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三日月と黒猫

作者: 大滝 未夢

「ただいまー」

僕、芦見香月(あしみかづき)が彼女と暮らすアパートに帰ったのは、夜の10時過ぎごろだった。

二人で暮らすには、広さも家賃もちょうどいい部屋だ。

「…おかえり」

彼女、三黒嶺琥珀(みくろねこはく)は玄関すぐ横の、キッチンに立っていた。

肩で切り揃えた黒髪。後ろ髪と同じくらい長い前髪は左寄りに分けている。目はいつも眠たげに細め、顔色はあまりよくない。青紫のセーターに、ショートパンツという出で立ちだ。

「あ、今日仕事休みだっけ」

琥珀はこくりと頷いた。

「いつぶりだっけ。話せたの」

「…4日くらい」

「あー、そんなにか」

と、いい香りが鼻腔をくすぐる。

「今日カレー?」

「そう。久しぶりだし、一緒に食べようと思って待ってた」

「ありがとう。すぐ着替えてくる」


こうして話せることは、珍しく、とても嬉しかった。

僕が帰るころ、彼女は仕事に行ってしまう。

翌朝僕が目覚めるころ、彼女は眠りについてしまう。

ずっとその繰り返しだ。



二年ほど前。その日は、三日月が輝いていた。

僕が琥珀と出会ったのは、深夜のコンビニだった。

当時大学の夏休みだった僕は、近くの24時間営業の飲食店でバイトをしていて、その帰りだった。

そこで偶然、万引きの容疑をかけられていた琥珀に会ったのだ。なんだかんだで僕は彼女の容疑を晴らした。

琥珀はそのまま帰ろうとしたが、僕は心配で送ろうとした。そしたら「ついてこないで」と言われてしまった。確かに普通に考えたら、年頃の少女が見ず知らずの男に家を知られるのは嫌だろう。まだ暗いけど、夜が開けそうだし、大丈夫かな。それを口に出したとたん、琥珀の顔色が変わった。時間を聞かれ、5時少し前と答えたら、彼女は突然走り出した。

そして、倒れた。走っているスピードのまま、手もろくにつかないで地面に倒れた。急いで駆けつけると、全身擦り傷だらけで気絶していた。

救急車で病院に向かうと、琥珀の主治医だという女性に会った。彼女から聞いた話しはにわかに信じられないものだった。

琥珀は、日の入りに起き、日の出に寝てしまうのだと言う。どんなところでも、どんな状況でも、日の出に寝てしまい、何をしても日の入りまで起きない、原因不明の病におかされている。

自分勝手だが、琥珀を放っておけず、彼女が起きるころ見舞いに行った。最初はストーカー扱いされた。ショックだったが、彼女と話したかった。

今思うと、出会ったときから、僕は琥珀に恋をしていたのだ。

しばらく検査入院するという琥珀に、しつこく会いに行った。よくよく考えると、立派なストーカーだった気がする。

でも、初めて彼女が笑ってくれた日、彼女が心を少しだけ開いてくれた日、琥珀はなぜか、二つ返事で告白を受け入れてくれた。


僕らはいつも、眠っているお互いにしか会えない。

側にいてくれるだけでいい。でも、ときどき、もっと一緒に過ごせたらいいのにと思ってしまう。



カレーを食べ終えてテレビを見ていたとき、ふと聞いて聞いてみたくなった。

なぜ琥珀は告白を受け入れてくれたのだろう。なぜ少し付き合って、同棲まで受け入れてくれたのだろう。

「ねえ、琥珀」

「何?」

琥珀は夜間の高校、大学に通い、子供が好きで保育士の資格を取った。今は夜間保育所で働いている。実家は田舎で、高校のころからひとり暮らしだったらしいが、想像できないような苦労があったんだろうな、と思う。

「琥珀は…どうして僕と付き合ってくれたの?」

「…どうして?」

「うん、いや、会った頃の僕ってわりと一方的だったじゃん。琥珀もストーカー扱いしてたし。だからどうしてかな、って」

「…逆に、どうして香月は、私を好きになってくれたの?」

その質問は予想してなかった。

「え、と…なんでかな?」

「私は…」

琥珀は何か言いかけて止めてしまった。

「…琥珀?」

「なんでもない」

この話しは終わりにしよう。

そう思っていた。

「香月」

「何?」

「私達、別れようか」

何を言われたのか、理解に時間がかかった。

「な、なんで急に?」

琥珀は答えてくれなかった。

何か怒らせてしまったのか。

何も言ってくれないまま、また朝が巡ってきてしまった。



急いで仕事から戻ると、琥珀の姿がなかった。本当に、出ていってしまったのだろうか。時間は10時30分を回っている。

もともと少なかった服も小物類もすべてない。

本当に、フラれてしまったようだ。そもそも琥珀が僕なんかを好きになってくれだけで奇跡なのだ。だから、泣くな。

涙は溢れてくる。失恋は初めてじゃない。だが、前のとは比べ物にならないくらい辛い。

予感はしていた。仕事を休んで話だけでも聞きたかった。もっと早く帰ってくればよかった。後悔してももう遅い。静かな部屋に、嗚咽が響く。

突然、電話の着信音がした。誰だろう。上司だろうか。今は電話に出たくないのだが、大事な用事だったら困る。

相手は…。

「琥珀!?」

焦って携帯を取り落としそうになりながら、僕は電話にでた。

「も、もしもし…」

『あー、もしもし?』

「え?どちら様ですか?」

女性の声だが、明らかに琥珀のものではない。

『いきなりすいませんねぇ。琥珀の彼氏さん?』

「あ、いや…」

『あたし、琥珀の友達の宇崎ですけど、琥珀、居酒屋で酔いつぶれちゃって、あたし用事あるんで、迎えに来てくれません?』

居酒屋?琥珀、酒は飲めないって言ってたはずだけど…。

僕はとにかく、居酒屋に向かった。



琥珀は本当に酔いつぶれてしまっていた。傍らには服が入ったカバン。

「ちょっと、彼氏さん?あんたさ、この子になんかした?」

「なんかって…?」

ついてそうそう、宇崎さんに怒られた。気がつよそうな仕事バリバリやっていそうな人だ。酒も強いらしく、琥珀の5倍ほど飲んだようなのに、全く酔っていない。

「琥珀、人を呼び出してあんたののろけばっか話してたと思ったら、急に泣き出したんだけど。別れたくないって言ってたよ」

「え…?」

昨日言ってたことと真逆じゃないか。

「とにかく、話し合いなさいよ。今度琥珀泣かせたら許さないからね」

そう言い残し、宇崎さんは帰っていった。

「琥珀?大丈夫?」

頬を軽く叩いてみるが、意識がはっきりしていない。小さなうめき声がするだけ。

僕は琥珀を背負って、アパートに戻ることにした。いくら琥珀が軽いとはいえ、けっこう重労働だった。

「琥珀、アパート着いたよ」

僕は玄関に琥珀を下ろした。荷物も下ろし、腰をおろす。疲れた。すごく疲れた。

「…香月」

琥珀は僕の首に腕を回し、いきなりキスをした。

「こ、琥珀!?」

そもそも、同棲までしているのに、キスするのは初めてで、かなりうろたえてしまった。

「…行かないで、香月。ずっと、ずっとそばにいてよ」

それは、僕の前で初めて見せた涙だった。

「行かないよ…行かない。僕も、琥珀のそばにいたい」

「ごめんね…昨日、ひどかったよね」

「大丈夫。もう気にしてない」

琥珀は、両腕を広げ、床にたおれた。

「香月さ、どうして私が告白オッケーしたか聞いたじゃん?初めはさ、酷いけど、ちょっと利用してみようかな、って考えてたの」

「利用?」

「要するに、貢がせてみようかなって」

「ひどいな」

思わずいうと、琥珀は少し笑った。

「でもさ、香月がすごく優しくて、私のこと心配してくれて、それで、逆にすっごく好きになっちゃった。夜1人で起きていても、少し寂しいけど、側に香月がいてくれたから、一人ぼっちじゃないって安心できた。そこにいてくれるだけで幸せだった」

「じゃあ、なんで昨日…」

「だって、私、普通じゃないもん」

琥珀は腕で目を押さえた。

「デートだって夜しかできないし、遊園地も映画館も、どこにもいけない。きっと将来、香月にいっぱい迷惑かける。香月は優しくてカッコいいから、私なんかよりいい人見つけられる。私と一緒にいたら、香月は幸せになれないんじゃないかって、それで…」

「…バカだよ」

それは、琥珀と僕自身に放った言葉。そんなことを考えていた琥珀も、彼女の悩みに気づけなかった僕も、大バカだ。

僕は言葉を選びながら告げる。

「確かに、琥珀ともっと起きていられたらなって思うよ。遊園地や映画館にも行ってみたい。ケンカしたときに、病気のせいにするかもしれない。でも、それでも…!」

僕はいとおしい彼女を、強く抱きしめた。

「僕は君を愛してる!世界中の誰よりも、琥珀が好きだ!夜でも楽しいところはある!ていうか、琥珀といるだけですごく楽しい!遊園地なんていかなくていい!映画なら家でDVDでも見ればいい!休みの前は徹夜して一緒に過ごす!僕は、琥珀じゃなきゃダメだ!琥珀としか、幸せになれない!だから!」

爆発させた想い、叫んで、荒くなった息を、一度深呼吸して整える。

「だから…僕と結婚してください」

「…はい」


僕らは泣いていた。嬉しくて、でもこの先に莫大な不安を抱えて。

僕らの時間はほとんどない。

でも、それでも、僕は琥珀を幸せにしたい。ずっと一緒にいたい。

困難に負けそうになるかもしれない。でも、琥珀を守りたい。

時間が許す限り、僕は彼女のそばにいる。そう決めたんだ。


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