4、失踪事件
「やっほう」
学校に着いて教室に入り、私が自分の席につくと同時に、肩を叩かれた。振り返ると、そこには日根野谷アイリが立っていた。
背が低くて、よく笑う、ショートカットの似合う女の子だ。
アイリとは中学生の頃からの仲だ。高校生になって、高校からの友達もできたけれども、それでも一番仲のいい友達は彼女だ。少し、背中のむず痒くなるような言い方をするのならば、きっと彼女は親友というものなのだろう。
「おはよう、アイリ」
「おっはよう。ねえ、知ってる?」
と、彼女は昨日テレビで見た、効果的な痩せ方特集で見たその方法、というものを熱心に語り始める。
いつだってそうだ。いつも彼女がほとんど一方的に話すのを、私は隣で聞きながら相づちを打つ。そうして、彼女が七割、私が三割の会話を続けている内に、いつのまにかその会話の内容はスタートした時とはずいぶん話題が変わってしまっていた。
「ああ、そういえばさ、ペンギン疾走事件で思い出したけど、失踪事件が相次いでるって知ってる?」
と、彼女は訊ねてきた。ペンギン疾走事件から、どうして失踪事件につながるのかわからないけれども、まあ同じ音からそこに思い至ったのだろう。そういった急激な話題の転換は彼女との会話の中ではよくあることだ。気にするようなことじゃない。
ちなみに、ペンギン疾走事件というのは、五年前に起きた事件で、小惑星が地球に接近し、人類滅亡の危機が現実味を帯びていた時期だった。最終的に小惑星は大気圏突入の際に、衝撃に耐えきれず砕け、地上への被害はごくわずかで済んだのだけれども、そんなときに大量のペンギンが街中を疾走しているという目撃談が相次いだ、というものだ。結局、それは人類滅亡の危機を前に、パニックを起こした人々が何らかのきっかけで見た集団幻覚のようなものなのだろう、という結論で落ち着いた。
「失踪事件?」
「そう、失踪事件。この三カ月の間に七人も行方不明になってるんだって……この学校の生徒だけで」
「えっそうなの?」
三か月間で七人の失踪者というその数が多いのか少ないのかはわからないけれども、この学校の生徒だけで三か月間に七人もの失踪者が出ているというのは、明らかに異常なことなのだろう、ということはわかる。
「そ。学校側はなんとか誤魔化そうとして、長期の病欠やら家の都合やらということにしてるみたいだけど、徐々に生徒たちの中でも噂は広まってきてるよ。そりゃそうだよね。失踪した生徒たちに共通項はない。不規則に、そして平等にいなくなっている。それはつまり、知り合い同士が協力し合って仲良く家出した、ということではないということ。さらに、皆はなんの前触れもなく、なんの痕跡も残さずにいなくなってる。突然、ふらりと風にさらわれたように。そんな不自然な失踪の仕方をしていたら、気付く生徒は気付くわよ」
「そうなんだ……ぜんぜん知らなかった」
「だから遥香も気をつけな?」
「なにをどう気をつければいいのかわからないけど……うん、まあ気をつけるよ」
「いや、遥香がいちばん危ない、と私は思ってるからね?」
「どうして?」
「だって、あの怪しい男と今でもちょくちょく会ってるんでしょう?」
と、アイリは眉間に皺を寄せて、唇を尖らせる。今朝も会った、彼のことだろう。
「怪しい男って……別にアイツは怪しくなんてないよ。まあ、確かに怪しく見えはするかもしれないけどさ」
「本当に?」
「本当に」
「ならいいけどさ……」
未だ信用できない、といった眼差しでアイリは私を見る。
「だって、もしも彼が失踪事件の犯人だとして、あたしを狙っているのだとしたら、もうとっくに攫ってるでしょう。私が小学生のときに攫ってしまっていたほうがよっぽど楽だったでしょうに」
「うーん……まあ、それもそうか」
「そうだよ」
そう、彼は確かに変な人かもしれないけれども、悪い人なんかではない。それは、この七年間の付き合いでよくわかっている。彼は涙に暮れる小学生に声を掛けることのできる稀有な人なのだ。そんな人間が悪であるはずがない。
「それにしても失踪……か。こう言っちゃなんだけど、やっぱり最悪の事態を想像しちゃうよね」
アイリは少し目を伏せる。
彼女の言いたいことはわかる。それまで普通に生活していた人がなんの前触れもなく消えていなくなる。まるで蜃気楼のように。それは、あまりに唐突な消失で、死を予感させるには充分だ。
「あんまり悪い想像はよくないよ」
と、これは半ば自分に言い聞かせるようにして、言う。
「うん、それはわかってるけどさ……」
「ほら、さっきも話してたけど、ペンギン疾走事件のあった時期だって、結局小惑星は地球を吹き飛ばさなかったし、終わってみれば大したことじゃなかったじゃない。そんなふうに、今回のこの失踪事件も、終わってみればみんな帰ってきて、いつのまにか日常に戻ってるのかもしれないよ」
「……うん、そうだね」
それは、あまりに都合のいい、妄想に近い思考なのかもしれない。まるで綿菓子のようにふわふわとした甘い考えだろう。それでも、そう思うことは決して悪いことではないはずだ。事実、いなくなってしまった生徒たちはあくまで行方不明なのだ。ならば、そのいなくなってしまった人たちがもうすでに死んでしまっている、だなんて確定はしていないはずなのだから。
「はあ、こう暗い話ばかりになるのはよくないね。気分が沈んじゃう……よし。今日さ、カラオケ行かない?」
「カラオケ?」
「そ。パーッと明るく歌って楽しもう」
そう言って、アイリは笑う。普段は大きな目が、笑うととても細くなり、その背の低さも相まって、まるで小動物のように可愛らしくみえる。
そんな可愛い生き物に誘われて、断ることなんてできるはずがない。
「いいね、行こう行こう」
と、私はその提案に賛成する。
それとほぼ同時に担任の島村先生が教室内に入ってきた。
「おーい、席に着けよー」
その大きな体躯にふさわしい、大きな声で先生は着席を促す。
「それじゃね」
「うん、また」
と、アイリは自分の席に帰っていく。
今日も、いつもと変わらない平凡な一日が始まる。