かみをいただく、男の話
あるときある街に、とっても風変わりな男がいた。ぼろぼろの布を体に巻いて洋服と言っている男だ。
ある、仕事盛りな男性は男をさっきからじい、と観察していた。というのも、その男はパンツの後ろポッケに短い木の枝を挿してゆうゆうと図書館内をうろついていたのである。なんだか怪しいぞ、と思ったのだった。
それで、さしあたって彼はちょっと話をしてみることにした。「こんにちは、いったい何をお探しですか? 手伝いましょうか?」すると男は、さっきからずうっとうろついていた棚の、ぴっちり並んだ本のうちの一冊を背に指を添えて言った。
「ああ、うん。手伝いはいいよ。だって、もう見つけてはいるからね」
「では……?」
怪訝な顔をしていると、男は人の好い笑みを浮かべて、
「かみの、この辞書が欲しいんだ。これ、くれないか」
男性はうーん、とうなった。どうしたものか。図書館が何たるかを知らないらしい。ここはひとつ、図書館がよくある普通の書店じゃなしってことを分からせようか。
しかし彼は、「だめですよ。ほかの人が読みたくても困ってしまいますから」としか言えなかった。図書館の司書たる者、相手がどんな奴だろうと罪人でもなければ公平に、親密にせねばならないのだ。なんてことだ! 彼は自分の気持ちをひた隠し、まず間違いなくとびっきりの作り笑いでもってこの事態を切り抜けてやろうと思った。
男はさきほど彼がしたように、うーん、とうなっていたが、おもむろに尻ポッケから例の、ほそっこい棒切れを取り出して、本の背を小突いた。
いったい、何してんだこいつ。
男性は疑問符を五つくらい頭の中に増殖させて、自然、眉根が寄せられた。
「では」
男が何故かあのボロ本を手にして、何食わぬ顔で去ろうとした。彼はあわてた。
「おいおい、ちょっとま――ちなさい」あやうく、素が出るところだった……。
男は彼に呼び止められて、きょとっと振り向いた。「なんですか?」なんですかじゃねえよ! と言いたいのをぐっとこらえて、彼は本を差して言った。
「それ、もってっちゃだめですよ!」
「なんでだい」
「一冊しかないんですから。窃盗罪ですよ」
「あるじゃないか。さっきの棚に、一冊」
「は?」
――……不思議だ。確かにある。でも、あの男の手にも同じものがあるのだ。
「おれは、この本のみたいんだ。だから、代わりに、この本と中身は全く変わらないけれどもピカピカの新品を」
「……それなら、いいでしょう」
後で苦情が来ないなら別にいいか、そう思った司書はうなずいた。「しかし、何故それが欲しいんです?」
「そりゃ決まっているでしょう。こうして……」
そう言うと男は本を片手に口を大きく開けた。そして、パクリ。
「え」
もぐもぐと食べてしまった。
「ごちそうさま。でもまだ、たりないなあ……」
「な、何なんですか?! あなた、今」
「ええ、本をいただきましたよ?」
彼はあんぐりと口を間抜けに開けて男の手のひらを指差した。
すると男は困惑する彼の肩をポンと叩き、にいっと笑った。「いえね、かみと関係があるなら、例えば一部がかみでなくても、ペロッといけちゃうのです」
「食べる? 紙を? 聞いたことがない! そんなのヤギくらいでしょう、せいぜい」
「いや、ほかの動物だってかみくらい食べますよ。猫とか」
「猫!」と男性は叫ぶように言った。彼は猫が大好きだった。猫のことなら何でも知っているつもりであった。が、今日この瞬間それを否定しなくてはならなくなった。と思った。それで男とまるで知識比べするように二人して雑談に花を咲かせた。
しばらくして、客がいっぱい入ってきたからもう持ち場に戻らなきゃならなくなった。そこで司書は、知らないことがたくさん聞けたな、とほくほくして-知識欲の塊みたいなやつだ! ―初めとは全く異なる扱いを男にして、にこにこ離れようとした。
その、男があっとこぼした。何だと思って男性は男を見た。
「ところで……?」
ああ、名乗っていなかったな、と司書はにっこりと笑い、会釈した。
「神山航大と申します」
男はまた、にい、と笑った。「あ、そうなんだ。じゃあ、いただきます!」
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
その日以来、神山さんは姿を消した。みんなちょっと首をひねって不思議そうにした。だって、あの司書のネームプレートがすべてなくなっていたし、突然だったし。とにかくそれで、この図書館には神山という司書はいなくなった。代わりに、山さんという、若い司書が配属されたそうだけど。
でもこれって……なんだろうね。