一等書記官エリック・ブレンダーの事務的な報告 〜公爵令嬢断罪の章〜
「――というわけだ。ちょっと探ってみてくれるかい?」
いつになく疲れた様子のジョナサン・ハウエル法務卿が済まなそうに私の返事を窺う。もちろん尊敬する上司の頼みを私が無下に断るはずもない。ここでの私はエリック・ブレンダー一等書記官。立場上、自由に動けない彼を陰ながら補佐するのが私の役割だ。
「おおむね状況は理解しました。問題は王太子殿下から提出されたこの証拠品……ですか」
目の前のテーブルには赤褐色の染みが広がったパールホワイトのドレス、大量の紙の束、そして白鳥を象った真鍮製の置物。その片翼が折れている。
「いよいよ殿下も本気ということだな。まったく……純粋一途と言えば聞こえはいいが、御身の行いがどれほどの面倒を引き起こすか、そろそろ理解していただきたいものだ」
窓際に立って外を眺める背中にいっそう濃い疲労の影が漂う。
「ご安心ください。ここにある品のうち、少なくとも二つは心当たりがあります。おそらく調べがつくまでそう時間はかからないかと」
振り返った法務卿はふっと口元を緩めた後、アッシュグレイの瞳に少しだけ心配の色を浮かべた。
「いつも君にこんな仕事をさせて申し訳ないと思っているが……事が事だけにな。結局、最も信頼のおける者しか頼れないのだ」
最も信頼のおける者――その言葉を聞きたいためだけに望んで引き受けている仕事だ。何を私に気遣うことがあろうか。
「必ずや信頼に応えてみせます」
私は彼を安心させるように微笑んでから、一礼して部屋を辞した。
*
王太子クリストファー殿下のご婚約が発表されたのは二年前のこと。お相手は名門バーグレット公爵家のご令嬢、フレデリカ様だ。
殿下は現在、王立学院の三年生。来春の卒業とともにフレデリカ様との婚礼の儀が執り行われる予定となっている。
ところが困ったことに、殿下には「運命のお相手」がいるのだ。
それは奇しくも二年前、婚約発表の一週間後のことだった。学院の入学式で、殿下は新入生の中に彼女を見つけた。
メロニア・トワイス子爵令嬢。平民の出だが、子供のいないトワイス子爵家に養女として迎えられた。その頼りない出自のためか、彼女はどこか遠慮がちで、いつもオドオド不安そうな顔をしていた。それを見た殿下が「この子を守ってあげたい」と思うまで、それほど時間はかからなかった。
婚約者のある身で、殿下は何かとメロニア嬢の世話を焼いた。
「平民出だからといって、メロニアが差別されるようなことがあってはならない。何か困った事があればいつでも僕に言うんだよ?」
その言葉を真に受けたメロニア嬢は、全力で殿下を頼った。
「あの先生が私に意地悪なんです。今回のテスト、私すごく頑張ったのに、採点が私だけ厳しくて……」
「それは問題だな。評価は誰にでも平等であるべきだ」
「私、今度の学院のパーティーで一番端の席になってしまって……誰にもダンスに誘われないんじゃないかって不安で……」
「僕が一番に誘いに行くさ。待っていてくれ」
――という調子で。実際、そのパーティーでメロニア嬢の席は殿下のすぐ側に変更され、ダンスが始まると殿下はまっすぐにメロニア嬢の元に向かった。婚約者のフレデリカ様を差し置いて。
やがて学院の生徒も教師も皆、メロニア嬢の顔色を窺って接するようになった。彼女が少しでも嫌な思いをすると、殿下に告げ口されるからだ。彼女の出自を蔑んだり、からかったりするような者は誰もいなくなった。それでも彼女は毎日のように殿下の元に通い、多くの時間を共に過ごした。
フレデリカ様と昼食に出かける予定だった殿下の元にいきなり手作りのサンドイッチを持って押しかけた時にはさすがに周囲の誰もが呆れた。平民出だからという問題ではない。あまりにも常識的な思慮が無さすぎる。
それを「せっかく作ってきてくれたのだから」と受け取り、フレデリカ様との予定を平気で変更してしまった殿下もまた、周囲を大いに呆れさせた。
王族たる者が毒見も無しで、どこで作られたかも定かでない食事を口にするなどあり得ない。殿下はそれをメロニア嬢への思いやりであり、男らしさだと考えていたようだが、私に言わせればそれはメロニア嬢と同レベルの思慮の浅さであり、ご自分の立場をわきまえない無責任な行為でしかない。何より、フレデリカ様への思いやりはどこに行ったのか。
殿下は「フレデリカなら分かってくれるね?メロニアは優しい子だから、彼女の笑顔が曇るのは見たくないんだ。君との食事はまたいつでも行けるからね」と何の悪気も無い顔で言い放ち、フレデリカ様は寂しそうに微笑んで頷くしかなかった。他に選べる答えがあるだろうか?
フレデリカ様は我慢強いお方だ。エスカレートする殿下とメロニア嬢の親密な様子に決して表立って口出しすることなく、ご自身の立場と殿下の立場を慮って波風を立てなかった。つまり見て見ぬふりをした。それがまた二人を増長させた。思慮のある者が我慢を強いられ、思慮の無い者は何も知らずに好き放題に振舞う。そういうものだ。
いずれフレデリカ様の我慢にも限界が来るのではないかと誰もが危惧していた。そして誰もが危惧した通りに問題が起きた。メロニア嬢に対する嫌がらせが始まったのだ。
最初はちょっとした仲間外れだった。お茶会の場所が彼女にだけ知らされなかったり、流行りの交換日記が彼女にだけ回って来なかったり、まあよくあるつまらない女生徒間の意地悪だ。しかし殿下はこれに憤慨した。
「きっと誰かが裏で糸を引いてメロニアを虐めているに違いない!僕が必ず黒幕を暴き出してやる!」
そう息巻いて犯人捜しを始めた。すると嫌がらせは収まるどころか、どんどん悪質になっていった。
「机の中から教科書が無くなって……ゴミ焼却炉の中からビリビリに破られた私の教科書が見つかったんです」
「一体誰がそんな卑劣な真似を!」
「わかりません……でも私見たんです。教科書を探している時、フレデリカ様とお友達の皆さんが意味ありげに顔を見合わせてクスクス笑っているのを」
「まさか、フレデリカがそんなことを……」
「この間も私、お庭のベンチで本を読んでいたら、フレデリカ様とお友達の皆さんに取り囲まれて、邪魔だからどこかに行けって……本も取り上げられて、本当に怖かった」
「……わかった。フレデリカと話し合うよ。いくら名家の令嬢でもやっていいことと悪いことがある」
しかしメロニア嬢が告げた嫌疑はいずれもフレデリカ様には覚えのないことだった。その場を見た者もいなければ、証拠も無い。それでも殿下はこう考えた。
「証拠を残さないように隠れてコソコソと……必ず尻尾を掴まえてやる!」
燃え上がる正義感に駆られ、殿下は学院内に何人も警護の者を置いて生徒の動きを逐一監視させた。何の関係もない大部分の生徒にとってはいい迷惑。にもかかわらずメロニア嬢への嫌がらせは続き、誰もその現場を目にする者はいなかった。
寄宿舎ではメロニア嬢の部屋に置かれていた大切な思い出の品が何者かに壊された。あるパーティーでは化粧室でいきなり後ろから何者かにワインをかけられ、ドレスが台無しになったという。そしてまた別のパーティーでは、とうとう傷害事件が発生した。
殿下とはぐれたメロニア嬢が階段ホールに立ち止まってキョロキョロしていると、急に背中を強く押されて階段から転げ落ちたのだ。幸い、大事には至らなかったものの、足首をねん挫し、いくつも擦り傷ができた。すぐに手当てを受け、あちこちに包帯を巻かれた痛々しいメロニア嬢の姿を見た殿下は激昂した。
さすがにここまで来ると子供の悪戯で済むような話ではない。一歩間違えば殺人事件だ。そこで正式に学院内の調査が命じられ、ここにある証拠の品々が私に託されたというわけだ。
殿下はメロニア嬢に対する嫌がらせの数々をフレデリカ様の仕業と決めつけているようだが、私の仕事は事実の確認であって推測でも推理でもない。果たしてお望み通りの結論をお見せできるかどうか……
「しかし……どれもこれもどこかで聞いたような話ばかりで、まるで拙い小説でも見せられているみたいだ。一体誰が書いた筋書きやら……」
私はため息を一つついて頭を切り替え、学院の調査に向かった。
*
そして迎えた断罪の日――王宮内の主要な会議が行われる円卓ホールに国王陛下、王妃殿下と重臣のお歴々が勢揃いし、その前で熱弁を振るう王太子クリストファー殿下の姿があった。
「これは由々しき事態です!伝統ある我が王立学院で心ない差別や虐めが横行し、とうとうこのような被害者を出してしまった」
殿下の隣にはいまだ足首に包帯を巻き、杖を抱えたメロニア・トワイス嬢が座っている。
「私はこのような非道を決して許さない!必ず犯人を見つけ出して相応の報いを受けさせなければなりません!」
そして殿下の視線が私の前に並んだ品々に注がれた。
「これらは最近起きた三つの事件に関わる証拠品です。調べた結果、すべての事件に共通して、ある名前が浮かび上がってきました」
殿下に目で促され、私はお偉方が居並ぶ円卓の前に歩み出た。
「それでは……殿下からお預かりしたこちらの品々について、調査の結果をご報告いたします」
卓上からパールホワイトのドレスを取り上げる。
「これはひと月前にこの王宮で開かれた舞踏会で、あちらのメロニア・トワイス嬢が着ていたドレスです。この背中側に大きな染みが広がっているのをご覧ください」
ドレスを広げてその部分がよく見えるように掲げる。
「この広がり方から見て、誰かがうっかりぶつかった拍子にかかってしまったという染みではないでしょう。おそらくこのぐらいの距離から狙って振りかけた……」
他の書記官が運んできたグラスを受け取り、用意された布に向かって思い切りそれを振る。入っていた赤い液体が布に飛び散り、ドレスと似たような模様の染みとなった。
「もちろんこのドレスを着ている本人が自分で振りかけることは難しい。つまり、誰かが故意にメロニア嬢のドレスを汚したことは明白です」
殿下は満足そうに頷きながらここまでの説明を聞いている。私はただ調査の結果わかった事実を報告するだけ。誰の思惑も関係ない。
「問題は誰にそれが可能だったかということです。被害に遭ったのは三曲目のダンスが終わった後の休憩時間。場所は1階の化粧室でしたね?」
メロニア嬢の方を見ると、座ったまま俯いて小さく頷いた。まるでついさっき被害に遭ったばかりで、まだショックが残っているような顔つき。なるほど、殿下が「守ってあげたい」と思うわけだ。
「本当に一瞬の出来事で私、何が起きたかよくわかっていなくて……ただ気が動転してしまって、大きな声でクリストファー殿下を呼びながら化粧室を出たんです」
「その騒ぎは会場にいたほとんどの方が見聞きしています。誰にやられたかはわからないんですね?」
「はい……化粧室にはたくさんの方が慌ただしく出入りしていて、誰が誰だかもわからないような状態で……」
申し訳なさそうな、心細そうな目でこちらをじっと見つめてくる。その目で私を見ても別に私は何とも思わない。ただ淡々と仕事を続けるだけだ。
「その化粧室は更衣室や衣装部屋とひと続きになっていて、その時は次の余興に向けたお召し替えが行われていました。そうですね?フレデリカ・バーグレット様」
メロニア嬢と相対する席にポツンと一人座っているフレデリカ様に目を向ける。表情豊かなメロニア嬢とは対照的に、この方は顔色一つ変えない。
「はい。休憩時間明けにハープの演奏をお見せすることになっていましたので、そのために用意したドレスに着替えておりました」
「化粧室は貸し切り状態で、慌ただしく出入りしていたのはバーグレット家の使用人の方々だった。メロニアさんはなぜそこに入っていかれたのでしょうか?」
「私、フレデリカ様が化粧室でお呼びだと聞いて、それで……」
「誰から聞いたのですか?」
「知らない女性に呼び止められて、その方が教えてくれたんです。少し年配の……お見かけしたことのないご婦人でした」
「フレデリカ様はその女性に心当たりは?」
「ありません。私は誰も呼んでいませんし、メロニアさんが化粧室にいらしたことも知りませんでした」
「そうですか。その女性については私の調査の中でも特に情報はありませんでしたが、ひとまず皆様の証言を元に状況を整理しますと……」
私はぐるりと円卓を囲むお偉方を見回した。
「メロニア嬢は見知らぬ女性からフレデリカ様がお呼びだと聞き、化粧室に向かった。化粧室および隣接の更衣室と衣裳部屋はフレデリカ様の貸し切りで、バーグレット家の使用人の方々がフレデリカ様のお召し替えのために慌ただしく行き来していた。そこにメロニア嬢がやってきてフレデリカ様の姿を探していると、後ろから急にワインをかけられて驚いて化粧室を出た。誰の仕業かは見ていない。一方、フレデリカ様はメロニア嬢を呼んでおらず、化粧室にいたことも知らなかった。お二人の証言は食い違っており、メロニア嬢に伝言したというその見知らぬ女性については何も情報がありません」
そこでクリストファー殿下が私の後を引き継ぐように自分の意見を述べた。
「状況が物語る真実というものがあります。フレデリカの名前が出てくるのはこの件だけではありません。続けてくれ」
私は殿下に再び促され、次の品を手に取った。白鳥を象った真鍮の置き物だ。片方の翼が付け根から折れている。
「こちらは学院の寄宿舎にあるメロニア嬢の部屋に飾られていた置き物です。留守から戻ったら床に落ちて壊れていた、ということでしたね」
「はい、十日前のお休みの日です。用事があって朝から出かけていて、夕方ごろ戻ったらこうなっていました。殿下にプレゼントしていただいた大切な物なんです。私、悲しくて悲しくて……殿下になんとお詫びしていいかわからなくて……」
「君は何も悪くない!悪いのはこんな卑劣な嫌がらせをする犯人だ!」
芝居がかったやり取りに場が白ける。私は一つ咳払いをして続けた。
「出かける時はしっかり鍵をかけていましたか?」
「はい、戻った時も鍵は閉まったままでした」
「部屋の中で他に壊れた物や無くなった物は?」
「ありません。部屋を出た時のまま、他には何も変わったことはありませんでした」
「部屋のどこに飾っていたのですか?自然に落ちて壊れたという可能性は?」
「それもありません。飾っていたのはベッドの横の戸棚ですけど、絶対に落ちたりしないように紐でしっかりと棚に結び付けてありました。その紐が切られていたんです」
「切れていたではなく、切られていた?確かですか?」
「はい。刃物でスパッと切ったような切り口でしたから」
「なるほど……つまり、施錠された部屋に侵入した何者かが紐を切って置き物を棚から取り外し、破壊した……」
私は腕組みの片手を頬杖のように自分の頬に添え、少し首を傾けた。集中した思考が必要な時の癖のようなものだ。
「寄宿舎の部屋のドアを調べましたが、素人が簡単に開けられるような造りの鍵ではありません。一体誰がどのようにして忍び込んだのか……」
そこでまた殿下が口を挟む。私は自分の仕事中に横から口を出されるのがあまり好きではない。
「一つ簡単な方法があります。寄宿舎の管理人はすべての部屋の合鍵を持っている。もちろん厳重に管理されていて、誰でも簡単に持ち出せる物ではありませんが、何事にも例外はあるものです」
そこまで言ったなら最後まで自分で言えばいいのに、そこから先は私に言わせたいようだ。殿下の目がそう促している。
「……周知のことですが、学院の寄宿舎は元々、バーグレット家の使用人の宿舎だった建物です。新しい宿舎を建てた際、古い建物は学院に寄贈され、寄宿舎に改装されました。そのため、寄宿舎で働く使用人の多くは現在もバーグレット家に仕えています。管理人も含めて」
私は事実を述べただけだが、一部の事実だけを切り取って効果的に見せると、人は単なる推測を確定した事実のように錯覚する。これはそういうやり口だ。私の口から言わせることによって「客観的に見てもこれは怪しい」という印象を与えたいのだろう。つまらない芝居に付き合わされるのは仕事とはいえいい気分ではない。一方の殿下はすっかり気をよくしている。
「さて、ここでもバーグレット家の名前が出てきました。一つだけなら偶然かもしれない。二つ重なるとこれは偶然とは言い難い。では三つ目はどうでしょう?さあ、続きを」
調子に乗ってきた殿下と距離を置くように、努めて事務的な顔で三つ目の証拠品である紙の束を手に取る。
「先週開かれた学院のパーティーで、メロニア嬢が何者かに階段から突き落とされた件に関する報告です。事件が起きた後すぐにクリストファー殿下の指示で会場のホールは封鎖され、そこにいた全員に聞き取り調査が行われました。ここにその全員分の証言を書き留めたメモがあります」
紙の束をパラパラとめくってみせる。全部で二百十五枚。もちろんすべて目を通した。
「階段の反対側のステージで余興の劇が盛り上がっていたこともあり、メロニア嬢が転落したところを目撃した人はほとんどいませんでした。しかし、騒ぎが起きた後で階段を見た人の多くが、踊り場からメロニア嬢を見下ろしているフレデリカ様の姿を目にしています。フレデリカ様はメロニア嬢が転落する瞬間をご覧になりましたか?」
「いいえ。私もステージを見ていましたので、メロニアさんを見たのは階段の下に倒れている姿だけです」
「階段の上から劇をご覧になっていたのですか?」
「はい。そこでクリストファー殿下と待ち合わせておりましたので」
「殿下と?」
「はい。二階の談話室でスピーチの練習をするから付き合ってほしいと」
殿下の方を見ると、行儀悪く舌打ちする音が聞こえた。
「待ち合わせなどしていない。談話室で待っていてくれと言ったはずだ」
フレデリカ様は少し沈黙した後、相変わらず顔色を変えず静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。私の聞き間違えだったかもしれません。ただ、いずれにしても私は殿下を待っているつもりでそこにおりました」
「では確かに事件が起きた時、フレデリカ様は踊り場にいらっしゃったと」
「はい、確かに私はそこにおりました」
不利な結論に自分が誘導されていることは十分理解しているはずだが、フレデリカ様の顔色は変わらない。
「……実は、事件直後の聞き取り調査の中で、一人だけ犯人を見たという生徒がいたのです。フレデリカ様がメロニア嬢を突き飛ばすところを見たと」
円卓に着いた重臣の方々から低く唸るような声が上がる。国王陛下と王妃殿下は厳しい顔で黙ったままだ。
クリストファー殿下がここぞとばかりに勢いよく立ち上がった。
「とうとう直接的な証拠が出てきました。これで三つの事件全てにフレデリカが関わっていたことが明らかになった。何か反論したいことはあるか?フレデリカ」
「……いいえ」
顔色は変わらない。いや、殿下は気付かなかったかもしれないが、わずかに……ほんのわずかにフレデリカ様の唇が笑みの形に動こうとしたのが私にはわかった。
「私からは特に」
そう言ってフレデリカ様の目がこちらに向けられる。ここからが私の本当の仕事だ。
「では次に……」
「まだあるのか?」
殿下が自分の予定にない話の続きを訝しむ。私は淡々と頷いて手にしていた紙の数枚を円卓に並べた。
「事件後の聞き取り調査はクリストファー殿下の命令により、会場を警護していた殿下付きの近衛隊の方々が行いました。これらの紙に、一人一人の生徒の証言が記録されています。生徒の名前は記録しなかったのですね?」
殿下に尋ねると、当然だとばかりに頷いた。
「名前を聞かれると警戒するだろう?誰かに都合が悪い証言をしたら後で報復を受けるんじゃないかとな。重要なのは誰が証言したかではなく、何が起きたかを正直に話してもらうことだ」
「誰が証言したかも重要です。紙の右下をご覧ください」
重臣の方々が身を乗り出して円卓の上に注目する。
「調査を担当した近衛隊の方々のサインが書かれています。グレッグさんはG、ライスさんはRi、ローランドさんはRoですね。何しろ会場には二百十四人もの生徒がいましたから、六人で分担して聞き取りを行いました。後で隊長が書類をまとめる時、数が足りなかったら誰が未提出か分かるようにサインを入れたのです」
「それが一体なんだというのだ!」
殿下の声が苛々し始めた。これから盛大にフレデリカ様を吊るし上げようという矢先に水を差された気分なのだろう。
「聞き取りをする担当は学年、クラスで分けたそうです。問題の……フレデリカ様がメロニア嬢を突き落としたという証言が書かれた紙にはFのサイン。フォレストさんですね。担当したのは1年生の上流クラスです」
「おい、一体何の話をしている!」
殿下に肩を掴まれた私は、距離を取るようにその紙を殿下に突き付けた。
「ご記憶にありませんか?そのクラスの生徒たちは事件当時にステージで行われていた劇の次の余興の準備で、全員別室の楽屋に待機していたのです」
「なっ…………そ、そんなもの!トイレに行っていたとか、いくらでも考えられるだろう!」
「トイレは楽屋から見てパーティー会場のホールとは逆方向です。それに事件が起きたのは前の余興が終わる直前、つまりもうすぐ出番というタイミングで、楽屋を出てうろついている場合ではありません。それよりも不思議なことに……」
円卓の上の紙の束をもう一度集めてパラパラと数えるようにめくって見せる。
「この日は欠席した生徒が三人いて、生徒の総数は二百十四人だったはずですが、このメモは二百十五枚あります。一年生の上流クラスにも一人欠席者がいましたが、Fのサインが入った紙は全員分あります。欠席していた生徒は一体何を証言したのでしょうか?」
何か反論しようと殿下が目を白黒させているうちに、その隙を与えず次の証拠品に移る。さっきと同じやり口だ。ただし、追い詰める相手は反対側にいる。
「それでは次にこちらのドレスです」
私はまたワインで汚れたドレスを手に取った。
「このドレスの染みが付いた部分を調べると、生地が少しゴワゴワして硬くなっています。これはワインに含まれた糖分が固まったものです。普通のワインには固まるほどの糖分は含まれていません」
私は他の書記官が用意した金属板の上にドレスを広げ、水を含んだ刷毛で染みの上を軽く撫でた。
「正確に言うとこの染みは普通のワインではなくワインカクテル……つまり赤ワインの中にフルーツや砂糖、香辛料などを混ぜ込んだものです。染みが付いてからだいぶ時間が経っていますが、これだけ大量に染み込んでいるので、こうして温めた金属板の上に置いて軽く湿らせると、ある香辛料の特徴的な香りが確認できます」
円卓のお偉方を何人か招いて香りを確かめてもらう。
「確かに…………ちょっと変わった匂いがしますな」
「うむ。甘さだけではない、この少し癖のある香り……どこかで嗅いだことがあるような……」
一通り嗅いでもらった後で、私は上着のポケットから小さな紙の包みを取り出してドレスの横に並べた。
「この香りはピンクペッパーという南方の希少な香辛料です。肉料理のソースなどにも使われますが、輸入量はごくわずかで、国内でこれを扱っているのはドレックス・サウス商会のみ。そこで聞いてきました」
その場の全員の視線を誘導するように、ゆっくりとメロニア嬢の方を向いて、私はその事実を告げた。
「この香辛料を使ったワインカクテルを購入したことがあるのは、変わり種のワインをコレクションしているトワイス子爵だけです」
話についてこれていなかったメロニア嬢は何のことかと周囲を見回し、異様な空気に気付いて取り乱し始めた。
「わ、私知りません!お父様のワイン蔵には入っちゃいけないって言われてるし、どんなワインがあるかなんて知らないわ!誰かにあげた物かもしれないじゃない!」
「購入するのは毎年一本だけ。奥様が好きなそのカクテルを奥様のお誕生日に開けるのがご夫婦の楽しみだと、子爵は商会の方にお話ししていたようですよ。ちなみに奥様のお誕生日は……」
メロニア嬢の顔が青ざめた。その日はちょうど、メロニア嬢がドレスを汚されたと大騒ぎしたパーティーの前日だった。おそらく食堂にあった飲み残しのグラスの中身を自分のドレスにぶちまけたのだろう。その中身が何かも知らずに。
「自宅で汚したドレスを前もって衣装部屋に隠しておき、汚れていない同じドレスを着てパーティーに出席。タイミングを見計らって衣装部屋で用意してあったドレスに着替え、化粧室に戻って騒ぎを起こす。フレデリカ様の貸し切り状態の時に。説明は付きますね」
「お、憶測で物を言うな!」
ぐうの根も出てこないメロニア嬢に代わってクリストファー殿下が大声を張り上げる。一方が冷静に論理的に話をしている最中に感情的な大声で反論するのは著しく印象が悪い。自分から負けを認めているようなものだ。
「そうですね。憶測で人を断罪するのはやめましょう。では最後にこちらの真鍮の置き物です。学院のパーティーで初めてダンスを共にした記念に、クリストファー殿下から贈られた品だそうですね」
「そうです!私にとっては本当に大事な大事な思い出の品だったんです!私と殿下が一緒に過ごしたあの夢のような時間まで壊されてしまったみたいで……本当に本当に悲しかったんだから!」
思い出しただけでも悔しくて悲しくてたまらないというように、大きなエメラルド色の瞳からポロポロと涙が零れる。嘘が上手な人間の特徴だ。話しているうちに自分でも本当だと思い込んでしまうらしい。では本当の本当を思い出してもらうしかない。私はメロニア嬢に尋ねる。
「どこで買った品かご存知ですか?」
「違うわ!そのへんで売っているような安物じゃない!殿下が王宮に呼び寄せた異国の商人から買い取った特別な品なの!この国のどこにも代わりは無いのよ!」
状況が悪くなるにつれてだんだん感情的になり、口調が乱暴になってきている。誘導尋問するまでもなく言質が取れてしまい、私はつい苦笑を噛み殺した。自分さえ欺く名演技……と言えなくもないが、結局は感情に任せた軽率なおしゃべりだ。おかげで仕事が予定より早く片付く。
控えていたもう一人の書記官が円卓の上に紫色の布の包みを運んできた。ゴトリと重そうな音とともに、壊れた置き物の隣にそれを並べる。ちょうど同じぐらいの大きさ。私は紫の布をほどいて中身を露わにした。
くすんだ金色の真鍮で象られた、白鳥の、置き物。両翼が揃っていること以外は、まったく隣と同じ品だ。
「え……?なん……で……」
メロニア嬢もクリストファー殿下も開いた口が塞がらないという顔で呆然としている。
「城下の自由市の露店で買ってきました。一つ銀貨四枚です。半値にまけさせたので本当は二枚ですが」
「ちゃんといい物を買ってきなさいって金貨二枚渡したのに!あの子ったら!…………ぁ…………」
あまりの迂闊さに、ホールに集まったお歴々が失笑を漏らしている。国王陛下に至っては思わず吹き出してしまい、隣の王妃様に窘められていた。断罪シーンの最初の緊張感はどこへやら。これでは完全に喜劇だ。
「おっしゃる通り、あなたがいつも使いに出しているその使用人に聞いたらすぐに分かりました。どこでこの置き物を買ったか」
一応、口止めはされていたみたいだが、少し小遣いを渡しただけですぐに口を開いた。使いの駄賃も勝手に着服していたようだし、給金が足りないのか、それとも単にがめつい使用人なのか。いずれにせよ、よほど信頼している相手でもなければ簡単に任せていい使いではない。というより、人任せにしている時点で自分のしていることの重大さがまるでわかっていない。
「こちらの品について説明はもう不要ですね?よろしければその置き物は差し上げます。お大事になさってください」
円卓の方からクスクス笑いが漏れる中、私は論証を終えた。
「私からの報告は以上です」
真っ青になって震えているメロニア嬢の横で、クリストファー殿下が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お前は一体どっちの味方なんだ!」
おっしゃる意味がわからない。私はただの書記官。もとより私の考えや意見など何の意味も持たない。
「私の仕事はこれら三つの証拠品から事件の真相を解き明かす手掛かりを集めてこの場でお見せすることです。何が真実か判断するのは私の仕事ではありません……が、今お話しした内容は判断のお役に立ったでしょうか?」
国王陛下と王妃殿下の方に向き直ると、お二人ははっきりと頷いた。
「フレデリカとバーグレット公には改めて非礼を詫びねばならんな。後日伺うとお父上に伝えてくれ。今日はもう下がってよい」
フレデリカ様は相変わらず一切表情を変えずに一礼してホールを後にした。しかし、下がる途中で一瞬だけ私と視線を交えたその目の奥には、明らかに「してやったり」という愉悦の色が見えた。怖いお方だ。
「さて……王子には引き続きここで話を聞こう。もちろんそちらのトワイス子爵令嬢も一緒にな」
泣き出しそうな顔を見合わせて声を失くす二人を横目に見つつ、仕事を終えた私もホールを後にした。
*
「噂通り優秀なのね、一等書記官さん」
廊下でいきなり声をかけられて背筋がゾクッとした。まさか私を待っていたのだろうか。
「恐れ入ります、フレデリカ様。この後はどういう筋書きになるのでしょうか?」
「いやだわ、まるで全部私が書いた筋書き通りみたいに言わないでくださる?人聞きの悪い」
円卓ホールでは一切感情を見せなかったフレデリカ様はいかにも楽しそうに笑った。確かにフレデリカ様は私に何か指示したわけでもなければ、そもそも直接言葉を交わすのさえこれが初めてだ。ただ、事前に法務卿に根回しして、調査を担当する書記官に私を指名した。それだけだった。
「殿下とのご縁は無かったことになるでしょうね。お父様にもそう伝えてあります。あれを見せられた後では、陛下も婚約解消を認めざるを得ないでしょう」
「そのためにあえて二人の断罪ごっこに付き合ったというわけですか?」
フレデリカ様はよく磨かれた刃物のように美しくヒヤリとした笑みを浮かべたまま、感情の読めない目で私を見た。
「あなたはどうしても私を計算高い悪役令嬢にしたいみたいね。私だって最初から殿下を拒むつもりだったわけではないわ。これでも私なりに傷付いたのよ?いつもあの子を追いかける殿下の後ろ姿ばかり見せられて。何度も何度もプライドを踏みにじられた」
おそらく本当なのだろう。しかし過去の話だ。フレデリカ様が殿下に対してもう履き古した靴ほどの愛着も持っていないことは伝わってくる。
「でも今思えばそれで良かったのかもしれない。このまま結婚したとしても、あの方はまた何度でも私を裏切る。いずれあの子には飽きるでしょうけど、どうせすぐに別の運命の方を見つけるでしょう。そういう人よ。この二年間、殿下はじっくり時間をかけて、自分が信頼に値しない人間だと証明してくれたの」
清々しいほどに見限った顔。それも当然だ。どんなに粗末に扱っても婚約者は黙って自分についてくる――殿下がそう思っていたのだとしたら驕りが過ぎる。将来王として人の上に立つ資格があるとは思えない。
「私は私の人生をこれ以上無駄にしたくない。だから殿下とお別れできるチャンスを待ったわ。お父様と陛下が決めた婚約を私のわがままで破棄するわけにはいかないものね。そのうちあの田舎娘が何か仕掛けてくるだろうと思ったし、それこそ千載一遇のチャンスだと思っていたの。虫を追いかけている蛙は自分を狙っている蛇には気付かない。そういうものでしょう?」
まんまと餌に食いついた蛙を見事仕留めてみせた。世間からは従順でか弱い深窓のご令嬢だと見られているフレデリカ様だが、冷徹な捕食者の顔を持っている。この方が将来の王妃にならなくてよかったのかもしれない。あまり切れすぎる刃は僅かに触れただけでも多くの血が流れる。
「あなたのことも、いつか役に立つかもしれないと思って調べてあったの。公正中立で、どんな些細な矛盾も見逃さない完璧主義の堅物。本当にその通りね。あなたならあんな雑な仕掛けを見逃すはずないと確信していたわ」
「私は当たり前に仕事をしているだけですが、信頼にお応えできたなら何よりです」
正当な仕事に正当な評価。それだけが私の求めるものだ。
「信頼に値する人間は貴重だものね。あなたの名前は憶えておくわ、エリック・ブレンダーさん」
私が一礼すると、フレデリカ様は元の箱入り令嬢の顔に戻って楚々とした歩みで去って行った。まだ何か厄介事の予定があるのだろうか?私の出番など無いに越したことはないが、つくづく宮廷というのは厄介事の尽きない場所だ。高貴な方々の複雑な事情になど深く立ち入らないに限るし、巻き込まれないように細心の注意で立ち回らなければならない。最後に何か含んだようなフレデリカ様の口調に嫌な予感を覚えながら、私は上司への報告に向かった。
*
私は大きな鏡台の前のスツールに座り、洗い終えたばかりの髪から丁寧に水気を拭き取っていた。ネットでまとめて書記官の制帽の下に押し込んでいた髪は、すぐに洗って念入りにブラシをかけないと傷んでしまう。お母様譲りの艷やかな黒髪は私の数少ない自慢の一つだ。
東向きの窓の外から馬車の音が聞こえてくる。いけない、予定より早いお帰りだ。てっきり今日は遅くなると思ったから先にお風呂を済ませてしまったのに。私は慌てて緩めていたワンピースの首元の紐を結び、上着を羽織って階段を降りていく。髪はもう下ろしたままでいい。早くしないとメイドのハンナがお迎えに出てしまう。いつも叔父様のお帰りを一番に迎えるのは私の仕事。それは誰にも譲れない。
ドタドタと少々行儀悪く駆け下りてしまったが、玄関のドアが開いた瞬間には涼しい顔でその前に立ち、お迎えすることができた。
「お帰りなさい、叔父様」
「ああ、ただいまエリカ。今日は大変だったな」
「別にいつも通りです。このまま書斎で調査終了の報告をしますか?」
「いや、食事の後にしよう。久しぶりに二人でゆっくりできる時間があるんだ。仕事の話は簡単に済ませたいな」
「ですね」
私は叔父様が脱いだコートを受け取りながら、笑って頷いた。
私の保護者であり、上司でもあるジョナサン・ハウエル法務卿。叔父様と言っても本当の血縁は無い。十歳の時に家族を亡くし、身寄りが無くなった私を引き取ってくれたのが、父の部下だったこの方だった。
私の父は先代の法務卿ルトガー・エンリッチ。厳格な法の執行者であり、「冷血卿」の異名で民衆から憎まれた人だ。母と一緒に馬車に乗っている時、暴漢に襲われて命を落とした。私は身の安全のため、父とは違う姓を名乗ることになった。
叔父様は独身なので、養子ではなく親戚の子ということにして家に置いてくれた。しかし、典型的な仕事人間で家のことなど何もわかっていない叔父様が、急に十歳の女の子を引き取って育てようなんて無謀なことだった。メイドのハンナがいなければ、私がこの歳まで無事に育つことはなかっただろう。この家に来て二年もすると、逆に叔父様の身の回りのお世話のほとんどを私がするようになっていた。
その代わり、叔父様は私に大切なことをいくつも教えてくれた恩人だ。私は厳格な父の教育の下で育ち、勉強だけは人一倍よくできた。でも人の気持ちがわからない子供だった。やるべきことをなぜやらないのか、決められたことをなぜ守れないのか、自分が当たり前にできることをできない人間の気持ちがまったく理解できなかった。当然のように友達はいなくて、いつも本ばかり読んでいた。孤立が私の日常だった。そんな私を叔父様はまず認めてくれた。
「エリカ、人は皆それぞれ違う。無理にわかり合う必要はないし、君は自分がいたい場所にいて、好きなことをしていていいんだ。皆が笑っている時に君一人だけ笑わなくても、何もおかしなことじゃない」
そんなことを言う大人は他にいなかったから、私は彼に興味を持った。
「まったく違う人間同士がいちいちぶつかり合わずにうまくやっていくためには、双方が納得できるルールを作って、お互いにそれを守るのが一番だ。そのために法というものがある」
「でも叔父様、ルールを守らない人がいます。彼らは罰を受けないといけません。そうしないと誰もルールを守らなくなります」
「そうだな。ルールは守らないと意味が無い。だから皆が守れるようにするための工夫が必要だ。守れない者に罰を与えるのもその一つだな。ただ……」
叔父様は十歳の子供にも真剣な顔で難しい話をする。子供だからと軽く考えず、一人の人間として誠実に向き合うその姿勢は私にとって新鮮で好ましかった。
「罰を与えることが目的じゃない。ルールを守れない者にも理由がある。彼らがどうしたらルールを守れるか、それを考えるのが私の仕事だ。エリカ、覚えておいてくれ。法は人を罰するためのものではなく、守るためのものなんだ。私は大切な君の心がいつも守られるように、君のための法を創るよ」
そして創られた「エリカの六条」は、どれもシンプルだけど私には難しいものだった。「第一条、誰かに声をかけられたら相手の顔をよく見て返事をする」、「第二条、自分がしたいこと、してほしいことを真剣に伝える」、「第三条、自分がしたくないこと、されたくないことを丁寧に伝える」、「第四条、毎日日記をつける、必ず自分の気持ちについて書くこと」、「第五条、食事中に本を読まない」、「第六条、ルールは変えない、ただし自由に付け足してよい」。
特に自分の気持ちを誰かに伝えるのが苦手だった私は二条と三条がうまくできなかった。すると叔父様はルールを付け足すことを教えてくれた。条文の後に「最初はメイドのハンナにだけ」と付け足すと、少しできるようになった。そのうち叔父様や他の人の名前も後に付け足していった。五条はなかなか守れなくて、私は初めてルールが守れない人の気持ちが少しだけ理解できるようになった。
私は叔父様と暮らすようになって、人が皆こんなにも違うのだと日々学びながら成長していった。自分でも何か欠けていると感じていた心の中のピースが、他人からの学びによって少しずつ埋まっていくものだと知って、以前ほど孤独を感じなくなった。
叔父様にももちろん欠けているピースがたくさんある。着るものに無頓着でいつも同じ服ばかり着たがるから、ちゃんとそれなりに見えるものを私が見繕って用意しなければならない。装い次第でまだまだ若々しく見えるのに、いつも疲れた空気を漂わせているのは勿体ない。
とにかく忘れっぽくて一から十まで私が支度をしないと必ず何か忘れ物をする。忙しすぎるせいで私との約束もよく忘れる。埋め合わせをすると言ってもなかなかその暇がなくて、メイドのハンナにしょっちゅう怒られている。でも家でしか見られないその不完全な姿に私はホッとする。私の心の中の欠けている部分を最もたくさん埋めてくれたのは叔父様からもらったピースだった。
私が叔父様の仕事を手伝うようになったのは、学院でのある出来事がきっかけだった。
二年前、学院に入学した私は相変わらず友達がいなかった。以前ほど人を寄せ付けない空気は出していない……と思う。単に一人でいる方が落ち着くのだから仕方がない。人の本質はそう簡単に変わらない。
群れに属さず一人でいると、早々に虐めの標的になった。虐めグループのリーダーは某名門伯爵家のお嬢様。私は私の法2条および3条に基いて「私に構わず放っておいてほしい」とはっきり丁寧に伝えたが、余計に虐めが酷くなっただけだった。法は万能ではない。彼女たちには彼女たちのルールがある。
私は自衛のため、リーダーの弱味を探ることにした。彼女の求心力はその立派な家柄によって保たれている。だからそこに何かしらの瑕疵があるといい。どんな立派な家にも、いやむしろ立派な家だからこそ、表沙汰にしたくない傷の一つや二つはあるものだ。
そう思って彼女の家を調べていくと、思いがけず巨大な膿を見つけてしまった。彼女の父親は当時進められていた国立劇場の移転新築計画を担当する大臣だったが、その莫大な予算のなんと半分近くを横領していることがわかったのだ。
何の権限も持たない一介の学生がちょっと出入りの業者に聞き取りをして、現場の資材の数量と納品書を盗み見て、大雑把に推計しただけで発覚するような杜撰な不正だった。何しろ立派な家柄だから、疑われるはずがない、調べられるはずがないと高をくくっていたのだろう。まさか娘の虐めが原因で突き止められるとは、さすがに誰も予想できない。
私はただ彼女に大人しくしていてほしかっただけで、別に彼女の父親の息の根を止めたかったわけではない。掴んだ弱味が大きすぎて扱いに困った。しかし不都合にも私には毎日顔を合わせる法務卿の叔父様がいる。これだけの不正を知っていて黙っていることはできなかった。
迷った末、私は調査の結果をすべて叔父様に報告した。叔父様は驚きながらも、私の話を信じて証拠を集め、罪状がある程度固まった段階で処分に踏み切った。こうして建国以来最大の汚職事件が明るみに出ることとなったが、その発端が学院生徒のつまらない虐めだったことは知られていない。
その後も私はなりゆきでいくつかの事件を調査し、図らずも叔父様の仕事を助けることになった。学院でようやくできた友達が両親の不仲に悩んでいたので父親の素行を調べたら浮気相手が某国のスパイだったり、行きつけの古書店の主人の子供が行方不明になり、探す手伝いをしているうちに城下にはびこっていた人身売買組織が某下院議員とつながっていることに気付いたり……よくもこれほど大きな事件にばかり巡り合うものだ。どうも私は引っ掛かった小さな違和感を放置できなくて、徹底的に調べ上げてしまう。結果的に、誰も気が付かないような手掛かりから思わぬ真相に辿り着いてしまう。
人身売買組織を調べるために下町のいかがわしい店に潜入した時には、捕まって危うく自分自身がどこか遠くの国に売り飛ばされるところだった。組織の拠点に自ら乗り込んできて権力のごり押しで私を取り戻した叔父様は、見たこともない剣幕で私を叱った。そしてその場で私の法に第七条を追加した。「第七条、二度と一人で危ない調査をしないこと」。
叔父様は祈るような真摯な眼差しと口調で私を諭した。
「君に素晴らしい能力があることはわかっている。その力を人のために役立てることも素晴らしいと思う。でも私はこんなことで君を失いたくない。やり方を間違えないでくれ。今度から何か気になって調べようと思ったら、一人で動き出す前に必ず私に相談すること。いいね?」
そして叔父様が用意したのが一等書記官エリック・ブレンダーという私の仮の姿だった。法務卿直属の部下として公式な調査の権限が与えられている。さすがにただの学院の女生徒にそんな権限を与えるわけにはいかないから、別人に成りすます必要があった。
叔父様としては実際に調査をさせるつもりはなく、もし必要になればその名前と立場を使えるように用意しただけなのだろう。でも私は自ら叔父様の仕事に首を突っ込んだ。公式な部下なのだから、外には漏らせない仕事上の情報を聞いても問題無いはずだ。
渋る叔父様から根掘り葉掘り聞き出して、わかっている情報を分析して、一緒に着地点を考える。複雑な権力構造と人間関係が絡み合う宮廷では、法がすべてを解決するわけではない。常に対立し、ぶつかり合う利害を法の匙加減で調整する。匙加減を間違えるとどこかで関係が破綻し、争いが大きくなる。そうならないように、すべての利害関係者の思惑や動向を常に掴んでいなくてはならない。部下に恵まれていない叔父様が唯一無二の片腕として私を頼るようになるまで、それほど時間はかからなかった。
*
「メロニアさんはやっぱり退学になりますか?」
「それは避けられないだろうな。公爵家の令嬢を陥れようとして、王家の婚姻も台無しになった。やったことは子供の悪戯程度でも結果は重大だ。死罪にならなかっただけでも幸運だよ。トワイス子爵には気の毒だが、家督の存続もこれで諦めざるを得ない」
私は叔父様と二人で食事を終えた後、そのまま食堂で今日の調査報告について話し合っていた。
「メロニアさんに厳罰を与えると共犯のクリストファー殿下も処罰しなければならない。そういうわけにもいかないので、陛下がバーグレット公に頭を下げて穏便に済ませてもらった」
「そういうことだ。公の寛大さに感謝しなければな」
「フレデリカ様にも」
私は二年間、その他大勢の学院生の一人としてメロニア嬢と殿下の奔放で無責任な振舞いを見てきた。面目を潰され続けるフレデリカ様の姿も。手ぬるい処分にはモヤモヤが残る。
「殿下は本当にお咎め無しでいいんでしょうか?これで懲りる方とも思えませんが」
「まあ……表向きはお咎め無しだが、陛下もさすがに今度ばかりはお考えになったようだ。早急に殿下の首に鈴を付けなければと仰っていたよ」
「フレデリカ様に代わるお妃様は例のあの方で決まりだと、もっぱらの噂ですね」
「噂は噂だが、それはそれで頭が痛いな」
苦笑する叔父様と顔を見合わせて、私も笑った。
「では仕事の話はここまでということで、報告を終わります。次の案件ですが……」
「おいおい、仕事は終わったんだろう?」
わざと事務的な口調で話を続ける私に、叔父様が困惑する。
「先週すっぽかされた買い物の代替日程について、私から提案させてください」
叔父様の肩からスッと力が抜け、私の前だけで見せるいつもの顔になる。
「参ったな……エリカに任せるよ。今度は絶対に忘れない」
「その言葉は先週も聞きました」
私は予定をびっしりと詰め込んだ完璧な休日のプランを六パターン、予備案も含めると十パターン説明し、念入りな打ち合わせは夜更けにまで及んだ。
~fin~




