雪の兎はいなくなって……
「大丈夫か!」
野太い声が聞こえた。車のテールランプが赤く点滅して、ドアが開く。会社帰りらしいスーツ姿の男性が、僕らを認めると慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫か? 怪我は」
大丈夫です、と、北見さんは呟いた。僕も頷く。よかった、と男性はほっとしていた。僕は北見さんをその場に残したまま立ち上がった。男性の車の前方へ回る。不審に思ったらしい男性は、北見さんに少し質問をして、それから立ち上がるのに手を貸してから僕を追ってきた。
「何かにぶつかったんだ。動物だったと思う。君たち、何か追いかけていたのかい?」
車のヘッドライトが道路を照らしていた。路面のタイヤ痕は雪道にはっきり残っている。そこに、胸に抱えられるくらいの雪の塊が横たわっていた。
雪兎はこなごなに砕けていた。まず、首より下の部分は車とぶつかった衝撃でもう生き物の形をしていない。傍らには、胴体からもぎ取られた兎の頭部が転がっていた。額にはひびが入り、二本の耳はもげてしまって、さらに遠くに飛ばされていた。
僕は兎の頭部をゆっくり持ち上げた。慎重に扱わないと、ひびが広がって、こちらもこなごなに砕けてしまいそうだ。
「誰かが悪戯してたのかも、しれないです」
僕は言った。兎の頭部を見せると、男性は嘆息した。
「悪戯にしては、凄くよくできてるね。それ」
僕は兎の頭部を正面からもう一度眺めた。確かに、形だけ見れば本物と見まがうばかりだ。ただ、目の部分だけは、何か赤い木の実が埋め込まれているだけで、妙に作り物めいていて奇妙な印象だった。
男性は終始僕らのことを心配しながら、再び車に戻ってエンジンをスタートさせた。あとには雪兎の頭部と、僕と、北見さんだけが残った。
「あった」
男性の車が角を折れて見えなくなったところだった。北見さんはラッピングされた袋を持っていた。本人が主張するところによると、カカオをクラッシュするところから始めたらしい、とんでもなく手間のかかったチョコレート。
「よかったよ」
僕はほっとしていた。
「でも、そっちは……」
北見さんは兎の頭部を悲しそうな目で見つめていた。
「何か、変わったところは見つかった?」
僕は首を振った。
「ただの雪と、どこかから取ってきた木の実だよ。凄く器用な人が本気で作っただけだったのかもな。もしかしたら、僕らは本当に野良猫か犬を追いかけてただけだったのかも」
「私には猫にも犬にも見えなかったよ」
雪兎は、感情も生命もない瞳を僕に向けていた。ずっと手に持っていたから、ちょっとずつ体温が伝わって雪が解け始めている。歩道の片隅にそっと頭部を横たえると、なんとかくっついていた赤い木の実が、片方だけぽろりと落ちた。拾い上げる。本当に、どこでも採取できそうな、なんの変わったところもない木の実だ。僕はそいつを制服の胸ポケットにしまった。何がわかるわけでもないのだけれど、なんとなくそうしてしまった。
「それ、兎にそっくりな雪の像が、まるで生きてるみたいに走ってた。私も見てたから」
「わかった。でも。こいつはもう動いてくれないみたいだから」
僕は言った。
「それより、北見さん」
僕は努めて明るく、冗談みたいに聞こえるようにしたつもりだったけれど、本当にそう聞こえていたかはちょっとわからない。
「松野をのやつを殴りに行こうぜ」




