再び地下へ
「ミツクニ、地下へいってみない?」ミミが言った。
ミツクニは、眠りから覚めたばかりだった。
黒い格子のはいったパジャマを着たまま、ベッドに寝ていた。ミミが顔を近づけて、呼びかけたので、ミツクニは驚いた。
「なんか、ちょっと反応に困るんだけど」
「いいんじゃない?困る人は困れば。特許権持ってる人とか、弁護士とか、そういう人があたしにとって大変なんだ。でも、弁護士さんも弁護士さんで、苦労してるからね」
「ふうん」
「困っちゃうよね」
「何で」
「映画みたいで」ミミは、にやりと笑っていった。
「そうかもしれない」ミツクニは、汚れてもいい服を着て、地下へ行く準備をした。アルコール灯と、はしごとバールを忘れないこと。シューレの廊下が、ミツハルの靴とミミの靴のかかとで、こつこつと小気味の良い音を立てる。
朝の学校は、悪くない。屋敷の隅にマンホールがある。横に東向きの窓がついているので、太陽が見える。ミツハルは、マンホールのふたを開け、はしごを立てた。オリガ・サトウの部屋に入ることができる。ミミは、はしごのステップをからからと音を立てながら、下に降りていく。
「待ってよ」ミツクニがいう。
「待つよ。ただ、今日はもっと下に行きたい」
「わかった」オリガ・サトウの部屋は、あいかわらず本で埋め尽くされていた。ミミはそのうちの一冊を手に取り、それがJBの日記帳であることを知った。
「のぞかない方がいいかも」ミツクニは控えめに言った。
「大人たちは、ずっと前から地下に出入りしていたんだよ。むしろ、ここで生活をしていた」
「ふうん」
「この日記、なんか陰謀めいた、変なことばっかり書いてあって、いやだ」
「見るほうが悪いんじゃないかな」
「そう」ミミは答えると、日記帳を本棚に納めた。廊下の端には、必ず階段があるようだ。もちろん、古くなっていて、板のこすれる音を立てるものもある。
ともかく、地下2階には酒蔵庫があり、ウィスキーの匂いや、腐ったワインの匂いなどが混じっていた。ミミはそれらを感慨深げに見やり、うーん、と唸った。「昔はいいお酒だったんだろうね」ミツクニは言った。
「そうかもしれないね」屋敷の地下は同じ構造が続いているようだ。上の階と同じ位置に、階段があった。ランプの明かりだけが頼りだ。
彼らは、更に地下へと進んでいく。地下3階には、植物の標本を納める部屋があった。シダ植物や、木材の珍しい品種の乾燥標本が置いてあった。また、地下4階には、貴金属でできたアクセサリを並べる棚があった。そこには、メノウなどの象嵌された、見事な貴石も置いてあった。
二人は、地下の更に下に至った。すでに、アルコール灯の光も弱弱しくなり、ミツクニは少し不安を覚えていた。
「これからをきちんと見ておかないと、損をするよ」ミミはこう言って、黒い石でできた壁を指差した。ミツクニは、息をのんだ。石に埋もれたままの、恐竜の化石が、壁に使われていたのだ。とても大きい化石だ。そこには、ミミとミツクニがいたのだが、化石の大きさは、二人の身長をはるかに越えていた。恐竜の周りには、見たこともないような巨大な貝がちらばっていた。「二億年前のものだね」ミミは言った。
「なんか、フジの話とか、どうでもよくなってくる」
「隕石の破片とか、月の石とかもあるんだけど」
「誰が持ってきたんだろうね」
「いいや、下に行こう」
「そうだね」更に地下へ進む。すると、地下の様子が急に変わる。
まるで、壁が溶け出すように、でこぼこになるのだ。上からは、水が滴り落ちてくる。それに沿って、石のようなものができている。石は水滴のしたたりおちるままに、形を成している。
「フジの火山灰がさ、石灰を含んでいるでしょ。だから、それが解けて、鍾乳石といっしょみたいになるの」
「世界は広いね」
「鍾乳石っていうより、石灰の固まりなんだけどね。これはこれで見ごたえありだよね」
「なるほど」ミツクニはうなづいた。更に地下に向かう。階段がきしむ。もう、地下の何階かを数えなくなっていた。
「電源が入るといいんだけどな」ミミが言った。
「え?」
「古いから、線が切れているかもしれない」ミミは、その部屋の壁にしつらえたスイッチを入れた。すると、天井にいくつもの、星が現れた。
「昔の人が、プラネタリウムをつくったんだよね。あれが北斗七星かなあ……」ミミは、一つ一つ、星の説明をしていく。ミミは、見慣れたもののように、星を模した光ダイオードを見ている。
「あのさ」ミツクニは言った。「ぼくは、ミミと知り合って間もないから、ミミのことをさ」
「はあ」
「……いろいろ分からないこともあるし、でもさ、それでも、それでも……」
「ああ、ちょっと、待った。それはまだ。それは勘弁」
「へ?」
「まだだって」
「ああ、やっぱりダメ?」ミツクニは眉をひそめた。
「いやいや、まあ。まだあるのよ。こっちに」ミツクニには、ミミが何を言っているのか良く分からない。
でも、ミミは手でこっち来なさい、の仕草をしながら、階段を下っていく。下には、炎が広がっていた。いや、炎というべきか、視覚的には火なのだが、それは紫になったり、赤になったりして、虹色を描いていた。ミミはそれを見ながら、次のように言った。
「これも含めて、ここの屋敷の、地下全部がわたしの意識らしいんだよね。パパによると。心理物理学の基礎だって。パパ……って、何人もいたけど。良く覚えていない。一人がわるいやつで、あたしを戦争に使ったけど、べつにそれも昔の話だよ」
「触れちゃいけないかな」
「あたしは、観念の娘、ミミ。少しだけなら話してもいいよ。つまり、あたしはこうすることができる。誰でも攻撃された人は、意識そのものがなくなっちゃうの。大統領でも、首相でも、独裁者でも」
「大変だね」
「パパの誤算は、あたしが成長して、自意識を持っちゃったことかな」
「自意識を持つと、どうなるの」
「あたしが、恋をしたら?」
「その相手が世界の王様になるってこと?」
「当たり」
「それで、あたしは、こう、けっこう美人だと思うし、性格もわるくないんじゃないかな。割と好かれる」
「うん」
「だから、駄目」
「そっか、そうだね」
「……ねえ、昔ちょっと好きだった人とか、前の学校の友達とかさ。もう会えないじゃない。そうとう親しくないと」
「うん」
「だから、きっと、線と線みたいなものだと思う。人と人って。たまに交差するけど、そこは点で、一瞬だけ、感情が交差する。あとは、別の方向に走っていくだけ」
「そうかもしれない」
「わたしは、ものに帰れる。この、博物館みたいな、地下に。あるいは、他の銀河をめざして旅に出ることもできる」
「そうなんだ、きっと楽しいね」ミツクニは、無理をしていった。
「ものに帰るほうを選ぶよ。たとえば、亡くなった人の遺品とかに、救われることもあるでしょ?ここにいれば、ミツクニの夢に、たまに出られる」
「フロイト的に?」
「あのパパもあんまり好きじゃないや。せっかくいいお別れだったのに、長いお別れになっちゃいそう」
「そうだね。わかった。全部分かった。じゃ、ぼくは上に戻るよ」
「また。ミツクニが長生きしますように。いい出会いに恵まれますように」
「それじゃね」こういうと、ミミは一つの小さな赤い宝石になった。
「あ、でも、また出てくるかも」と、一つ言い残して、宝石は炎の中にかき消えた。
ミツクニは、ため息を一つついて、ゆっくりとアルコール灯の火を頼りに、階段を上った。幸いマンホールのふたは、はずれていなかった。学部長も、JBもいじわるをしなかったようだ。
ミツクニはその後、ごく普通に授業に出て、JBから代数学や現代国語を学んだ。今度は、シューレに転校生がやってくるらしい。早い話が学校をやめた人だ。何かが個性派なのだろう。おれも、そうなのかもなあ。ミツクニはそう思って、またあまり愉快でない、ミット・シューレをやめたときのことを考えた。