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雪の兎を捕まえて  作者: ミズノ
2/8

友の苦言を振り切って

「電車遅れてるみたいだ」

 放課後の雪は嘘みたいに止んだ。分厚い雲の隙間からは時々薄い夕日が差し込むのさえ見えた。松野は携帯をいじりながら、新しい情報を見つける度に驚きの声を上げている。

「雪で電車が止まるなんて初めてだよな、これ見て」

 松野はSNSの投稿の一つを僕に向けた。駅のホームの写真だ。改札口の外から撮影したものらしい。

 見慣れた赤い電車は雪でところどころが白く染まっていた。ホームには人があふれんばかりに集まっている。みんな、肩や頭に雪のかけらをくっつけている。投稿の文面は

『今日は帰れるかなあ……』

 と、ため息が聞こえてきそうな調子だ。投稿主はこの後どうしたんだろうか。

「松野はどうする?」

 僕と松野は電車通学だ。だから行きと帰りはよく一緒になる。どうすっかなあ、と松野は困った様子をにじませながらもちょっと楽しそうだ。実を言えば僕もそうだった。雪で電車が止まるなんて。これまでの人生十七年間で一度も起こらなかったことだ。こんな、一生かかっても解け切らないんじゃないかと思うような量が降ることなんて。

「親に連絡だな」

 遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。校門のほうからだ。中庭を抜け、渡り廊下のアーチをくぐったところに校門がある。校門の近くには、すでに数台の車が停まっていた。待ちかねていた、と言わんばかりに、マフラー姿の女子生徒の一人が車に飛び乗った。

 車は次々にやってくる。そのせいで、狭い学校前の道路がちょっとした渋滞になりかけている。誰かがクラクションを鳴らす音が短く聞こえた。

「お前もついでに送って行ってもらうか?」

 僕はちょっと考えた。

「電車で帰るよ」

「は? さっきの話全然聞いてなかったな」

 僕は中庭をぼんやりと見下ろしていた。帰途を急ぐ生徒が雪に足跡をつけていく。深く積もった雪は十センチくらいはあるだろうか。晴れ間の多いこの地方では珍しいことだ。

「そっちのほうがなんか面白そうだろう」

「意味わかんねーよ。帰れなかったらどうするんだ」

 松野は携帯を操作し終えるとポケットにしまった。

「いざとなったら線路沿いを歩けばいいかなと思って」

「そっか、悪いな。俺は先に帰るぞ。……塾があるんだ」

「塾?」

「二か月後にはもう受験生だろ」

 高校二年生の二月。一生で一番楽しいらしいと聞く一年はもうすぐで終わりだった。

「まだ違うよ」

「お前は成績はそこそこいいからな……。でも、いつまでもボケっとしてると困るかもしれないぞ」

 説教臭いことを言われてしまった。別に悪意はないから気にならない。松野は僕に言っているんじゃなくて、ボケっとしていたい自分自身に向けて話しているのだ。

 教室にはまだ何人かの生徒が残っている。廊下には帰途を急ぐ生徒の姿がぱらぱらと見受けられる。誰かを待っているのか、教室の後ろの扉から中を覗き込んでいる女子生徒が目に入った。彼女は僕と目が合うと、何も用事なんてないとばかりに再び歩き出した。そっちは下駄箱とは逆の方向だ。忘れ物でもしたんだろうか。

「その時は松野になんとかしてもらうよ」

「お前なあ」

 生産性のない会話で潰す放課後はなぜ楽しいのか。行動というのは、社会的な価値を生まなければ生まないほど人を楽しい気分にしてくれるのだ。

「春休みになって欲しいけど、なって欲しくない気分だ」

 松野は嘆息した。

 ぱたぱたと、廊下を人が歩いてくる音が聞こえる。さっきの女子生徒がまた歩いてきたのだ。まっすぐ帰途を急いでいるように見えるけれど、ちらちらと教室の中の様子をうかがっているのがわかる。耳元で切った短い髪、銀縁の眼鏡、中性的な顔立ちで、実は男子生徒が女装していたと言われてももしかしたら納得してしまうかもしれない。そういう人は珍しい。松野なんか、角ばって掘りは深く、太くきりっとした眉毛がいかにも武道に生きる男といった感じだ。実際、剣道は強いらしいが勉強は好きではない。いざという時にはすぱっと決断して後戻りしない。

 人は自己イメージの通りに自分の性格を変えてしまうのか、性格が自然と自己イメージを形成してしまうのか、どっちが先に来るのか僕にはわからない。

 銀縁眼鏡の女子生徒は、後ろ扉の向こうに歩き去る直線にちらりと教室の中をのぞいていった。松野は背を向けているから気づかない。僕が口を開こうとしたところで、リズミカルな電子音が響いた。

「悪い、俺だ」

 松野はポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。相手に一言二言告げて通話を切る。

「来たみたいだ。先に帰るよ」

 松野は机の上に広げたノートと筆記用具を素早く片づけた。迎えが来てくれたらしい。

「乗っていかなくて本当にいいのか?」

「うん」

 松野は不可解で仕方がないという思いを隠そうともしない。

「これが最後だ、いいのか」

「いいよ」

「変なやつ」

 じゃな、と松野は手を挙げて立ち上がり、教室から出て行った。僕は松野が中庭を通り過ぎて校門を出ていくのを見送ってから廊下に出た。

 外に出ると突然寒くなる。人間はそれ自体が発熱体なんだということがよくわかる。あの狭い教室に四十人近くを閉じ込めていたら、おのずと部屋の中も温かくなるのだ。

 窓から見える木々は雪に覆われて真っ白で、なんだかいつもと違う世界に来てしまったような気分になる。

 廊下を歩いて教室の並びを通りすぎる。ふと中を覗くと、二つ隣のクラスに、さっきの銀縁眼鏡の女子生徒が立っているのが目に付いた。

「北見さんさっきからどうしたの?」

 と聞こえた。銀縁の子、北見さんのクラスメートらしい生徒が問いかけるのが聞こえた。北見さんはごにょごにょと何か返事をしたみたいだけれど、ここまでは聞こえなかった。

 下駄箱で靴を履き替えて外に出る。すでに踏み固められて道ができた雪の上を歩いていく。一日かけて雪原と化した校庭を横目に見ながら校舎をぐるりと回り、中庭に出る。ほとんどの生徒はもう帰宅してしまっているのか、誰も人は見当たらない。そっちのほう都合がいい。

 僕は中庭を囲む四方の校舎を見上げた。誰も見ている人はいない。僕は歩道を外れて花壇の周りを調べた。

 さっき白い兎のような生き物が顔を出した場所だ。花壇の裏側に回り混む。生き物の姿も、足跡も、痕跡は何も残っていない。引き返そうとしたところで、植木の枝に肩を触れてしまって、積もっていた雪が一気に落ちてきた。どさっ、と重量感のある音。そのせいで、何人かの生徒が窓から顔を出した。

 僕は顔を上げた。真向いの教室の窓に銀縁眼鏡の顔。北見さんだ。北見さんは僕をしばらく見下ろしていたかと思うと、ぱっと身をひるがえして教室の奥に消えていった。


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