若葉
何故か窓の外を見て、悲劇の映画のヒロインみたいに佇んでいる先生はひとまず置いておくことにして……あ、復活した。
そして、僕の隣にゆっくりと正座した。だ、大丈夫なのかな?
何とも言えない表情をした奥野さんが先生に何事か耳打ちしている。
「先生、先生!何ダメージ受けてるんですか!確かに私もびっくりしましたけど、ほっぺにキスだけですよ!しかも、浅野君は全然気にしてませんよ!」
「何の事かしら……キス……キス……」
「……ああ、ダメだ。てか何で私がフォローしてんのよ!」
先生から離れた奥野さんは、若葉の前に座り、優しげな笑顔を向けた。
「若葉ちゃんはここまで一人で来たの?お父さんとお母さんは?」
「パパとママはお仕事が忙しいから1人で来たの。若葉はもう小学5年なんだから……」
まだ奥野さんに対して、警戒しながら答える若葉。そっか、叔父さん達は相変わらず忙しいのか……。
そういえば、僕が若葉ぐらいの頃は、乗り換えを間違えて大泣きしたっけなぁ……あの後の記憶がないや。どこまで行ったんだっけ?えっと……とても遠い田舎町だったような……いや、今は思い出さなくていいや。
うっかり回想に耽りそうになり、慌てて我に返る。
若葉と奥野さんは、どちらも持ち前のコミュ力で、もう打ち解けていた。
「じゃあ、今日はここに泊まっていくんだね」
「うん、今日から1週間」
「え!?」
「1週間……」
「ダメなの?」
「いや、別にいいけど。ただ母さんが出張で1週間いないから、大したおもてなしはできないよ?」
「叔母さんがいない……そっか、じゃあ……二人っきりだね」
「ん?あれ?話が変わってる?お~い。戻ってこ~い」
しかし、1週間か……。
服はもちろん持ってきてるだろうし、泊まれる部屋もある。後は食事だが、大したレパートリーもない僕の技術じゃ……まあ、仕方ないから、外食を織り交ぜながら……。
「じゃあ、私が時折様子を見に行くわ」
先生が、さっきまでの様子が嘘みたいに、いつものクールな雰囲気を身に纏っている。どうやら具合が悪い訳じゃなさそうだけど……。
「あの、いいんですか?」
「ええ。何なら食事も私が作るわ。君だけでは色々と大変でしょう?」
「いや、さすがにそれは悪いですよ……」
「これは担任としてではなく、1人の大人として言ってるの。1週間だけとはいえ、小学生のお子さんを預かるという事は、君が思ってるよりも、ずっと大きな責任を伴うのよ」
「は、はい……」
「……物は言い様よね」
奥野さんが何か呟くのを聞きながら、僕は自分の浅はかさが恥ずかしくなった。
確かに、あまりにも軽く考えすぎていたかもしれない。
こうして、優しく諭してくれる先生に、僕は心からの尊敬と感謝を覚え……
「え~、私がご飯作ろうと……「いや、それは勘弁して」
去年食べた砂糖たっぷりのチャーハンはちょっとしたトラウマだ。砂糖と塩を間違える奴が本当にいることを、僕はこの時初めて知った。ていうか、いらんことを思い出して、感動が台無しだ。
気を取り直し、僕は先生に頭を下げた。
「あの、先生……よろしくお願いします」
「大丈夫よ。じゃあ、さっそく今晩からお邪魔するわね」
「あっ、ずるい!私も……あ、もう帰らなきゃ!ていうか、明日から私、1週間長野のおばあちゃんの家に行くんだった!」
何故か頭を抱える奥野さんの肩に手を置き、優しく諭すように語りかけた。
「奥野さん。離れて暮らすご家族に会いに行くのは大事なことよ。あなたの元気な姿を見せてあげなさい」
「……言ってることは教師としてこの上なく正しいはずなのに、何だか先生が黒く見えるんですけど」
「何の話かしら」
「……絶対に変なことしちゃダメですよ」
「まずはあなたが破廉恥な妄想を止めなさい。私は担任よ。そんな事しないわ」
「……お兄ちゃん、この人達怖い」
「…………」
確かに2人の間には、覇気のような威圧感漂うオーラが……。
いや、気のせい……だよね?
*******
先生は一旦学校へ戻り、奥野さんは家に帰り、再び僕と若葉だけになった。
若葉はこちらにジト目を向けながら、やや冷たい声音で聞いてくる。
「それで、お兄ちゃんは私というものがありながら、どっちと浮気してるの?」
「いや、違うから。しかも浮気って……あの2人は担任の先生とクラスメートだよ」
「ふぅ~ん。でも心配だなあ、どっちも胸大っきいし」
「…………」
それは否定しない。揺るぎない事実だ。
背中やら肩やらに押しつけられた先生の柔らかい温もりが、急に脳内に蘇り、胸の鼓動を優しく揺すってくる。
「お兄ちゃん、目がいやらしい」
「き、き、気のせいだよ!」
「お兄ちゃんってさ、あの眼鏡のお姉さんみたいな人、好みだよね?」
「…………」
いや、確かにそうかもだけど…………そうなのかな。
先生はものすごく美人だし、気遣いできて優しいし、それでいて悪いところは悪いって言ってくれる大人の女性で……手が届かない遥か彼方の星みたいで……。
いや、何考えてんだよ、僕は。分不相応にも程がある。
「……顔真っ赤だよ?」
「ち、違うよ、そんなんじゃ……」
「じゃあ、もう1人のちょっとギャルっぽい人?」
「だ、だから違うっての。その話は終わり」
「やっぱり若葉が1番だよね!」
「…………」
「あっ、無視した!」
しばらくの間、夏の暑さによく似た顔の火照りはとれてくれなかった。