BF0.反逆の狼煙
暗闇の中、リズム良くハイヒールが床を叩く音が響く。
コツ、コツと、同じ場所を何度も回り続ける。執拗な、苛立ちさえ含んだ負の残響音。
部屋は異様に蒸し暑く、格子の嵌った窓が一つだけ光を取り込んでいる。空気が澱んで見える。
「そろそろ、答えたらどう? 優しく聞いてあげるのは、ここまでよ」
窓から差し込む光が、薄い褐色の肌を映し出す。ライトブラウンの髪を団子状に結って、広がった黒い虹彩に眼鏡を重ねた、スーツ姿の――一見キャリアウーマンとも思える女性。額に薄っすらと汗を滲ませながらも、その毅然とした表情はかわらない。
厳しい表情で、椅子に座った――座らされた、四十代前後の男に話しかける。男は両腕を椅子の背もたれに縛り付けられ、猿轡を噛まされた状態でもがき続けている。
何も答えようとしない理由を思い出し、ようやく女性は破顔して馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに笑う。
「あぁ、ごめんなさい。それじゃあ喋れないわね」
唾液に濡れ、汗を吸い込んだ猿轡を外し、床に放り捨てた。
「さて、聞かせて貰おうかしら?」
「はぁ、はぁ……。こんなことをしても、どうにもならんぞ。もう準備は整っているんだ。明後日にもなれば、一つの街が滅び、再び我々の時代が来る。お前らに止める術はガッ……」
無駄な口を叩く男の髪を鷲掴みにして、勢い良く首を後ろに逸らせる。首の痛みに悶える男のことなど気にしない。
「ねぇ、何か勘違いしていない?」
話しかける声は優しく、しかしその表情は悪魔にも似た形相。
「出来るか、出来ないのか、を聞いてるんじゃないの。どこにあるのか、を聞いているのよ。言葉も分からなくなった? それとも、共通言語で聞いてあげましょうか?」
「ぐ、ぅぅ……。だ、第三区西方独立地域だ。そこで、二日後に会合が行われる。たぶん、目的のモノも持ってくるだろう。喋ったぞ、もう見逃してくれッ」
苦痛の所為か、途切れ途切れに言葉を紡ぎ、男が懇願する。
調べが足らなかったとは言え、目的の場所を出入りするのを尾行して、こうして捉えてきた。少し前から尋問を繰り返し、ようやく心身共に疲弊したのか口を開いてくれた。
だが、まだ聞くべきことはある。
「馬鹿言ってるんじゃないわ。当日の見張りや、建物の間取りは? 洗い浚い、知ってることを話しなさい。そうすれば、解放してあげる。良い、洗い浚いよ。集まる奴らの人数まで、全部よッ!」
今度は顎を掴み上げて、揺りながら尋問する。自分らしくないほど焦っているが、残りの時間が二日と聞かされれば誰しも慌てるだろう。
なにせ、これから起ころうとしていることは、彼女達だけの問題に留まらず世界を巻き込むようなことだ。
「無理を言うな……。俺は、単なるボディーガードとして雇われただけだ」
「はぁ。役に立たないわね。とりあえず、見張りは何人ぐらい居そうなの?」
ボディーガードがこの様では、目的のものの見張りも大したことは無さそうに思える。
「十数人の各ゲストに、一人か二人、多ければ三人程度のボディーガードが付く。後は、外の見張りに西方の警備部隊が数人だ」
態となのか、それとも本当に知らないのか、アバウトな答えだ。
纏めると、四、五十人の見張りがいると考えれば良さそうだが、それもまた多いように思える。
いや、守るものがものである以上、それも当然なのか。
「仕方ないわね。こうなったら正面突破は諦めて、奇襲で行くしかないわね。まぁ、あの人もどちらかと言うとそっちのほうが得意だろうし」
「おい、独りで解決しないでくれ。早く解放しろッ」
男が喚く。
煩わしい。
だが、約束は約束だ。
「ごめんなさい。約束通り、解放してあげる――」
折りたたみナイフを手に、男が座る椅子の後ろへ回りこむ。
ただ、解放するとは言ったが、五体満足に帰すとは言っていない。
だから、女性は事実としては約束を反故にした。
「――この苦しみから、ね」
ゆっくりと男の首筋に移動させたナイフで、一気に頚動脈を搔き切る。
蚊の鳴くような、小さな呻きを漏らす。
女性の怒りを体現したかのような赤い噴水が、闇の中の壁を、唯一の光を見出すガラスを、赤に染めて行く。
いつから、彼女の心はこれほどまでに荒んでしまったのだろう。最愛の人物は自分の行を許してくれるのか。いや、許してくれない。
自問自答する。
「…………」
人を殺したという感慨さえなく、女性は部屋の扉を開く。
滔々と流れ込む陽光に、思わず腕で顔を覆ってしまう。
寒風が吹き荒ぶ。冬用の服とは言え、スーツとアンダーウェアだけではさすがに寒い。
身を震えさせながら降り立ったのは、十二月にもなろうかという小さな下町の一角だ。機工屋や薄汚れた飯屋の建ち並ぶ工場町。先刻まで居た部屋は、部屋とは呼べない無機質なキャンピングトレーラーの一室である。
「お嬢さん」
道路に下りたところで、唐突にしわがれた声で巨漢が話しかけてきた。
自分のことだと気付くと、女性はゆっくりと巨漢の方を振り向く。
『レッド・カウ』と銘打たれた看板の下で、油に汚れた熊の如きスキンヘッドの男が困ったような表情をしている。
「店の前に停められると困るんだが……。それと、手に塗料が付いているよ」
言われてみて、手に目をやれば確かに返り血が付着していた。
ただ、巨漢は血だとは思っていないらしい。トレーラーの後ろに停められている、真紅の塗料に染められたスポーツカーのものだと、勘違いしているのだ。
「まあ、直ぐに客が来るわけじゃねぇんだがよ。もしどこか擦ったって言うなら、家で塗ってやっても良いんだが」
「いえ、お構いなく」
下町の荒んだ温かみというのか、迷惑ながらも手を貸そうという男の言葉を断る。
女性はポケットから取り出したハンカチで血を拭い、早々にスポーツカーへと乗り込む。
「そ、そうかい……。はは、上さんがいなかったら、思わず口説いていたところだ。でも、どっかで見たような?」
巨漢のその声を最後に、ローから始まったギアをセカンド、トップへと切り替えて走り去った。向かうのは、ここから少し離れた住宅街だ。
いきなり人死にとか、言い訳のしようがない……。とりあえず、恒例のラジオコーナーは次回ということで。
これからもお楽しみいただければ幸いです。