。
「あ、はい……」
その剣幕に、思わず私も背筋を伸ばしてしまう。明日奈は怒ると怖いのだ。
「……いや、でもまあ本当にアイツなら大丈夫だと思うよ。もうそれなりに長い付き合いだし、今じゃもう親戚のお兄さん、みたいな感じ?」
「そうやって油断させる作戦かも」
「あたしひとりに七年もかけて? そんなペースじゃ、うちの高校で行方不明になった生徒たちのペースにとても追いつかないでしょ」
「……ん、まあそれもそうか」
渋々、といった表情でようやく明日奈は人さし指を下ろした。
「そういうこと。さ、昼食済ましちゃおうよ」
少し話が長くなってしまった。もう昼休みは半分近く過ぎてしまっている。食堂内も、生徒の姿はだいぶ少なくなってきている。
「ああ、そういえばさ……」
と、アイリが顔を上げる。
「……今日、遥香とカラオケに行こうって言ってたんだけど、明日奈と愛希も行く?」
明日奈と愛希は顔を見合わせてから、私とアイリの顔を見る。
「当然!」
「だよね」
これで今日の放課後の予定は確定した。午後の授業は適当に聞き流すことにしよう。