三日月と黒猫
「ただいまー」
僕、芦見香月が彼女と暮らすアパートに帰ったのは、夜の10時過ぎごろだった。
二人で暮らすには、広さも家賃もちょうどいい部屋だ。
「…おかえり」
彼女、三黒嶺琥珀は玄関すぐ横の、キッチンに立っていた。
肩で切り揃えた黒髪。後ろ髪と同じくらい長い前髪は左寄りに分けている。目はいつも眠たげに細め、顔色はあまりよくない。青紫のセーターに、ショートパンツという出で立ちだ。
「あ、今日仕事休みだっけ」
琥珀はこくりと頷いた。
「いつぶりだっけ。話せたの」
「…4日くらい」
「あー、そんなにか」
と、いい香りが鼻腔をくすぐる。
「今日カレー?」
「そう。久しぶりだし、一緒に食べようと思って待ってた」
「ありがとう。すぐ着替えてくる」
こうして話せることは、珍しく、とても嬉しかった。
僕が帰るころ、彼女は仕事に行ってしまう。
翌朝僕が目覚めるころ、彼女は眠りについてしまう。
ずっとその繰り返しだ。
*
二年ほど前。その日は、三日月が輝いていた。
僕が琥珀と出会ったのは、深夜のコンビニだった。
当時大学の夏休みだった僕は、近くの24時間営業の飲食店でバイトをしていて、その帰りだった。
そこで偶然、万引きの容疑をかけられていた琥珀に会ったのだ。なんだかんだで僕は彼女の容疑を晴らした。
琥珀はそのまま帰ろうとしたが、僕は心配で送ろうとした。そしたら「ついてこないで」と言われてしまった。確かに普通に考えたら、年頃の少女が見ず知らずの男に家を知られるのは嫌だろう。まだ暗いけど、夜が開けそうだし、大丈夫かな。それを口に出したとたん、琥珀の顔色が変わった。時間を聞かれ、5時少し前と答えたら、彼女は突然走り出した。
そして、倒れた。走っているスピードのまま、手もろくにつかないで地面に倒れた。急いで駆けつけると、全身擦り傷だらけで気絶していた。
救急車で病院に向かうと、琥珀の主治医だという女性に会った。彼女から聞いた話しはにわかに信じられないものだった。
琥珀は、日の入りに起き、日の出に寝てしまうのだと言う。どんなところでも、どんな状況でも、日の出に寝てしまい、何をしても日の入りまで起きない、原因不明の病におかされている。
自分勝手だが、琥珀を放っておけず、彼女が起きるころ見舞いに行った。最初はストーカー扱いされた。ショックだったが、彼女と話したかった。
今思うと、出会ったときから、僕は琥珀に恋をしていたのだ。
しばらく検査入院するという琥珀に、しつこく会いに行った。よくよく考えると、立派なストーカーだった気がする。
でも、初めて彼女が笑ってくれた日、彼女が心を少しだけ開いてくれた日、琥珀はなぜか、二つ返事で告白を受け入れてくれた。
*
僕らはいつも、眠っているお互いにしか会えない。
側にいてくれるだけでいい。でも、ときどき、もっと一緒に過ごせたらいいのにと思ってしまう。
カレーを食べ終えてテレビを見ていたとき、ふと聞いて聞いてみたくなった。
なぜ琥珀は告白を受け入れてくれたのだろう。なぜ少し付き合って、同棲まで受け入れてくれたのだろう。
「ねえ、琥珀」
「何?」
琥珀は夜間の高校、大学に通い、子供が好きで保育士の資格を取った。今は夜間保育所で働いている。実家は田舎で、高校のころからひとり暮らしだったらしいが、想像できないような苦労があったんだろうな、と思う。
「琥珀は…どうして僕と付き合ってくれたの?」
「…どうして?」
「うん、いや、会った頃の僕ってわりと一方的だったじゃん。琥珀もストーカー扱いしてたし。だからどうしてかな、って」
「…逆に、どうして香月は、私を好きになってくれたの?」
その質問は予想してなかった。
「え、と…なんでかな?」
「私は…」
琥珀は何か言いかけて止めてしまった。
「…琥珀?」
「なんでもない」
この話しは終わりにしよう。
そう思っていた。
「香月」
「何?」
「私達、別れようか」
何を言われたのか、理解に時間がかかった。
「な、なんで急に?」
琥珀は答えてくれなかった。
何か怒らせてしまったのか。
何も言ってくれないまま、また朝が巡ってきてしまった。
急いで仕事から戻ると、琥珀の姿がなかった。本当に、出ていってしまったのだろうか。時間は10時30分を回っている。
もともと少なかった服も小物類もすべてない。
本当に、フラれてしまったようだ。そもそも琥珀が僕なんかを好きになってくれだけで奇跡なのだ。だから、泣くな。
涙は溢れてくる。失恋は初めてじゃない。だが、前のとは比べ物にならないくらい辛い。
予感はしていた。仕事を休んで話だけでも聞きたかった。もっと早く帰ってくればよかった。後悔してももう遅い。静かな部屋に、嗚咽が響く。
突然、電話の着信音がした。誰だろう。上司だろうか。今は電話に出たくないのだが、大事な用事だったら困る。
相手は…。
「琥珀!?」
焦って携帯を取り落としそうになりながら、僕は電話にでた。
「も、もしもし…」
『あー、もしもし?』
「え?どちら様ですか?」
女性の声だが、明らかに琥珀のものではない。
『いきなりすいませんねぇ。琥珀の彼氏さん?』
「あ、いや…」
『あたし、琥珀の友達の宇崎ですけど、琥珀、居酒屋で酔いつぶれちゃって、あたし用事あるんで、迎えに来てくれません?』
居酒屋?琥珀、酒は飲めないって言ってたはずだけど…。
僕はとにかく、居酒屋に向かった。
琥珀は本当に酔いつぶれてしまっていた。傍らには服が入ったカバン。
「ちょっと、彼氏さん?あんたさ、この子になんかした?」
「なんかって…?」
ついてそうそう、宇崎さんに怒られた。気がつよそうな仕事バリバリやっていそうな人だ。酒も強いらしく、琥珀の5倍ほど飲んだようなのに、全く酔っていない。
「琥珀、人を呼び出してあんたののろけばっか話してたと思ったら、急に泣き出したんだけど。別れたくないって言ってたよ」
「え…?」
昨日言ってたことと真逆じゃないか。
「とにかく、話し合いなさいよ。今度琥珀泣かせたら許さないからね」
そう言い残し、宇崎さんは帰っていった。
「琥珀?大丈夫?」
頬を軽く叩いてみるが、意識がはっきりしていない。小さなうめき声がするだけ。
僕は琥珀を背負って、アパートに戻ることにした。いくら琥珀が軽いとはいえ、けっこう重労働だった。
「琥珀、アパート着いたよ」
僕は玄関に琥珀を下ろした。荷物も下ろし、腰をおろす。疲れた。すごく疲れた。
「…香月」
琥珀は僕の首に腕を回し、いきなりキスをした。
「こ、琥珀!?」
そもそも、同棲までしているのに、キスするのは初めてで、かなりうろたえてしまった。
「…行かないで、香月。ずっと、ずっとそばにいてよ」
それは、僕の前で初めて見せた涙だった。
「行かないよ…行かない。僕も、琥珀のそばにいたい」
「ごめんね…昨日、ひどかったよね」
「大丈夫。もう気にしてない」
琥珀は、両腕を広げ、床にたおれた。
「香月さ、どうして私が告白オッケーしたか聞いたじゃん?初めはさ、酷いけど、ちょっと利用してみようかな、って考えてたの」
「利用?」
「要するに、貢がせてみようかなって」
「ひどいな」
思わずいうと、琥珀は少し笑った。
「でもさ、香月がすごく優しくて、私のこと心配してくれて、それで、逆にすっごく好きになっちゃった。夜1人で起きていても、少し寂しいけど、側に香月がいてくれたから、一人ぼっちじゃないって安心できた。そこにいてくれるだけで幸せだった」
「じゃあ、なんで昨日…」
「だって、私、普通じゃないもん」
琥珀は腕で目を押さえた。
「デートだって夜しかできないし、遊園地も映画館も、どこにもいけない。きっと将来、香月にいっぱい迷惑かける。香月は優しくてカッコいいから、私なんかよりいい人見つけられる。私と一緒にいたら、香月は幸せになれないんじゃないかって、それで…」
「…バカだよ」
それは、琥珀と僕自身に放った言葉。そんなことを考えていた琥珀も、彼女の悩みに気づけなかった僕も、大バカだ。
僕は言葉を選びながら告げる。
「確かに、琥珀ともっと起きていられたらなって思うよ。遊園地や映画館にも行ってみたい。ケンカしたときに、病気のせいにするかもしれない。でも、それでも…!」
僕はいとおしい彼女を、強く抱きしめた。
「僕は君を愛してる!世界中の誰よりも、琥珀が好きだ!夜でも楽しいところはある!ていうか、琥珀といるだけですごく楽しい!遊園地なんていかなくていい!映画なら家でDVDでも見ればいい!休みの前は徹夜して一緒に過ごす!僕は、琥珀じゃなきゃダメだ!琥珀としか、幸せになれない!だから!」
爆発させた想い、叫んで、荒くなった息を、一度深呼吸して整える。
「だから…僕と結婚してください」
「…はい」
僕らは泣いていた。嬉しくて、でもこの先に莫大な不安を抱えて。
僕らの時間はほとんどない。
でも、それでも、僕は琥珀を幸せにしたい。ずっと一緒にいたい。
困難に負けそうになるかもしれない。でも、琥珀を守りたい。
時間が許す限り、僕は彼女のそばにいる。そう決めたんだ。




