雨の匂い
夕立の前触れにはいつも、不思議な匂いがする。
都会の夜風の中に混じる微かな雨の匂いを感じ取ると、いつも思い出すことが二つある。
一つは子供の時分に、入道雲を背に嵐が来るぞとはしゃぎながら、友達と家まで競走した夏休みのこと。もう一つは、その当時僕たちの仲間だった、タツと呼ばれていた不思議な少年のことだ。
「匂いだよ。分からない?」
「分かるわけね―じゃん、お前、エスパーなんじゃないの」
帰り道の途中、今年の冬に出るゲームの話をしている僕らの一歩後ろを歩いていたタツが、雨の匂いがする、と言い出した。
「とにかく匂いがするんだ。早いところ帰った方がよさそうだよ」
「ええー?ほんとぉー?」
「ほんとほんと」
「オカルトだよ、インチキだ」
オカルト、インチキ、嘘つき、予言者、雨降り博士、とにかく色んなことを言って、僕たちは走り出そうとしなかった。もう少し先の十字路で、健司とダイヤンは左に折れて二丁目の方に、コージーと僕は右折して五丁目の方に、分かれて帰ることになるからだった。タツは黙って聞いていた。
然して夕立はやって来た。あまりにも唐突な雨降りだった。
「うわ!マジで降ってきた!」
「まじかよタツ!」
神、気象予報士、天文学者、真実の予言者、雨降り博士、とにかく色んなことを口々に叫びながら、僕たちは蜘蛛の子を散らすように十字路を帰っていった。
「例えばさ、今匂ってきてるのは?」
翌日の放課後、昨日のぞんざいな態度を嘘みたいに改めた僕たちは、タツにその神秘の教示を乞うた。嘘のように手の平を返すのは気恥ずかしかったが、僕たちは確かに、そういった一種の道化を楽しんでいる節があった。
「カレーだ」
「おいしそう」
「ガラムマサラ」
僕たちは口々に言う。こうして口々にものを言うのが、楽しくおしゃべりするコツだったのだ。
「そう。カレーを作る前には、カレーの原料の匂いがする」
「そうだね」
「嵐の前には、水の匂いがする。おかしくはない」
「確かに!」「天才か!」「水の匂いがしてきた!」
「でも今日は降らないよ」
タツはいつも通り、何を考えているのか分からない表情で、淡々と言った。
予言はまたしても的中した。
その日以来、僕たちはタツをひときわ尊敬するようになった。
ひょっとしてあいつは、山の神なのか?十字路で、誰とも交わらない山の方へ黙って直進していくタツの背を見ながら、僕は何となく、そんなことを想ったものだった。
それから程なくして、タツは転校していった。
大人になってからの噂で聞いたところによると、新興宗教の幹部になった父親に連れられて、どこか遠くの山奥、もしかすると、どこか別の国のコミューンへ移住したということらしかった。
いつの間にか僕は、あのむっとするような雨の前触れの匂いがわかるようになっていた。いや、僕だけじゃない。多少でも周りの匂いに注意を払う人間なら、どうやら誰にでも分かるらしかった。寂しい事実だった。結局どこまでも、タツは正しかったのだ。
このところ彼のことを思い出すと、決まっていつも何かが心に引っかかる。
十字路を一人でまっすぐ帰って行く後ろ姿。それを横目に十字路を右折したとき、僕は確かに何事かを後悔していたような気がするのだ。
長い回想を終えると、そこはいつもの部屋だった。遠くで、最終電車が走っていく音が聞こえる。
僕はふと窓を開けたくなった。そこに雨の匂いが漂っている様な気がしたのだ。何かを思い出せそうな予感があった。
一陣の風が木々を揺らして、晩夏の夜空に吸い込まれていった。
「そうか。一番最初に嘘つきって言ったの、謝ってなかったのか」
都会の夜風は、乾いていた。