あの日あの夜あの神楽鈴
近頃は、思い出せない名前と咳をする回数が増え、やりたいことと出来ることが減った。
そんなであるから、恐らく私はもう長くないのであろう。
この世界に何も残せないというのは大層物寂しいので、まだ文字が書けるうちに、私が体験した奇妙な出来事をここに記す。
駄文となる事を、どうか許して欲しい。
これは、私が丁度十五の夜に、体験した、出来事である。
私は、ある山に囲まれた村で生を受けた。名前は思い出せないが、その自然の豊かな事は鮮明に覚えている。
水源は、村の隅を流れる二本の小川と、稀に降る雨のみであり、井戸はなかった。
外界とは殆ど完全に孤立したその村では、自給自足という、あの頃ですら時代遅れな方法で、日々の食事や、衣服や、住居を得ていた。勿論、村人同士で、分業をしていた。
そこに暮らす者は、十五人だったと記憶している。顔も名前も年齢も、彼らに関する事は最早殆ど靄がかかったようであり、詳しくは覚えていないが、皆、常に笑顔であったことは、強く記憶に残っている。私は、子供ながらに、いや、子供だからこそ、それが恐ろしくて、薄気味悪くて仕方がなかった。
まるで、皆、笑顔以外を許されていないかのような、自分勝手な感情を出すことを禁じられているような、そんな雰囲気であったのだ。
その村は、基本的には自由であるが、ただ、二つだけ、決まり事があった。
一つに、決して山に入ってはいけなかった。
危ないから、危険だからと、よく大人たちに言われた。
事実、夜、眠るとき、時折山の方から奇怪な叫び声が聞こえることがあった。私は耳が良かったのだ。
その事を誰かに話しても、皆、聞こえないという。それが何より不気味で仕方がなかったから、態々山に入ろうとは思わなかった。
ただ、一度だけ、山に冒険しに行ったことがある。
その村には、私以外に、あと二人の子供がいた。
わんぱくな少女と、物静かな少年だ。
どちらも私よりも歳上で、だから、つまり私は、その村で最年少であった。三人は、一歳ずつ、歳が違っていた。少女の方が、その中では、最年長であった。
そこにあった娯楽といえば、僅かばかりの小説と、小さな小さな川だけで、それ以外には何にもないものだから、私たちは、いつも退屈と虚無感に押し潰されそうであった。本を読めたのは、その物静かな少年のみであった。
知っている遊びは幾ばくかあったものの、たった三人では出来ることに限りがある。
大人になったら、必ず外に出ようと、よく誓っていたものだ。
その二人は、他の人と違い、表情豊かであった。だから、一緒にいて、楽しかった。
私は、その二人のことが、好きであった。
そんな二人と、私は山に入った。
目に入るもの全てが新しいものであるから、初めは少し怖かったものの、暫くしたら、私も大変楽しくなった。
気がつけば、陽が傾き出していた。
そろそろ帰らなければという時、私達は、何やら奇妙な跡を見かけた。
巨大な何かがその巨躯を引き摺りながら森の奥へと進んだような、変な跡だった。
突然、周りの気温が下がったような気がした。その時は夏真っ只中で、いくら夕方とはいえ、暑いことこの上なかったにも関わらずだ。
私達は、一気に恐怖に襲われた。
気がつけば、私達は駆け出していた。
その時、私は、遥か遠くで、シャランと、何か鈴のようなものが、鳴った音を、確かに聞いた。
帰った時には、既にとっぷりと夜が更けていた。
私達は、酷く怒られた。親からだけではない。村人全員から怒られたのだ。私達を心配しているというより、何かしてはいけない事、したら祟られる何かを犯したかの如く。決まりを破ったからだろう。
彼らがそれほど怒ったのは、後にも先にも、その時だけであった。
もう一つに、その村の少年少女は、十五になる夜、とある儀式を受けるというものがあった。
何人かに連れられて、夜間の山に入り、そこで、外に出るか、村に残るか、選ぶというのだ。
何故、態々、危険な山で行うのかと、一度訊いたことがある。その村の、村長のような、立場の人間だ。その日は、酷い雨で、する事もなく、尋常でない程、暇だったのだろう。
冗長な説明を受けたが、まとめると、山に住まう、神様のような何者かの、判断を乞うためだという。確かに、その村には、毎年の収穫物の幾らかを、山に持って行く習慣があった。所謂御供えなのだろう。
最終的に、本人の意思が、尊重されるというのなら、そんな事、しなくてもいいではないか、私はそう問うた。村長は、そんな事はいいから、家業を手伝ってきなさいと、私を追い出した。私の家族は、農家であったが、同時に、少しばかりの衣服を作っていた。それを手伝ってこいと、そういうのだ。
私は、不満に思いながらも、家に帰り、ちまちまとした針仕事をした。その時に、両親に、同様の質問をしたが、得られたものは、大して変わらなかった。
たった数人が連れ添うだけで、危険な山に入っていいのかと、不思議でしょうがなかったが、何より奇妙なのは、過去、誰一人として、外に出る事を選んだ者は、いなかったそうだ。これは、後になって聞いた話だ。
私は、決して聡い子供ではなかったが、それでも、不自然であると、思っていた。無論、あの二人の他に、こんな事、話せる訳もないが。
ある日、この儀式が、執り行われた。少女の方が、十五になったのだ。
私は、もう一方の少年と、その門出を祝おうと、儀式が行われるまで、少女に付き添っていた。
しかし、まだ夕方だというのに、大人は、私達を、その少女から引き剥がした。抵抗すると、よくわからぬ論理で、言いくるめられた。その時の圧は、笑顔でも誤魔化せない程だった。
別れる直前、最後に、少女が、私達に向かって、外で待ってると、小声で言ったことを、昨日のことのように覚えている。
確かに寂しかったが、たった二年耐えれば、私も外に出られると考えれば、まあ良いだろうという気になった。
私達は、ある小屋に、閉じ込められた。私が産まれた頃から、村の隅に、ポツンと存在する、古い小屋である。
抜け道は見つからず、窓もなく、入り口は閉ざされていたから、仕方が無いので、私達は布団に入った。
しかし、どれだけ経っても眠くならない。大して遊んでいないし、まだ夕方であるし、何より、あの少女と暫く会えないことに、少なからず悲しみを抱いていたことが、その原因だろう。
私達は、下らない事を、話し合った。とは言え、話す内容など、大してなかった故、すぐに止めて、眠りにつこうと、めいめい奮闘した。
どれだけ経ったか分からないが、その頃には、既に、夜が始まっていた。入り口の、ほんの僅かな隙間から漏れ入ってくる、その夜の深さは、確かに、新月の晩のそれであった。
そろそろ、少女は、山に入り始める頃だろうかと、ぼんやりと考えていた時、私は、微かに、再び、シャランという、鈴の音を聞いた。
何度も何度も、シャランシャランと、外で鳴っている。この時の私は、大して気に留めていなかった。不思議な偶然もあるものだと、ただそう感じていた。隣で、同じようにしている少年は、その音に、気付いていないようであった。
そこから、さらに幾ばくかの時が経ち、そろそろ夜も更け、眠気を誤魔化せなくなった頃、山の方から、かの叫び声を聞いた。時折山から鳴っていた、あの叫び声である。それと同時に、何やら甲高い音も、同時に響いた。
流石に、私達は、飛び起きた。
ただ只管に、怖かった。
私達は、互いに抱き合いながら、夜を過ごした。
翌朝、私達は、陽の光で、目を覚ました。
入り口が、開けられたのだ。
寝ぼけ眼で外を見た。
私達は、驚愕した。
そこには、かの少女が、立っていた。
外に出たのではと、私達は問うた。
彼女は、何も言わなかった。その代わりに、ただただ、例の、薄気味悪い笑みを、浮かべていた。その村の人々が、皆、顔に貼り付ける、あの笑みを。
私達は、静かに悟った。ああ、もうかつてのあの少女は、何処にもいないのだと。
少女は、今までとは、あらゆる点で、異なっていた。
一つに、喜怒哀楽が消え去った。無論、常に、笑顔を浮かべているが、今までは、怒る事も、泣く事も、頻繁にあった。今の少女には、それが一切ない。
一つに、彼女は、働き者になってしまった。
彼女の家は、農家であった。なかなかの広さの畑で、野菜を育てていた。
彼女は、家業の手伝いを、心底嫌っていた。隙さえあれば、いつの間にか、逃げ出していた程。
今の彼女は、寝る間も惜しんで、農耕をしている。
暇があれば虫を払い、時間を見つけては雑草を取る。雨の日には、家で別の作業をし、晴れた日には、水を汲みに行く。
私達とは、最早、遊ばなくなってしまった。
それ以外にも、口調の変化、立ち振る舞いの差異、記憶の異常など、挙げればきりが無いが、兎も角、彼女は、別人になった。言うまでも無いが、悪い意味で。
しかし、その村は、あたかも、何事もなかったかの如く、日々を送り始めた。まるで、初めから、その少女が、そうであったように。
その年の供物は、やけに、少なかった。
私は、少年と、絶望した。
何も成せぬまま、少年の、儀式の日となった。
その日、私は、一人で、あの小屋に、閉じ込められた。
新月の晩であったからだろう、一切の光が、入って来ず、暗闇の中、私は、静かに、声を殺して、泣いた。
翌日、少年は、偽物となった。
作り物の笑顔を、べったりと貼り付け、黙々と、作業をするその姿は、酷く、悲しかった。
その年も、供物は、随分と、少なかった。
愚かな私でも、流石に悟った。私達は、人身御供なのだろう。いや、恐らくは、この村の全員が、そうであったのだ。
最終的に、私だけが、残った。ただ、それだけのことだ。
その日から、私は、一人になった。
私以外の、全員は、気味の悪い笑顔で、文句の一つもこぼさず、仕事をしていた。
それからの、一年は、人生で最も短い、一年であった気がする。
いよいよ、私の番になった。
村の全員が、私を取り囲み、笑顔で、何やら変な事を、言った。あの少年少女も、大人側であった。
何を言っていたか、まるで覚えていない。私は、恐怖と、絶望と、怨嗟と、後悔に、飲み込まれていた。
やがて、夜が来た。満月の燦々と輝く、美しい夜だった。
その時、山から、三人、歩いてきた。
二人は、私の横を、一人は、私達の前を、歩いた。
片手に松明を持ち、もう一方には、細長い木の棒に、幾つかの鈴が付いた何かを、持っていた。
私が、度々聞いた、あの鈴の、音が、その棒から、鳴った。
後に知ったが、それは、神楽鈴と言うらしい。本来であれば、邪気を祓う、神聖な物だそうだ。当時の私にとっては、恐怖の、象徴でしか、なかったが。
私達は、山に入った。
彼等は、何も、言わなかった。
ただ淡々と、仕事をこなす、その様な、雰囲気だった。
気付いたら、涙が、流れていた。松明の火が、視認できぬ程、ぼやけた。
暫く歩き、いよいよ、生を諦め出した頃、私は、森の木に、赤い文字が、付いている事に、気が付いた。
私は学がなかったが、平仮名であれば、辛うじて読めた。
その文字は、
に、ろ、に、げ、に、ろ、ろ、げ、に、げ、ろ、に、
の様に、延々と、続いていた。
少しして、私は、それらが、何を意味しているか、分かった。
逃げろ
そう言っている。
気がつけば、私は、駆け出していた。
三人の、男の、隙を見計らい、一目散に、森の中を、駆けた。
男達は、私の知らない言語で、叫んだ。私を、無我夢中で、追いかけた。シャラン、シャランと、激しく鈴が鳴った。
私は走った。
走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、転んで、また走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って、走った。
やがて、息が続かなくなり、立ち止まった。
荒ぶる呼吸が、激しい鼓動が、五月蠅かった。
その喧騒の中で、しかし私は、聞いてしまった。
ズッ、ズッ、と、何かが何かを引きずる音。
かつて山で見た、謎の跡が、もし仮に、何か生物によって作られた物なら、その時、一体、どの様な音が鳴るだろうか。まさしく、この様な音が、鳴るのではないか。
耳を澄ました。その音は、まだ遠くで、鳴っていた。
しかし、かなりの速さで、近づいて来ている。
その側から、また、神楽鈴の音も、聞こえる。
私は、震える足の、その疲れを忘れ、再び走った。
走った。
転んでも、立ち上がり、走った。
胃の中から、何かが出て来た。
それでも走った。
気がつけば、血を吐いていた。転んだ時に、口内を傷つけたらしい。
それでも、走った。
ずっと、すぐ側から、あの神楽鈴の音が、あの引き摺る音が、聞こえる気がした。
半狂乱になりながら、走って、走って、私は、やがて走れなくなった。
立ったままも厳しく、そのまま倒れた。
暫く経った。呼吸はまだ、落ち着いていない。
耳を澄ました。足音が聞こえた。もうダメだと、そう思った。
その足音は、しかし、私の、すぐ横で立ち止まり、私は、優しい声を、かけられた。未だかつて、その様な声色は、聞いたことがなかった。
ふと、顔を上げた。
その正体は、見知らぬ男性だった。
遥か彼方で、朝が焼けていた。
私は、一晩中、走り回り、そして、逃げ切ったのだ。
その男は、猟師だった。
毎朝、早朝に、仕掛けた罠を、確認する事が、日課らしい。その途中で、誰かの倒れる音を聞き、駆けつけたそうだ。
その男は、親切だった。
名前も知らぬ私に、住む場所と、教育と、その他生きるに必要な物を、下さった。
この様にして、私は、村の外に、出る事ができた。
これが、私が、経験した全てである。
あの山は、最早何処にあるかも、覚えていない。あの音の正体も、村の人達の安否も、何もかも、分からないままである。
近頃は、幻聴が、酷くなった。
未だに、すぐ側で、あの神楽鈴が、鳴っている。




