雪の兎を追いかけて?
僕らは敷地の周りをぐるりと歩き、校門の反対側に回った。フェンスに空いた穴からは、小さな足跡が伸びている。足跡は道路を横切り、学校の東側に広がる田圃に飛び降りてずっと走っていったみだいだ。
僕らも道路を横切り、田圃に降りる。足跡は広い田圃の上をあちこち跳ね回っていた。周囲より一段低くなった田圃に飛び降りたのはいいものの、逆に飛び越えて道路に降りることはできなかったみたいだ。コンクリートの側面には、ハンドボールくらいの大きさをした雪玉を投げつけたような痕跡があった。水のしぶきが飛び散った瞬間を写真に収めたみたいに、雪のかけらが飛散した跡が残っている。
「壁にぶつかって粉々になったのかもな」
「じゃあ袋がそのあたりに落ちてるはずだよ」
確かにその通りだ。
「私の持ち物には一ミリも興味がないことがわかったよ。別に、それでも全く構わないんだけど」
あちこち走り回り、急カーブし、右往左往する足跡を追って僕らも歩いた。その先は、なだらかに続く斜面に続いていた。コンバインやらの農業機械が出入りするためのスロープだ。雪兎はそこから上がったらしい。その後は、田圃の間を走る細い道を東のほうに走っていったようだ。最寄りの駅から延びる路線と併走する形だ。ちょうど、折り返しの電車が駅に到着するところで、田圃ばかりでやけに見晴らしのいい中を、がたがたと規則正しい音を立てながら電車がゆっくりとやってきた。黄色いヘッドライトが見え、それから四角く切り取られた車窓の光の列が続く。雪のせいで速度を落として運転しているらしく、頑張れば自転車でも追いつけそうだと思った。
気が付かないうちにすっかり暗くなっていた。そのかわり、空を覆っていた雲が去り始めて、月の明かりが地上を照らしつつある。嘘みたいな天気の変わり方だ。だがそのおかげで、足跡を見失うことはなくて済みそうだ。僕らは追跡を続けることにした。
田園地帯を走る細道を歩く。雪兎は、もう田圃の中に降りることは止めたらしい。
「ところでさっき、僕らの教室の前をずっとうろうろしてなかった」
「してないよ」
さも不思議なことを聞かれた、みたいな顔をする。彼女は演技が上手らしい。けれど嘘のつじつまを合わせる論理性はないと見た。
「あれ、もしかしてわかってない?」
彼女は意外そうな顔をした。どうやら僕は何かを見落としているらしい。続きの言葉を待ってみたけれど、彼女はそれ以上話をしてくれなかった。
「わかってるよ」
と言うだけ言ってみると、にやにやといやな笑みを浮かべ始めた。僕はひとまずその問題を棚上げすることにした。目の前のやることを片づけてしまうほうが先だ。
「ねえ、学校終わった後はいつもこんなことしてるの?」
「こんなことって?」
「不思議生物の探索」
不思議生物。十七年間生きてきた中で、そういう言い方は初めて聞いた
「時々」
「もう一回聞くけど、あれは何?」
「わからないとしか言えないけど」
「他にもいるの」
「いる、というか、ある、というか」
「なんでそんなものがいるの」
何とかなんでとか、小さな子どもみたいなことを言う。僕だって初めはそうだったから不満には思わない。僕だってよくわかっていない。ただ、どうやってもわからないという状況から進展しないということを理解できたというだけだ。僕は自分の思うところをそのまま話すことにした。
「重力加速度がだいたい十くらいなのと一緒だよ」
「へえ? どういうこと」
「僕らの持っている知識では、そういうものだと思って受け入れるしかないものなんだよ」
「じゃあなんで追ってるの?」
「今持っていない何かが得られるかもしれない、というか」
明らかに納得していない風だった。それも仕方がない。僕ですら全然納得できていないんだから。
「なんとなくわかったよ」
なんと北見さんは何かを理解したらしい。
「……本当に?」
「聞いても答えられないっていうことが、だけど」
北見さんは何かのスイッチを切り替えたみたいに話を止めてしまった。進められたとしても、僕から出せる情報は何もないんだけれど。ごめん、としか言えない。
「私よりもそっちのほうが絶望的なのかもね」
「嫌なこと言うなよ」
話をしているうちに田園地帯を抜けた。住宅地に出る。人が歩いた後や車のタイヤ跡が雪を汚しているけれど、とぎれとぎれながらなんとか足跡は残っている。これがなくなったら追跡は終わりだ。追いかけるにも当てがない。
「私の家がこのあたりなんだけど」
「確か松野も」
北見さんは頷いた。
「小学校から同じなんだよ」
「じゃ。幼いころはこの公園とかで遊んでたりしてたわけか」
傍らの小さな公園を通り過ぎる。ブランコと鉄棒。砂場の傍らで、小さな雪だるまが、鼻を模した小枝をこちらに向けていた。
「全然」
僕が勝手に想像していた、二人の小さな子どもが無邪気に遊ぶ姿は、その一言であっさり消えた。
「そろそろ教えてよ。松野に何かあるのか」
「それ本気で言ってる?」
北見さんの口調が激しい調子を帯びる。怒っているようにも驚いているようにも聞こえる。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「本当、信じられない」
北見さんは立ち止まった。街灯の明かりの真下にたつ。遠くには、住宅街を照らす街灯の明かりがぽつぽつと並んでいた。
「今日何の日か知ってる?」
「……冬の一日?」
北見さんは何かをこらえるみたいに口を一文字に結んでいた。
「今日は何月何日?」
「二月」
「何日?」
北見さんは怒りをこらえんばかりだった。
「……十日?」
「十四だよ」
彼女は僕が言い終えるのも待たなかった。頬が赤くなっているのは怒っているからなのかと思ったけれど、たぶんそれだけじゃないこともすぐにわかった。
「バレンタインデーなんだよ、今日。本当に気が付いてなかったの?」
「雪が降ってたし、そっちが珍しかったから、かも」
「本当、からかわれてるのかと思ったよ。そっちがおかしいだけだったんだ」
「おかしいなんて」
文句を言う気も全然起きなかった。それより、なんでこんな話をし始めたんだろう。珍しい雪と寒さに二人してやられてしまったのかもしれない。
「バレンタインデーなんて平日だよ」
「絶対言うと思った。けどそういう人達と一緒にしないで。後二回しかない。もしかしたら最後かもしれないチャンスなんだよ」
「二回……?」
「高校生のうちに、誰かにチョコレートを渡す機会は、人生のうちでたった三回しかないんだよ。それと知ってた? 受験が終わった三年生は自由登校なんだよ。三年生の二月十四日は、クラスに皆集まらないって」
この台詞だけ抜き出して聞いたら、きっと僕は発言主を心の底から馬鹿にしていたと思う。けれど本気で、心の底からそう思って、必死に訴える北見さんの声を聞いていると、なんだか自分が凄く悪い人間みたいに思えた。
「知らなかった」
僕は何と言っていいかわからなかった。けれど北見さんは聞いていないみたいだ。再び歩きながら、自分に言い聞かせるみたいに話し続ける。
「けどもう、見つけたところで手渡せないけどね。後悔先に立たずって言葉の意味が、嫌っていうくらいよくわかったよ。あの時、教室の前でうろうろしてないで、思い切って渡せばよかった。せっかく作ったのに。カカオを砕くところから始めたのに」
その声は自虐的な色合いを帯び始めていた。僕は彼女がどれくらい本気なのかを知らない。北見さんと松野の間にいつ何があったのかも知らない。僕のような部外者が口を挟むべきじゃないのかもしれないけれど、どうしても何がポジティブなことを言わないと済まない変な気分だったのだ。僕は携帯電話を取り出して適当にタップした。すぐに返事は来ない。
「まだ間に合うよ」
北見さんは目を丸くした。
「あいつはまだ塾にいるよ。明海塾、ってとこ。わかる?」
「わかる」
と頷く。北見さんの声は若干の興奮を帯びていた。
「わかるよ。ここから、目をつぶってもいけるくらい、よく知ってる」




