震える肩を抱き寄せて
僕らは塾の駐車場で松野を待つことにした。塾までの道のりは、北見さん本人が話した通り熟知しているみたいだった。目をつぶっても辿りつけるくらいということだったが、道中の足取りは心なしか重かった。
僕らは塾の駐車場で松野を待つことにした。建物の影に隠れ、入り口の様子をうかがう。ちょうど講義が終わったところらしく、ちらほらと塾生の姿が見え始めていた。その中にまだ松野の姿はない。
「後ろを向いてたら松野が出てきたかわからないだろ」
北見さんは、神様に祈りをささげるみたいにして両手で袋を握り、ぶるぶる震えている。緊張もあるだろうが、何よりも寒いのだ。
「ちょっと待って、震えが止まらない」
僕は彼女の肩をつかんで無理に立たせた。人間は、身を守りたいときと体温を保持したいときに丸くなると聞いたことがある。北見さんがそうなるのも仕方ない状況だけれど、ここばかりは踏ん張ってもらわないと困る。
「あとちょっとだ。ほんの数分もかからないさ」
北見さんは立ち上がった。冷たい壁に身を寄せて、そっと顔を出して入り口を覗く。あ、と、小さな声が漏れた。
「いた?」
「いた」
北見さんは声を潜めていたけれど、それでも緊張と興奮が空気を介して伝わってくる。
「頑張れ」
僕は文字通り彼女の背中を押した。物理的に、両手で、だ。けれど、彼女は氷みたいに固まってその場から動かなかった。
「駄目だ」
「駄目じゃない」
「無理だよ」
「無理なわけないだろ。男子高校生っていうのはな、もらったチョコレートの数で友達と戦う愚かな生き物なんだ。僕が保証する」
北見さんは動こうとしないばかりか、僕を押し返し始めた。しばらくの膠着状態が続いた後、僕は戦いに敗北した。彼女は孤独な兎みたいに丸くなって足元に座り込んだ。
「どうしたんだよ、ここまで来て」
北見さんは何も言わなかった。ただ俯いて首を横に振っていた。
「わかった、僕が呼んでくる」
顔を上げた。止めて、と言った気がしたけれど、僕は聞かなかったことにした。早くしないと松野が帰ってしまう。僕は建物の影から飛び出した。生徒の数はさっきよりずっと多い。それでも、体格のいい松野の姿はすぐに見つかった。
松野! と呼びかければいいだけだ。けれど僕にもできなかった。声が詰まる。うめき声とも感嘆の声とも取れない奇妙な音に気づいて、松野が振り向いた。
「お前、どうしたんだよ」
松野が左手を慌てて上げた。つかつかとやってきて僕の肩を叩く。何か言っていたみたいだけれど、僕にはもう聞こえていなかった。一瞬前目にした光景が、目に焼き付いて離れてくれなかったからだ。
松野は、見慣れない制服を着た女子生徒と一緒にいた。僕らの学校とは違う制服。違う高校の生徒だ。松野とその女子生徒は、僕が現れたのに気が付いてさっと距離を置いた。けれど、僕は確かに、物陰から飛び出した瞬間、北見さんが目にしたのであろう光景を見たのだ。
松野とその女子生徒が並んで歩いているところだった。二人の手はその間で固く結ばれていた。松野が急いで振りほどき、僕に合図するために上げた左手は、ほんの数秒前まで、彼女の手のひらを強く握りしめていたのだ。ドラマで見たら笑ってしまうんじゃないかと思うほど、あまりにもべたすぎるその光景は、実際に目にしてみるととんでもない衝撃だった。
「急に連絡してきたと思ったら、音信不通になって。歩いて帰ったんじゃなかったのかよ」
僕はどう答えていいのかわからなかった。北見さんのことを言うべきか、雪兎のことをい言うべきか。いや、そのどっちでもない。本当のことを話すことが、正しくない時だってあるのだ。
「塾の」
僕は頭をひねった。
「塾の……?」
「案内をもらおうと思って」
僕は入り口脇に設置されたパンフレットを指で示した。
「僕も、来年から受験生だからさ」
松野は入り口まで歩いて行ってパンフレットを取ってきてくれた。確かに僕にはもっと勉強が必要だけれど、この塾に入るのはちょっと遠慮したい気持ちだった。
「それと、あの人」
「ああ」
と、松野は今やっと気が付いた、みたいな白々しい声を上げた。
「誰にも言わないでくれよ」
松野はそう言いながらちょっとだけ誇らしげだった。むしろ言いふらして欲しいんだと僕は思う、というか、僕だって逆の立場ならそう思うだろう。一瞬目にしただけでも凄く可愛い人なんだと、僕でさえ思えたくらいなんだから。
「できるだけ言わないでおくよ」
松野は困った顔をする。後ろの彼女を気にしていた。じゃあ、と僕が言うと、松野は慌てて引き返した。
二人を見送ってから、僕は北見さんの様子を見に戻った。彼女はまるで雪像みたいに、その場で固まったまま動かなかった。寒くてしかたがなかったので、僕らは近くに見えていたコンビニに避難した。全然歩いてくれない北見さんを、半ば引きずっていくような形だた。けれど店内で暖を取ると、北見さんはやや生気を取り戻したみたいだった。
「何か飲む?」
彼女は頷いた。
「コーヒーでいい?」
無言。僕がホットコーヒーを二本手に取ったところで、やっと反応が返ってきた。
「……レモネード」
彼女は僕の手からコーヒーをもぎ取った。
僕らはさながら惨敗兵といった様相だった。雪兎は砕け、チョコレートを渡すべき相手はいなくなった。さっきの塾の生徒だろうか。数人の女子生徒が連れ立って、今日はホワイトバレンタインだ、みたいな恐ろしいことを口にしながら店内に入っていく。雪はさながら白い悪魔のようだ。
寒さのあまり誰も使っていない灰皿の前で、僕らはちびちびと飲み物に口をつけることにした。温かいコーヒーが身に染みる。けれど、なんとなく買ってしまったブラックは思ったよりも苦かった。
「ごめん、私が間違ってた」
ぷしゅ、と百五十ミリリットルのペットボトルのキャップを開く。
「何のこと」
「バレンタインデーは平日なんだね」
白い悪魔は彼女に深い絶望を与えたはずだ。けれど、彼女は落ち込んでいるようには見えなかった。少なくとも外から見て、声を聞いている限りは。
「そんなことないさ」
たまには、お菓子メーカーの手のひらの上で踊ってみるのだって、そんなに悪くないんじゃないか。そして、その先陣を切り血路を開かんとした北見さんに、僕は影ながら拍手を送りたい気持ちだった。
北見さんはレモネードの四分の一くらいを一気に飲んだ。
「染みるな。この温かさと、甘酸っぱさが」
実際耳にしてみると、染みる、という言葉のチョイスは思ったよりも年寄りっぽいなと思った。僕も思い切ってコーヒーの残りに口をつける。隣で、北見さんの笑い声が聞こえた。
「飲めないのになんで買ったの?」
後悔していることは見抜かれてしまっていた。
「なんとなくだよ」
半分くらいは空になったけれど、残り半分がちょっとしんどい。北見さんは、宙に浮かんでは消えていく自分の吐息をぼんやり目で追っていた。そこに、本当に欲しかったものの影が見えるとてもで言うように。
「あのさ」
と北見さんは唐突に切り出した。
「ありがとう、お礼を言うよ」
「僕は何もしてない」
北見さんは首を振った。そして、ずっと手に持っていた紙包みを胸の高さに持ち上げた。
「多分、これを盗まれなかったら、それと、盗まれたのを追いかけようとしてくれなかったら、結局何もしないままだったと思うから」
「今からでもいいんじゃないか」
「え?」
「彼女持ちにチョコレートを渡していけないなんて法律はない」
「もういいよ。駄目ってわかった、それだけで十分だよ」
コーヒーが苦い。さっきよりも苦みが増している気さえする。
「これあげるよ。渡す相手がいなくなったから」
僕は目を見張った。松野に渡すはずだった、さっきまでずっと追いかけていたチョコレート。
「それは受け取れない」
「今日は平日だから。飲み物のお返し」
彼女は包みを開け、中から一粒のチョコを取り出して自分の口に放り込む。そして、なおも僕に押し付けようとする。
「やっぱりレモネードには合わないしね」
結局受け取ってしまった。彼女に倣って一粒口にする。市販のものよりちょっとざらついているのは、カカオを自分でくだいたからか。それでも、苦みばかりになった口の中に、じわりと広がる。その甘さは、コーヒーの苦みと相まって、不思議と僕を幸福な気分にしてくれた。
温かい冬の夜だった。




