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JBとミミ、ミツクニ

ミツクニは、ミット・シューレを卒業した後、なんとなくやる気をなくし、特に何もせずに暮らしていた。周りの大人たちは、カレッジに行け、とか、仕事をしろ、とか説教をした。両親や兄との紆余曲折があって、シューレと呼ばれる、いわば私塾に通っている。


それは便宜上、学校と呼ばれている。良くある話だ。


ミツクニは、さほど愉快でもない記憶を、茶色のタイルがしきつめられた公園で思い出していた。自分の部屋で短波ラジオを作っていて、何がいけないのかが、どうも納得できない。


ただ、ミミはきれいだ。それはたぶん、まちがいない。


ミツクニはそう思った。やわらかな雰囲気や、ゆったりとした服の中にのぞく、体の稜線や、澄んだ表情が、彼の脳裏をよぎった。でも、それをうまく説明できない。きっと、それができたら、見事なプロポーズになるんじゃないか?


とはいえ、ミツハルはミミのことをほとんど知らない。名前をミミということと、自分より前からシューレにいたことだけだ。どんなに記憶をたぐりよせても、それくらいしか浮かんでこない。


何を話したのかもあやふやだ。ミツハルは、つたがアーチを覆っている公園のベンチに座って、そんなことを考えた。今日も曇りが続き、地平線の向こうにはたまに稲光が光る。そろそろ授業の時間だ。時計の針は、午前10時をさしている。教壇に立つJBは、タクトの先にチョークを取り付けたものを使って、器用に絵図面と説明を書いていく。


その中には、数式も含まれている。


「では、メイジ・ピリオドに中国との間に、電気通信ケーブルが敷設された。これは、日本国としては初の海外有線通信だったのだ……ミツクニ君、教科書の「電気通信」を読んでくれ」

「あ、ええ、はい。その後、ワールド・ワイド・ウェブの時代に至るまで、電気信号によって通信がなされた。しかし、マウント・フジの噴火や、世界的な気候変動によって通信は衰退し、短波通信のみが残された。われわれの今後の課題は、アメリカ大陸やユーラシア大陸との通信を回復することである。以上です」


ミツハルは教科書を棒読みし、ため息をついた。退屈なのだ。3つ空けて隣の席に、ミミだけが教室にいる。ミミは、静かにノートにメモを取りながら、教科書をめくっている。


黒い髪に、つい目がいってしまう。授業が終わった。時計はもう、6時を指している。夜だ。宿舎に帰って、課題をやらなければならない。でも、JBはわきまえた人だ。課題は出さなくても良いことになっているんだ、とミツクニは解釈している。


ふと、思いついた。どうもぼくは、ペキンで華々しく働くとか、資格を取るとか……つまり学校が肌に合わないんじゃないか。


「そんならアルバイトをすれば良い」何か、それはミツクニ自身のアイデアではなく、兄から言われたことがふと思い出されただけだ。

アイデアだ。ともかく、地下に行く。ミミが見直してくれるかもしれない。マンホールを開けて、はしごを立てかけ、アルコール灯を持ち、地下に降りた。古びたほこりのにおいがした。ミミは、地下のさらに奥の方にはいろいろなものがある、といった。つまり、地下の更に下には、昔の生活に使われていたものが眠っているのではないか?とりあえず一人で行ってみよう。


ミツハルは、オリガ・サトウの図書室を通り抜け、さらに廊下をよぎり、地下2階に立った。遺影の影がこちらを睨んでいて、どことなく気まずい。更に下だ。ミツハルは、地下3階に通じる階段を発見した。そして、地下3階には鈍く光るガラス瓶が大量に置いてあった。ガラス瓶には、「ジャック・ダニエル」と書かれていた。また、中には茶色の液体で、なみなみと満たされていた。「やった」ミツハルは一人で声に出した。この酒を売っぱらってしまおう。彼はびんを一つ抱え、笑いながら、階段を駆け上った。


地上へ通じるマンホールが、すぐそこに見えた。地下一階とはいえ、暗い。早く地上の明かりを見たかった。同時に、金属がぶつかる音がして、マンホールが落とされた。何なんだ?マンホールの蓋は開かない。何か重いものでおさえられているようだ。少し時間がたった。ミツクニは、出られない、と思った。あたりは真っ暗だ。


「さて、ミツクニ君」JBの声がした。

「学部長が閉めたんだよ。あの人は、気が効くし、いじわるだ。20歳になって、お仕置きをせねばならんとは、学部長も嘆いていたよ」JBが続けた。


どういうわけか、同時にアルコール灯の火が消えてしまったようだ。

「それでいいんだ。酸素がなくなっちゃうからな。そいつは明るい分、たくさん酸素を使う。なかなか賢いじゃないか」

ミツハルは、返事ができないでいる。

「アルバイトは結構だが、その酒が売れたとしよう。幾らになる?」

JBは、返事を待たずに続けた。

「3000元くらいですか」ミツクニは思い切っていった。

「通貨は何を使うか、という点では当たりだ。ブロック経済だからな」

「え、ええと、アルバイトですよ。もしくはベンチャーといっても」

「それはいい。だが、君の学費は1時間当たりいくらか、計算したことがあるか」「いえ」

「2万元くらいかな。だが、それはまあ、別にいいんだ。肝心なのは、酒だよ、酒。飲んでみた?」

「いえ、上に持っていこうと思って」

「じゃあ、ちょっと一杯やろう」

「いいんですか」ミツクニは、JBの威勢に負けて、仕方がなくウイスキーの栓を抜き、ボトルに口をつけて飲んだ。

「どうだね」

「酸っぱいですね」つまり、骨董品のウィスキーは、あまりに長く放っておかれたために、半分酢になりかけていて、埃の味もする。飲めたものではないのだ。


「わたしが、同じことを考えるとは思わなかったのかい?」JBは、困ったような、残念なような、複雑な顔をしながらミツハルを小突いた。

「すみません」

「まあいい、ただ、後でちょっと話したいと思っていたんだ。この部屋はちょうどいい。誰にも聞こえなくて」

「何の話ですか?」

「けっこう長い話だよ」


ところで、このころミミは、精神界と現実界の境目をうろうろしていた。固有概念は同時にこの二つに存在しえず、ミミという観念のみが、少しずつミミの体から離れていく。


具体的には、ミミは服を脱いで、裸身を夜の海に向けていた。白い首すじが、闇に浮かんでくっきりとした曲線を描いている。夜の海は、危険なところだ。波打ち際が分からないので、波が高い時に近づくと、海に飲まれてしまう。そして、今日は波が高い。海辺は誰一人おらず、灯台の明かりだけが闇を照らしている。砂浜には、奇妙な形をした多肉植物が生えている。


ミミは、波の音を聞いていた。そして、魂を、次第に大気に溶け込ませていた。事実、ミミの体から、透明で青い、気体めいたものが、少しずつ溶け出ていた。それは、魂というべきだった。少なくとも、ミミにとってはそういった単語で表記されるべきものだった。ここで、われわれは観念とも呼んだ。


次第に、ミミの意識が薄れていく。温度のない空気の中を歩いているような感覚がする。やがて、ミミの体は、大気中に溶け、一気に上昇して雲を抜け、高度7000メートルに達し、ゆっくりと落ちた。シューレの建物の地下に向かって。


シューレの地下1階では、ミツクニとJBが向かい合っていた。あたりは暗く、アルコール灯の光さえないが、ぼんやりと夜間灯の光が光っていた。「何から話そうかな」JBは声をひそめて言った。


「何か、大事な話ですか」

「そうだな、大事な話だ。まず、私は彼女の後事を託す相手を探している。ここがちょっと良くなくてね、いつ死ぬか分からんのだ」JBは、肝臓のあたりを押さえた。

「飲みすぎたんですよ」

「簡単に言うね」

「僕なりに気を使っていますよ」

「仕方がないかな」

「そうかもしれません。でも、僕はJBが嫌いじゃないですから」

「後のことだ」

「彼女のことですか」

「君は、ミミに恋をしている」

「それはそうですね。好意を持っています」

「……そうだなあ。それについてだ。そろそろか」瞬間、部屋の壁全体が青く光った。さらに、部屋の空気が一気に冷たくなり、ミツクニの体が浮き上がった。しかし、むしろ、靴のかかとは地面についていた。浮いたように感じたのだ。そこからが長かった。


ミツクニには、奇妙な思念が浮かんだ。百年がそこで経った。もう百年、この地下でJBと向き合っていなければならないような気がした。そこでは、マウント・フジが二度目の噴火をとげ、地球が丸ごと吹き飛んでいた。月が昇る。それを見ている。月から、大量のイナゴがやってくるので、その対策を国に依頼しなければならない、とミツクニは思っていた。


「これはガスじゃないよ」JBは言った。空を、巨大な立方体の舟が飛んでいる。舟には、七福神のいずれもがそろって、宴会をしている。そこを、更に巨大な、山一つぶんもあるような石が飛んでいく。石には「山」と書かれている。ミツクニは、それを越えて空を飛ぶ。そして、落ちる。ミツクニは、空を飛んでいる意識のまま、一気に地面に着地した。


着地のショックで、体がばらばらにならないかを心配していた。時間感覚が狂う。百年、空を飛び続けていたような気分になる。その感覚が、現実の時間で5秒続いた。


やがて、ミツクニの足が、地面をとらえた。というより、体の感覚が戻った。意識がはっきりしてきた。


地下室の、見慣れた石の壁が見えた。夜間灯がそれを照らしている。本棚には本がたくさん入っている。ここが、オリガ・サトウの部屋であることが分かる。


JBは、部屋にあったソファに座り、ミツクニを見ていた。「何があったんですか」 ミツクニは、茫然と、この世に戻ってきた感想を口にした。


「人間は、人間の意識を知るべきか、というのは古今有名な難問だった」JBは口を開いた。

「むつかしいですね」ミツクニは答えた。

「仮に、みずからが、意識をすることがなければ、まわりの「表象」はなくなってしまう」

「たとえば、寝ているときは意識がない」ミツクニが言う。

「夢を見ることもある」JBは、すこし苦々しげに言った。

「今見たのは、夢だということですか」

「似たようなものだ」

「むしろ、この間、変なガスを吸っちゃったときの気分に似ていると思いますが」「きみは、分かっているようで分かっていない。それが、ミミなんだよ」

「それがミミ、というと」

「ミミはそういう存在なのだ。そういうものなのだ」

「どうでしょうか。ミミは普通の女の子だ。すくなくとも、ぼくにとっては。彼女は兵器だ、なんていわないで下さいね」JBは、困ったような憐憫のような、複雑な表情をした。それは、怒りのようでもあり、愛惜の情でもあった。


「わたしの娘でもある」と、JBは、言い切った。ミツクニは、つばをのんだ。「ジグムント・フロイトと、ハヴェロック・エリスは、人間の意識を科学的に解明しようとした、最初の人物だ。心理学の教科書に載っていただろう」


「はあ、フロイトですか」

「それをつきつめると、ミミになる」

「具体的にはどういうことなんですか」

「<観念>は、個人の意識を超えた、非物質的な永遠不滅のものだ。プロフェッサー朝永、プロフェッサー湯川、プロフェッサー小川も協力していた。正確には、心理物理学の分野だ」


「なんだか良く分かりませんよ。20歳なんだから、付き合ったっていいじゃないですか。ミミはミミ自身、彼女の心を持ってる。なんだか知らないが、意識だの無意識だのとは関係ない」JBは、困ったな、やれやれ、とつぶやいて、何かをしばらく考えているようだった。


その表情には、誰か、この世を去った人物のことを考えているような、寂しげさが含まれていた。


「戦争や、外交のややこしさを知らないだろう」JBは続ける。

「知らないですよ、終わってたんだから」

「わたしの一族は、というか、曽祖父、祖父、わたしの父、すべて学者だった。もちろんわたしもそうだ」

「それで」ミツハルは詰め寄る。すると、JBは、眉を上げて、とぼけるような顔をした。

「ところで、座敷わらしを知っているかね」

「はあ」

「日本の昔話に出てくるやつだ」

「わたしにも、実は彼女の正体は良く分からないのだ。でも、座敷わらしだと考えると納得が行く」

「座敷わらしは兵器じゃないでしょう」

「まあ、多発テロや噴火を経て、現代的になったのさ。研究が進んだとも言える。ともかく、彼女は、わたしのひい爺さんより前の時代から、この屋敷に住んでいる」JBは、そう言うと、おーい開けてくれ、と大声で上に向かって言った。何者か、たぶん、学部長か誰かがマンホールをずらした。


シューレの蛍光灯の明かりが差し込み、地上へ出られるようになった。


月が傾き、夜になった。低く流れる雲が、月の明かりを反射しているので外はわずかに明るい。屋敷の電灯は、JBの住む塔にすえつけられた風車の発電機構でともっている。


そのため、時おり家具や壁の作り出す陰影がほのかに揺れる。シューレの居住区には、ソファーとテーブルが置かれた、休憩室がある。ミミがいた。ミミは、ディスクを旧式のアンプにつながれたデッキに入れようとしていた。寝るまでの時間が退屈なのだ。風呂から出たばかりらしく、黒い髪がわずかに濡れて輝いていた。アンプの横には、二つの小さめのスピーカーがあり、電波のいい日には短波ラジオを受信することもできた。


上に置かれたデッキは、共通メディアBの読み取り機で、ミミは地下から持ってきたオーディオディスクをかけようとしていた。


「ディスクにほこりがついているんじゃないの?」ミツクニが声をかけた。

「え?ああ、びっくりした。ミツクニか」

「ああ、ごめん。後ろから呼んじゃった」

「いいんだけど。ディスクをこする布とかないのかな」ミミはこう言ったが、息を吹きかけてほこりを吹き飛ばした。ディスクをトレイの上に乗せ、読み取りボタンを押す。すると、にわかにスピーカーが振動した。やわらかなメロディがあたりを満たした。


古いジャズの歌い手が、恋の歌を歌っていた。ナット・キング・コール、地下から掘り出したものだ。ミツクニは、少しの間音楽に耳を澄ました。何かもどかしいような気分になった。甘くかすれた声で、英語の歌を歌っている。二人は首をかしげた。


「これ、ちょっと甘ったるい。笑っちゃいそう。二人で聞くもんじゃないかも」ミミが言った。

「そうかも。古い曲だからかな」ミツクニは眉をひそめて言った。

「夕飯食べた?」

「食べた。いつもの野菜のシチューだった」時計は十時より少し前を指していた。


ミツクニは、何をいうべきか悩んだ。ミミ、きみはいったい何者なんだ?でも、それをいうべきじゃない気がした。そういった予感については、しばしばミツクニは鋭かった。タイミングが大事だ。それに、どうやら、ややこしいことがいくつもありそうだ。曲が終わり、沈黙が降りた。


「じゃ、わたし、寝るから」ミミはそっけなくそう言って、談話室を去った。ミツクニは、ふう、とため息をついた。


ミツクニは、いくつか残された課題について考えてみた。時計はもう11時を周っている。まず、地下の普段ではありえない体験。それに、JBのミミについての発言。つまり、地下で見た幻覚は、ミミが引き起こしたものだ。そして、JBは、人間の意識について話した。そして、ミツクニは、ミミは普通の人間ではないことに気づいている。


更にいえば、それゆえに、ミミに惹かれていることも。さて、どうしたものか。ミツクニは、とりあえず寝るほかはないような気がしてきた。何故かというと、パーテーションで区切られた部屋の向こうで、ミミの、ごく普段どおりの寝息が聞こえてきたからだった。

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