BF1.反逆者の誘い
呼び鈴が鳴ったのは、キッチンへ飲み物を取りに来た帰りだった。
トレーに、オレンジジュースを注いだ四つのグラスを載せ、ゆっくりと歩いていた。そんな時に、何の変哲もなく――誠、普通に――呼び鈴が騒いだ所為でトレーを落としそうになる。
「あ、わ、わわわわわっと……」
浮きかけた利き足をどうにか踏み込み、トレーの上で揺れるオレンジジュースを制動させる。三つほど入った氷が、グラスにぶつかって心地良い音を鳴らす。
落とさずに済んだことに安堵して、
「はッ、はいッ?」
慌ててトレーを机に置き玄関へと急ぐ。
黒のロングヘアーを揺らしながら、扉を開く。そこに佇んでいた、褐色の肌をしたキャリアウーマン然とした美女を、漆黒の双眸が見据える。
あまりの美しさに思わず息を呑んでしまったが、努めて平静を装って言葉を紡ぐ。
「えっと、どちら様ですか?」
「あ、あの……尋ねておいて申し訳ないのだけど、貴女は?」
どうも、少女――ローナが出たことに女性も驚いているようだ。
「すみません、私はローナ=エルセントと言います。この家の家主――ソルフさんの息子さんの、と……友達です」
そのまま言い切ることを躊躇いながらも、ローナは自己紹介しておく。躊躇うも何も、自分は本当に友達なのだから問題はない。いや、友達で留まっているからこそ問題がある。
それはさておき、この美女は何者なのだろうか。ローナ自身は知らないが、もしかしたら家主ことソルフ=セイプの知り合いかも知れない。ならば、その息子――正しくは養子――であるウィンディ=セイプの知り合いである可能性も高い。
故に礼儀正しく振舞う。
美女からは荘厳な雰囲気さえ漂いながら、お偉いさんのように威張った様子はない。見た目の年齢からも、ソルフより若い。
「そうなの。ソルフさんはいらっしゃいますか?」
ローナの自己紹介に、女性は些か安堵したような表情を作る。
たぶん、息子が居ることは知っていたが、ローナが出てくるとは思っていなかったのだろう。
「直ぐにウィンディ君を呼んできますかニャッ……!」
踵を返そうとして、ローナは見事に相変わらずのドジを披露してしまう。濃緑のスカートが大きく傘を開き、一瞬だけ薄桃色の布切れが顔を覗かせる。
『だ、大丈夫……?』
玄関マットでスケートボードをしたローナに、二種類の声が掛けられる。
一つは、訪問者である女性のもの。もう一つは、呼び鈴に気付いてやってきた少年の声だ。少年こそがウィンディ=セイプである。この家の、現在、実質的な管理権限を持つのはウィンディということになるだろう。
白に近い灰色の長い目に伸ばした髪を揺らし、どこか弱々しささえ感じさせる鳶色の瞳で見据えてくる。いや、これでも出会った頃よりも凛々しくなっている――と思うのはローナだけか。
「は、はぃッ……。こ、これぐらい、なんともありませんよ。うんッ」
呆然と見詰めてくる女性など目に入っておらず、慌てて飛び起きながら取り繕うローナ。
ウィンディに恥ずかしいところを見られて、自分でも顔が紅潮しているのが分かる。まあ、それはそれとして、ローナは女性との会話をウィンディに譲る。
「ソルフさんにお客さんです。ウィンディ君のお知り合いですか?」
尋ねてみるが、ウィンディの表情はそれを否定していた。
「どちら様でしょうか? もしかして、軍部の方、ですか?」
「いえ、個人的な知り合いです。ただ、急ぎの用事があるのだけど、お父さんはいらっしゃる?」
「申し訳ありません、態々お越しいただいたのに……父は今、用事で出かけています。たぶん、後、二、三日は戻らないと思います」
そう、ソルフは、軍人だった頃の知り合いに頼まれて出かけている。
どういう用事かまではウィンディも聞いていないらしく、帰宅の日程を伝えられないまま昨日から留守にしていた。
それを聞いて、女性の顔は美貌を失う程に歪んだ。急な用事というのは嘘ではないらしい。ただ、流石にその顔のままでいるわけでもなく、直ぐに表情を戻してウィンディに向き直る。
「どこに行くのかも、伝えてくれてないんですよねぇ。電話先も……緊急の時は、私かお隣さんに頼ってくれ、って言ってたぐらいですから」
現状の解決は見込めないことを、追い討ちと分かっていてもローナが付け加える。
そこへ、なんの脈絡も一人の男がやってくる。
「なんだ、お客さんか。正直、フィル嬢と二人きりなんていうのは勘弁してくれ」
ウェーブのかかったロン毛に無精髭を生やした、少し老け顔の男だ。老け顔とはいったものの、ウィンディとローナより一つ年上なだけで、まだ十七歳だ。
名前をオスカル=ゴードンと言い、もう一人の友人――フィルティア=レイと部屋に篭っていることが苦になって出てきたのだろう。
「あら、お友達? ごめんなさいね、お邪魔してしまって。仕方ないので、また出直します」
他にも友達が来ていることに気付いた美女は、申し訳無さそうに言って立ち去ろうとする。その姿に、あざとくもオスカルが気付いてしまう。
「むッ。貴女は――」
美女と知り合いなのか、オスカルの表情が神妙なぐらいに曇る。
「な、何か……?」
上から下まで値踏みするように視線で舐めまわすオスカルに、流石の美女も異質なものを感じたのか半歩ほど身を引いた。
「なんという美人さんだぁッ」
「はっ……?」
唐突に、オスカルが美女の手を握ったため、彼女は困惑した声を出す。
「これはまさに運命ッ。貴女のような美女に出会えた偶然を、ここで更に育みましょうッ!」
更にズズッと美女に顔を寄せていくオスカル。
「はい、そこまでですよぉ」
最後は、ローナがオスカルの襟首を引っ張って引き剥がす。
美女を見ればしきりなく口説くオスカルに、些か呆れを覚え始めるローナ。ある意味で、こうも自分の欲望に正直なオスカルが羨ましい。
なぜローナやオスカルが、ウィンディの家にいるのかと言うと。単に、数日の留守に暇を持て余したウィンディに招かれたからだ。
「今度は、私一人を呼んで……ゴニョ、ゴニョ」
思わず口から漏れかけた欲望を濁し、ローナはそそくさとオスカルを部屋の奥へ連れ戻す。
「ローナ……貴女に任せておいて文句を言うつもりはないけど、頼んだものぐらいは届けてから他の仕事をしてくれないかしら? なんだか、喉が渇いて仕方ないのよ」
気だるくも遠く通る声で、愚痴を口にしながら顔を出した四人目の来訪者。
「あッ、ごめんなさい、フィルちゃん」
「おっと、レイ家のご令嬢がお怒りだぞ、ウィンディ」
フルネームをフィルティア=レイと言い、本人はローナのふざけた愛称を嫌っている。が、ほとんど仲間内では定着している。
ただ、言われてみると、今回の訪問で一番に注文をつけているのは彼女だった。こうした場面において、オスカル辺りが色々と場を仕切るかと思っていたが、ローナの予想に反して飲み物を注文したのはフィルティアである。
しかし、友人の家に招かれてまでダンマリを続けられてもウィンディとしても遣り難かろう。
一様に濃緑の制服に身を包んだ、学校の友人達。
フィルティアにしてみれば些か遺憾だろうが、これが残りの二年と数ヶ月を一心同体として過ごす『Wolf』のメンバーである。ちなみに、『Wolf』というメンバーの名称は、数か月前の新入生クラス分け試験において、模擬戦へ挑むにあたって付けられたチーム名だ。名前の由来を言えば、メンバー四人の名前の頭文字を並べただけだが。
「……ごめんなさいね、楽しんでいるところをお邪魔してしまって。お父さんへの話は、先約を入れておかなかった私が悪かったわ」
ウィンディも、指名された父親が居ないのではどうしようもなく、仕方なく美女を見送った。
その後は何の滞りもなく時間は進み、楽しいともつまらないとも言えない怠惰な時間が流れる。しかしこの時、偶然の出会いが生み出した運命の糸が、見えないところで少しずつ縺れ始めようなどと、今のローナに予想できただろうか。
「それでは、今日はこれで失礼しますね。あッ、それから、明後日は私の誕生日なんですよ。夜の八時から私の家でパーティーをするので、都合が良ければ来てください」
少しあざといか、とも思いつつ、それでも自分の祝日を祝って欲しくて、帰り際にローナはそれを伝えた。
――ただ、そんななんでもない小さな我侭が、大切な友人達の紡いでいた糸を危険な運命に絡めてしまう結果になるなんて、少しも思っていませんでした。