2、完全数
「やあ、お嬢さん」
と、その人は私に声を掛けた。
私がまだ小学校の四年生の時のことだった。その当時も彼は大学生。小学四年生の女の子に大学生の男の人が声を掛けるというのは、見ようによっては少し、犯罪の匂いがするかもしれないけれども、きっと彼が私に声を掛けたのは必然だった。
そのとき、私は公園でうずくまって泣いていたのだ。
何人もの大人の人が私に気付きながらも、見てみぬふりをしていた。ああ、やっぱりこの世界はこんなにも冷たいんだ。と、小学四年生にして世界の真理に気づきかけた頃、彼が私を見つけた。そして、彼だけが私に話し掛けてきてくれたのだ。
あふれ出る涙を拭いながら顔を上げると、そこには少し困ったような笑みで私を見る彼がそこにいた。
けれども、私は彼になにも言えなかった。優しく声をかけてきてくれたこの人に、悪意がないはずだというのはなんとなく直感でわかったものの、この人になんて言えばいいのかがわからなくて、私は口を閉じたまま顔を伏せて、その視界の先にあった彼のスニーカーの靴紐の結び目だけをただじっと見つめることしかできなかった。それはまるで、おろしたてのように真っ白な靴紐だった。
「なにか、嫌なことでもあったのかい?」
と、彼は柔らかな口調で問いかける。それに対して、私はやはりなにも答えることができない。けれども、この場面、この状況において、沈黙するということは事実上肯定してしまっているも同然だ。成長した今ならばわかるけれども、その当時の私にはわからなかった。
私の沈黙を見て、再び彼は口を開く。
「そっか。でもま、仕方ないと思うよ。この世の中にはどうしようもなく泣きたくなるようなことで溢れている。それでも、死なないのならば生きていくしかない。そして、それでも生きていくのならば、きっとキミには大きな役目を果たす時が来る」
と、小学四年生の女の子に対して話すにしては、少し小難しい言い回しで彼は言った。正直、今でもその言葉の意味はよくわからない。けれどもそれは、彼が私のことを子ども扱いせずに、対等な立場に立ってくれているからなのだと、そのときは感じることができた。
「役目?」
そう訊ねる私に、彼は微笑んだ。今度は困った表情の混じっていない、純度百パーセントの笑顔。その笑顔につられて、思わず私も笑ってしまう。
「そう、役目。きっとキミの役目は人類を救うことなんだよ」
そう言って、彼は真っ直ぐに私の眼を見る。まるで、その言葉が真実であるのだと、私に語りかけるように。もちろん、人類を救うだなんて、そんな大それたことは私なんかにできるはずがない。きっと、これは彼なりの冗談なのだろう。小学四年生の、なんの変哲もない平凡な女の子が人類を救うなんて、あまりに馬鹿げている。
「あんまりあたしをからかわないで」
と、私は彼に人差し指を向ける。もちろん、本気で怒っているわけじゃない。彼のその発言がおかしくて、私は彼に人差し指を向けたのだ。私に人差し指を向けられた彼は、肩をすくめてぽりぽりと頭をかく。
「からかってなんかないんだけどなぁ」
「本当に?」
「うん、たぶんね」
なんて、そんなふうにいいかげんに彼が言うものだから、私のほうが呆れてしまう。
「貴方、本当に大人なの?」
「うっ、酷いなぁ。まあ、まだ大学生だし、なにをもって大人というのか、その定義は色々あるかもしれないから、もしかしたら大人とは呼べないのかもしれないけれども、それでも小学生の女の子にそんなことを言われちゃ、さすがにショックだよ」
と、割と本気でショックを受けたように彼がしょぼくれているのを見て、その姿がおかしくて、私は笑う。ああ、きっとこの人の精神年齢は私とそう変わらないのだろう。と、思ったのだ。いや、もしかしたら小学四年生である私よりも下かも、なんて。
「ねえ、キミはどうして泣いていたの?」
と、唐突に彼は切り出した。
いや、きっとこのタイミングこそがベストだと彼は思ったのだろう。お互いに少し話して、少しだけ打ち解けてきた。そして私も笑顔を見せた。本題に入るのならば、きっと悪くはないタイミングだろう。
「それは……」
そう、それは大したことなんかじゃない。けれどもその当時の私にとってはとても重要なことだったのだ。
「……テストの点数がよくなかったの」
と、私は俯いた。その日、私は小学校で出された算数の小テストで、人生で初めて50点台を取ってしまったのだ。高校生となった今では、欠点でもない50点台の点数なんてものはよくあるものなのだと知っているけれども、小学生の頃は初めて取ってしまったそれが絶望的なものなのだと思い込んでいた。
「テストの点数が悪いとなにか問題があるのかい?」
「お母さんに怒られるよ」
「お母さんはテストの点数が悪いと怒るの?」
「……たぶん」
それはわからなかった。経験したことのないことだったから。けれども、これまでにこんなにも低い点数のテストをお母さんに見せたことはない。だからきっと、怒られるものだと思っていた。
「キミはどの教科が苦手なのかな?」
彼は訊ねる。
「算数」
「そうか、算数か……」
そう呟いて、彼は自らの靴に目を向けた。
「……例えば、ほら」
と、彼はその靴を指さした。
「この靴には靴ひもを通す穴が12個ある。6個ずつの穴が対になるようにして並んでいるだろう?」
確かに、その靴ひもの穴は6対あった。
「6という数字は完全数と呼ばれているんだ」
「完全数?」
「そう、完全数。6という数字の約数は1と2と3と6。その中から自身の数を除いた1と2と3を足せば、元の6になるだろう? そういった、自分自身を除く約数の数字を足すと、もとの数字と同じになる数字のことを完全数って呼ぶんだ」
と、彼は完全数というものについて解説してみせた。
「……やくすうってなに?」
ただ、残念ながら、その当時の私は約数というものを習っていなかった。習っていたとしても、まだ算数が苦手だった頃の私はそれを覚えたいたかどうか怪しいけれども。
「ああ、えっとまだ約数は習ってないのか」
そう言った彼に、私は小さく頷いた。少しだけ、困ったような顔を見せて、彼は頬をかく。
「約数っていうのは、簡単に説明するとその数字を割ることのできる数字、かな。だから、さっき言った6は1と2と3と6で割ることができる。だから、6の約数は1と2と3と6ということだね……割り算はわかるよね?」
「うん、割り算はわかる……」
できるかどうかは別として。
「……そのやくすうを、全部足した数が、元の数字と同じものになる数字が、完全数っていうの?」
「そう、正確には自身の数字を除いたすべての約数を全部足した数、だね」
「それは、どうして完全数っていうの?」
「さあ、どうしてだろう。でも、美しいと思わないかい?」
確かに、元の数字の中に、割った数字がすべてすっぽりと収まってしまうのは、綺麗なような気がした。
「6の次に現れる完全数は28で、その次は496。そこから先はもっと大きな数字になっていくんだけれども、この完全数にはもうひとつの特性がある」
「もうひとつの……特性?」
「うん、完全数は連続した数の足し算で表すことができるんだよ」
「連続した……?」
首を傾げた私を見て、彼は落ちていた木の枝を拾い、地面に数字を書き始めた。
1+2+3と書いて、私の顔を見た。
「ほら、これがさっき言った、6の約数だ。綺麗に1、2、3が並んでいるだろう?」
「うん」
「そして……」
彼は地面の式にさらに数字を足していく。
+4+5+6+7と。
「……この数字をすべて足せば、6の次の完全数、28になるんだよ」
そう言った彼の言葉が正しいのかどうかを確かめるために、私はその足し算を一生懸命計算する。小枝を拾って、地面に数字をいくつか書き込んで、私は顔を上げた。
「ね?」
と、彼は笑う。確かに、それは28となった。
「じゃあ、さっき言ってた、28の次の完全数、えっと……4ひゃく……」
「496?」
「それも、こんなふうに順番に数字を足していけば、その数字になるの?」
「ああ、もちろん」
そう頷いて、彼は地面の式に再び数字を書き足していく。
+8+9+……
そうして、ずらっと数字が並び、最後に31まで書いたところで、彼は手を止めた。
「1から31。この数字をすべて足せば、完全数496になる」
「ほ、本当に?」
「本当だよ。家に帰ったら、電卓かなにかで確かめてみるといいよ」
と、彼は言ったものの、それはきっと確かめるまでもないことなのだろう、と私は直感した。今、この場で彼が嘘をつく必要性なんて、ないのだから。
たった今、彼が書き出した数式を眺める。規則正しく、まるで背の順のように美しく並ぶ数字たち。これらをすべて足していけば、完全数と呼ばれる数字になる。その事実に、私の胸はこれまでに感じたことのない高揚を覚えた。
「ああ、そうそう。それとさらに、完全数496は、宇宙を表す数字、とも言われているんだよ」
「宇宙を表す……?」
「そう。この数字は古代ギリシャにおいて、特別な数字として扱われていたんだ。天地創造に深く関わる神秘的な数字だとされてね。そして今現在、宇宙のメカニズムを解き明かすための理論のひとつと言われている、超弦理論においても、その数式の中にいくつも496という数字が出てくるんだよ。この宇宙の謎を解く鍵は、完全数なのかもしれない」
そう言って、彼は立ち上がった。
「どうだい、算数もなかなか面白いだろう?」
と。その彼の足元の靴ひもから私は目が離せない。
正直、当時の私は彼がなにを言っているのかちゃんとは理解できていなかったのだろう。天地創造だとか、超弦理論だとか言われても、小学四年生の女の子にはさっぱりだ。けれども、彼のその言葉は私を惹きつけてやまなかった。
完全数。
彼の足元にその完全数である六対の靴ひもの穴がある。そして、きっとこの世の中のいたるところにその数字は存在するのだ。
いや、まあ6や28なんて数字はそう珍しいものではないし、この世の中に転がっていても何の不思議もないのだけれども。けれども、そういったなんの変哲もないと思っていた数字に意味があるのかもしれない、と思えたことが、その当時の私には重要だったのかもしれない。
身近な数字に意味があり、そしてそれは宇宙に繋がっているのかもしれないのだ、ということを、私はただただ単純にすごいと思えたのだ。
「うん、算数って面白いかも」
と、私も立ち上がる。
「それじゃあ、もうそろそろ帰りな。お母さんが心配するだろうし」
「わかった」
帰って怒られるかもしれないけれども、それはそれ、だ。算数の楽しさに目覚めた私はきっとこれから算数を好きになる。
そう思いながら、私は帰路に就いた。
まあ、実際はお母さんに算数のテストを見せても怒られることはなかったのだけれども。お母さんはテストの点数を見ても「あらあらまあまあ、次はがんばりなさいな」と、それだけで済ましてしまって、私は拍子抜けしてしまった。公園で泣いていた私の時間はなんだったのだろう、と考えてしまいそうになるくらいに。
私が思っていたよりも、お母さんは寛大な人らしかった。
けれどもまあ、あの公園で泣いていた時間は決して無駄ではなかったのだろう。あの公園で涙を流していたからこそ、私は彼と出会い、そして算数を、数学を好きになれた。今の私が数学だけでも学年でトップクラスなのはこの出来事があったからだ。
そしてそれからも彼は時々、公園に現れては私と話をしてくれた。彼の話はとても面白くて、私はいつしか彼と出会うことをささやかに期待するようになっていた。彼は出会うたびに「やあ、お嬢さん」と声をかけてきて、そんな風に呼ばれたことのない私は、素直に喜んだ。
私が数学を好きになったきっかけは間違いなく彼だ。
ただ、彼はそれを覚えてはいないようだけれども。