エピローグ
翌日はうってかわって快晴だった。電車は通常通り運行し、遅延を見越して家を出た僕はいつもより早く教室までたどり着いた。中庭の雪はまだ大部分が残っていたけれど、花壇のレンガや木の葉の緑がその隙間から顔を出し始めていた。雪の表面では、無数の小さな水滴が、朝の穏やかな光を反射して輝いていた。
マフラーやダウンやら、冬の装いに身を包んだ生徒が続々と歩いてくる。その中に、まず北見さんの姿が見え、その数分後に松野が続いた。結局あの二人の関係がどういうものか僕にはわからなかった。興味本位であれこれ聞いたところで仕方がないだろう。もう終わったことだ。けれど、せめて一個だけ、ほんのいたずらというか、ささやかな抵抗というか、試してみたいことがあった。
松野はすぐにやってきた。短い挨拶を交わして席に座る。僕は、何も言ってないよ、と言った。松野は苦い笑みを浮かべて首を振った。僕は鞄の中から、北見さんからもらった包みを取り出した。
「どうしたんだよ、それ」
松野は意外そうな表情を見せた。失礼な。僕だってチョコレートのひとつやふたつくらいもらうことがあるのだ。僕は中からひとつ取り出して松野に差し出した。
「なかなかおいしいよ」
「なんで俺に渡すんだよ」
「いいから」
僕は有無を言わせずに松野の手にそいつを押し付けた。明らかに困惑している。
「……とにかく食べろと」
僕は頷いた。松野は毒入りの有無を確かめるようにしばらくチョコレートを観察した。そんなことをしたところで何もわかるわけがない。ほんのわずかなためらいの後、ひょいと口の中に放り込んだ。
北見さんへの義理立てでも何でもない。単純に、どう思うかを聞いてみたくなったのだ。
「確かにうまい」
松野はよくよく味わうように咀嚼してごくりと飲み込んだ。
「だろう。僕もびっくりしたよ。カカオを砕くところから作ったらしい」
「嘘だろ……俺がもらったのより美味しいかもしれない」
ばしん、と松野は僕の肩を叩いた。にやにやと笑みを浮かべている。
「誰だ? これを作ったやつは」
「守秘義務があるんだ」
「お前なあ……」
嘘が苦手なら何も言わないに限る。松野は相手がいいたくないことに対して余計な追求しない。その態度は、僕が松野から学んだ最も重要なことのひとつだ。松野はちょっと視線を上げた。中空に、自分の頭の中にある記憶がぽかんと浮かんでいるとでもいうような感じだ。
「北見か?」
心臓の鼓動が一拍飛んだかと思った。けれど僕の動揺は表情にも態度にも出なかったらしい。そんな都合のいいことあるわけないかあ、と、松野は頭の後ろで腕を組んだ。椅子の背もたれがぎぎ、と不穏な音を立てる。
「なんで北見さん?」
「お前一年生の時好きだっただろ」
そうだっけ、と僕が言うと。そうだろ、と返ってくる。
「お前、力説してたじゃん。合唱祭の練習の後。『北見さんは凄い、僕の中学の時とは全然違う』とかなんとか」
「言ったよ。ただ、あれは、こう、人間的な良さというか」
「そうは見えなかったけどな」
「そう見えなくてもそうなんだよ」
「ムキになって否定するから疑われるんだよ」
松野は冷静だった。なんだか、優しく穏やかに逃げ道をふさがれているような気分だった。言いたくないことは追求しない。じゃあ今、なぜ松野は追求してくるのか。おそらく、僕が話をしたがっていると誤解しているからだ。
「俺からすれば、あれはほとんど告白と同じだ。人間的な良さ? はあ。じゃあ、それ本人に言ってみ? 『あ、この人、絶対私のこと好きだわ』ってなるよ」
「ならないよ」
ならない。なるはずがない。松野は恋愛至上主義に毒されすぎているのだ。
「お前が否定するならそういうことにしておくよ」
松野は話を切り上げると、チョコレートの袋に目を落とした。
「ホワイトデーはどうすっかな」
忘れていた。もらったものを一カ月後に別の形で返すというイベントがあるのだ。
「僕は、そうだな、小麦からクッキーでも作ろうかな」
おまえが? と松野は馬鹿にした笑みを浮かべる。やったことはないが、ネットで検索すれば簡単な作り方なんていくらでも出てくるだろう。
「カカオを砕くのと同じ苦労をするなら、そうなるかなと」
松野は笑った。
「本当に、そんなのは、よっぽど好きじゃないとやらないな」
動詞に対する目的語が欠落していた。よっぽどお菓子が、か、それともよっぽどその人が、か。どっちの意味合いで言ったのかはわからなかったけれど、どちらだったとしてもそんなに重要なことではない。所詮僕らは、誰かが作った因習の上で遊んでいるだけなのだ。それでも、時折こうも心を動かされる。僕は、どこかで糸を引いている名前もわからない誰かに、一発見舞ってやりたい気分だった。




