北見千里に気づかれて
僕は制服の上着を抜いて雪を払い落した。カッターシャツをばたばたさせて、内側に入り込んできた雪も落とす。風と雪が冷たいのをこらえて全身の雪を振り払い、もう一度上着を着直した。それから、道に沿って花壇の周りをもう一度調べてみたけれど、特に変わったものは見つからなかった。
時々、あんな変わったものを目にすることがある。それが何なのかは僕も知らない。だからこうして調べてみるのだけれど、たいていの場合は何も見つからないのだ。
もう諦めて帰ろうとしていたところで、誰かが下駄箱のほうから走ってくるのに気が付いた。がさがさ、と教科書の束が跳ね、ぱたぱたとキーホルダーが鞄の表面を叩く。下駄箱のほうから走ってきたのは、北見さんだった。
「あの」
呼吸がちょっとだけ乱れている。吐息は機関車の蒸気みたいに白く浮き上がり、冷たい空気の中に消えた。
「どうしたの?」
「松野くんと一緒にいたよね」
僕は頷いた。
「松野なら、さっき帰ったよ。親に迎えに来てもらって」
彼女はきょとんとした表情を浮かべた。
「え、なんで」
それは別に理由を聞きたかったからではないと思うけれど、僕は一応答えることにした。
「なんか、塾があるって」
僕としてはそれ以上言えることがない。
「どうかしたの」
「ううん、そうじゃないんだけど。あの、ごめん、ちょっと待って」
彼女は肩から掛けた鞄のチャックを開けると中に手を入れた。彼女は、口元をリボンで結んだ包みを取り出しかけて、そこで止まった。
「いや、でも、それはおかしいよね」
彼女は自問自答を始めた。僕と、鞄の中身と、僕らの頭上にある教室とを順々に眺める。がさり、と、僕の後方で何か小さな生き物が立ち上がったような音がした。振り返ろうと思わなかった。僕は彼女が何をしようとしているのかわからなかったからだ。
「あの、それは……」
僕が言い終える前に、僕の足の間を何か小さなものが通り過ぎて行った。一瞬、何かわからなかった。それは雪の上を稲妻みたいに駆け抜け、突然のことでとっさに動けない北見さんをめがけて一直線に向かっていく。まるで世界が静止したように思えた。そいつは長い耳を後ろに反らし、四本足で地面を捉え、走る。そして、北見さんの手元にめがけて、強く地面を蹴って跳躍した。
「あっ」
と聞こえた声は悲鳴とも戸惑いとも取れなかった。鞄が地面に落ちる。跳躍を終えて地面を捉えた生き物の口には、ラッピングされた包みがくわえられていた。そいつは僕らのことを振り返ることもなく、白い弾丸みたいに雪の上を校庭のほうへ駆けていく。
僕は自分の後ろを振り返った。誰も踏み荒らしていない道端の雪だまりに、サッカーボール大の穴が開いているのに気が付いた。
多分、その穴を満たしていた雪が、生き物の正体なのだ。僕はそいつの後を追った。
「待って」
北見さんが追いかけてくる。鞄は雪の上に置きっぱなしだ。
「今の何?」
走るリズムに合わせて声が揺れる。
「僕もわからないけど」
僕らはそいつを追って中庭を抜けた。
「……雪兎? だと思う」
「見ればわかるよ」
ぴしゃりとはねつけるように言う。
歩道を外れてグラウンドに降りる。まだ誰も足を踏み入れていないグラウンドは巨大な雪原になっていた。その中央には小さな兎の姿が見える。僕らはその後を追ってグラウンドを突っ切った。
雪兎は敷地を囲うフェンスの前で止まった。左右を見回すと、口にくわえたままの袋と長い耳がぶんぶん振れた。耳の先端から、氷か水のつぶてが飛び散っている。日に当たって体が解けると死んでしまうんだろうか。そもそも、僕らの思う生命みたいなものがあるのかわからないけれど。
僕らはスピードを落としてその場で立ち止まった。雪兎は僕らを品定めするみたいにじっとこちらを見つめてくる。
一歩踏み出そうとする僕を、北見さんは手で制した。声を潜めて、
「ちょっと待って、ゆっくり行ったほうがいいよ」
僕らは数メートル離れて雪兎と向かい合った。理想の熱機関のごとくじりじりと距離を詰める。僕らは左右に分かれて、できるだけ雪兎の逃げ道をふさぐように動いた。
あと一メートル。僕は北見さんのほうを見た。目が合うと、彼女は小さく頷いた。……それがどういう意味なのかはよくわからない。阿吽の呼吸で獲物を追い詰めるには、僕らはお互いのことを知らなさすぎるのだ。知っていることなんて、名前とクラスと性別くらいだ。
北見さんは一歩踏み出した。機敏に反応した兎は地面を蹴り、フェンスに沿って走る。僕がその進路をふさぐと、急にターンして後方に走りだした。
北見さんの足元を抜け、草むらの中に飛び込んだ。
「速すぎるな」
「けど追い詰めた」
がさりと葉っぱが揺れ、積もっていた雪が落ちる。僕らはゆっくり近づいた。そして、二人同時に草むらの裏を覗き込んだ。
草むらの影、フェンスに穴が開いていた。兎一匹が通り抜けるには十分な大きさだ。
ため息を吐いたのも同時だった。彼女は自分の肩に手をやって、あれ、とつぶやいた。
「鞄どうしたっけ?」
途方に暮れたような声と一緒に、ぽかりと白い息を吐く。冷たい風が吹いてきて、熱くなった頬を刺し熱を奪っていく。僕らはどうしようもなくその場に突っ立っていることしかできなかった。
グラウンドを横断して元の場所に戻る。校庭にも教室にも、生徒はほとんど残っていなさそうだった。北見さんは鞄を拾い上げると、ぱたぱたと雪を払い落とした。
「ああいうの、よく見るの?」
と聞かれた。
「時々」
北見さんは口を開きかけて、止めた。何を聞いていいのか見当がついていないのだと思う。逆の立場だったら、僕だって何から始めたらいいのかわからなかっただろう。
「いきなり走り始めたから驚いたよ」
深く考えることは諦めたようだった。
「逃がしたくなかったんだ」
「どうして?」
北見さんは不思議そうな表情を浮かべていた。
「なんか、大切なものっぽかったから」
雪兎が口にくわえて盗んでいったもののことだ。北見さんは目をそらした。
中庭を通り抜け、僕らは校門を出て、校舎に沿った道を歩いた。路面の積雪には車のタイヤ痕や足跡が無数にスタンプされていた。そんないい人には思えなかったけど、と北見さんはひどいことを呟いた。
校舎の角に行き当たった。小さな交差点だ。まっすぐ進めば駅に、右に折れると敷地の裏側だ。
「じゃあ、僕はこっちに行くよ」
校舎の裏に続く方向だ。
「え?」
「足跡が残ってただろ。ちょっと行って捕まえてくる」
「嘘」
北見さんは立ち止まった。
「そこまでしなくても、もう遅いし」
「どっちにしても歩いて帰るつもりだったんだ」
やっぱりいい人じゃないじゃんと北見さんが言ったのが、聞こえなかったけれど口の形でなんとなくわかった。
「北見さんはどうするの」
北見さんは俯いた。迷っているみたいだ。
ちょっと家に帰りつくのが遅くなるのと、寒い思いをする時間が長くなるだけだ。けれど、北見さんにはどうするか決めるために、ちょっとした勢いを必要としているみたいだった。別に試すつもりなんてなかった。他人に選択を強いるみたいなことをする権利なんて僕にはないのだ。
「私の家もそっちのほうだから」
彼女は自分を説得するために少々の時間を必要する人なんだと思った。
「北見さん変わってるな」
北見さんは明らかに不満そうな顔をした。
「それ絶対ほかの人に言わないほうがいいよ」
それだけ言うと、北見さんは僕を置き去りにするみたいにさっさと歩きだした。




