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マッサージ


「先生、ほ、本当にいいんですか?」

「…………」

「先生?」

「……大丈夫よ。私が手取り足取り教えてあげるから」

「さっきと言ってることが違う気が……」

「とにかく大丈夫よ。心配しないで」

「は、はい、じゃあ……脚、広げてください」

「ええ。じゃあ……来て」


 先生がそう呟くのを聞いた僕は、意を決してそっと手を触れ、壊してしまわぬように優しく力を込めて……その背中を押した。


「先生、このぐらいで大丈夫ですか?」

「もう少し力を入れてもらえるかしら。あまり気にしなくていいわ。こう見えて体は軟らかいほうだから」

「わかりました」


 はい。今僕は先生のストレッチを手伝っています。別に変な事はしていません。まあ、誰もそんなことは考えていないだろうけど。

 両手にガンガン伝わってくる先生の体温に、ひたすら落ち着かない気分になりながら、それを悟られぬようにゆっくりとその背中を押す。

 すると、先生の体が息を吐く音と共に畳に沈み込む。うわ、本当に軟らかいなぁ。何だか新体操の選手みたいだと思ったが、先生の艶めかしいレオタード姿が浮かんできたので、頭を振り、その姿を取っ払う。な、何考えてんだ、僕は!

 気を取り直して、先生に指示されるままにストレッチの手伝いをする。

 それが静かな時間が10分くらい続いたところで、先生がこちらを振り向き、沈黙を破った。


「祐一君」

「はい?」

「自分に自信、ない?」


 何の前触れもない、意味のわからない、輪郭の掴めない問いかけ。でも、図星をつかれたように内心は焦っていた。

 僕は戸惑いながら聞き返す。


「ど、どうしたんですか?いきなり……」

「君を見てると、たまに考えてしまうの……」


 無表情のまま、先生は言葉を選ぶような間を置き、ゆっくりと口を開いた。


「君は自分が人から好かれるわけがないとか、そんな風に考えて自分の感情に蓋をしている気がするのよ」

「…………」


 先生の言葉は、スコップのように脳内から過去を掘り起こした。


『いや、アンタのことなんて好きなわけないじゃん』


 胸の奥がチクリと痛む音がした。

 とっくに忘れたと思っていたのに……。

 とっくに忘れられてるはずなのに……。

 それでもはっきりと心に棘は刺さったままだった。


「祐一君?」

「あ、いえ、何でもありません。その、何て言うか……っ」


 気がつけば、先生の両手に顔を挟み込まれていた。

 さっきまでの背中の温もりとは真逆のひんやりした感触に、火照った頭を冷やされていく。

 そして、先生としっかり見つめ合う態勢になる。何度見つめ合っても、未だに慣れない。慣れる日なんてくるのだろうか。

 その漆黒の瞳に、薄紅色の唇に目を奪われていると、清らかなせせらぎのように、すぅっと先生の声が響いた。


「真っ直ぐに見て」

「?」

「君はまず自分の気持ちを真っ直ぐに見て。それは悪いことなんかじゃないから。君が思ってるより、ずっと素敵なことだから」


 そう言葉を紡いだ後の瞳は、これまでとは違う揺れ方をしていた。

 僕はただ見とれながら返事することしかできなかった。


「…………はい」

「じゃあ、まず私のことを「先生、そこまでですよ」「やっぱり抜け駆けしようとしてる……」あなた達、きちんと体は温めた?湯船では100まで数えた?夏だからといって「ああ、もういいです」


 いつから近くにいたんだろうか、先生の言葉をかき消すように割り込んできた2人は、どこか不満げな先生の視線をさらりと受け流し、僕の顔を掴んでいる先生の両手を優しく剥がす。

 しかし、先生がそれを拒否するように、両手に力を込めた。あれ?結構力強い。ぶっちゃけ痛い!いたたたた……


「先生、往生際が悪いですよ。はやくお風呂に入って、汗でも流してきてください。あと煩悩も」

「そうだよ、お姉さん。湯船に入ったら、ちゃんと100まで数えるんだよ」

「……さすがに一緒に入るのはまだ……」

「「そんなこと言ってません!!」」


 3人のやりとりを呆然と見ていると、先生は僕の頭を解放し、今度はてっぺんをさらさらと撫でる。


「祐一君」

「は、はい……」

「さっき私が言ったこと、忘れないで。すぐにわからなくてもいいから」

「…………はい」


 先生は優しい微笑みを残し、居間をあとにした。

 真っ直ぐに見て……そんなありきたりなフレーズが、胸にじんわりと染み渡り、心の奥で凍っていた何かを溶かしていく。そこから顔を覗かせたものが何なのか……今はそれがわからなかった。

 先生の背中を見送った奥野さんは、肩をすくめ、溜息を吐いた。


「ふぅ……まったく、油断も隙もないんだから……ん?どしたの、浅野君?顔赤いけど」

「お兄ちゃん?」

「え?あ、いや、何でもないよ!」


 慌てたのを不審に思ったのか、奥野さんは目を細め、距離を詰めてくる。クラスメートの風呂上りの姿は、何だか新鮮で、やはり甘い香りがした。こんな状況じゃなければ、変な想像をしていたかも……

 でも、奥野さんはそんなことどうでもいいのか、僕の正面に膝をつき、ジロリと睨んでくる。


「……ちなみに、先生とは何を話してたのかな?」

「え?…………よくある世間話だけど。ほら、最近学校はどうかとか……」

「いや、先生は知ってるでしょ、そんなの……」

「そうだよ。お兄ちゃんがノートに必要のない迷路書いてるのなんて、私でもわかるよ」

「な、何言ってんだよ、そ、そんなの中学1年で卒業したよ……」


 隣に腰を下ろした若葉は、しょうもない過去をばらしてくる。あんなの皆やるだろ。そして、実際に攻略することはあまりない。


「と、とりあえず迷路は置いといて!先生と、その……エッチな話とか……」

「何で!?」


 何をどう考えたらそうなるんだろう?いや、僕のせいなのかもしれない。女子は男子の下心がわかるらしいし。え?でも、下心っていっても、先生に積極的に変な目を向けたりは……いや、でも……

 結局、先生が風呂から上がってくるまで、この尋問は続いた。

 その間ずっと、頭の片隅で先生の言葉の意味を考えていた。

 

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