忌まわしき令嬢が去った朝、王宮は腐り始めた
「悪いがブラックミスト嬢。婚約破棄することが決まった」
侯爵は私に対して感情もなくそう告げた。
彼は決まった、という。
決して決めたとは言わない。
それに対してもはや悲しいとは思わない。ただこの人は、そういう人だというだけだから。
「ブラックミストの一族は代々国家に忠誠を尽くし、それぞれの時代に於いてその役割を発揮したのだろう。しかしもう、時代は変わった」
「……それは、あの新しい魔法使いの言葉ですか?」
侯爵の眉がぴくりと動く。
「はっ! 私があの男のいいなりだとでも?」
プライドの高い侯爵は、実質そうなっていることを認められない。
侯爵はもともと、彼の兄弟に比べて勉学で勝てなかったことがコンプレックスとなっており、自分の判断や決断に自信を持つことができない。
だから賢しい側近をもとめ、その言葉を鵜呑みにしてしまう。
「あの男は関係ないさ。ただ、僕も考えていたのだ。『瘴気吸いの一族』、こそが厄災の種なのではないかとね」
瘴気吸いの一族。
ブラックミストは代々王族に仕え、その土地に包まれる瘴気を浄化する。瘴気を浄化しなければ、建物は腐り土地は痩せ、辿り着く先は荒れ果てた荒野だ。
事実、五代前の先祖の時代は何度も国は飢饉に襲われ、建物も一年もまともに形を保ちはしなかった。しかし、時代は移り変わる。
瘴気の発生源を管理するためにそこに王城が建てられ、次第に街全体の瘴気は減少していった。
発生源の上に建てられているはずの王城も、そろそろ100年は経とうかというのにあまりにも荘厳に健在している。
私自身、確かに日々瘴気は吸っていると思う。
ただ、それが一体どれほど国のためになっているのかわからないのが正直なところだ。なにせこの街はいま、腐っていない。
かつては確かにあったとされた瘴気吸いの一族の存在意義は、現在急速に曖昧になっているのだった。
「……そう。ですか……」
「ふん。撤回を求めないのか?」
私のことは、ともかくとして。
一族ともども、厄災の種だとこの人は言った。
それがきっと誰かの入れ知恵だったとしても、もう、私は疲れてしまった。
そんな彼に振り回されることも、その上で国を守ることも。それがどれほど有益なことかは、もはやわからないけれど。
だから私は、何も言わずに小さく頷いた。
彼は不服そうに鼻をならし、私に背を向けて部屋から出て行った。
きっと私は、もう彼と会うことはないのだろう。
◆ ◆ ◆
『ニーナ。私たちブラックミストがこの国を守っているのです』
物心ついたとき、母はことあるごとにそう言った。
王都フォグブラウンはもともと常に瘴気の霧に包まれた土地だった。その霧を晴らし、その地を明るく照らしたのが私たちのご先祖様。
建物が腐り、死に行く土地を肥沃な大地へと変えた、この国にとって必要な存在なのだ。
私は7歳になったときから母に倣って城中を、歩き回った。
その中で、どの場所に瘴気が沸きやすく毎日ケアしなければならないかを知った。
特に東回廊は瘴気が溜まりやすく、私は毎朝真っ先にそこに向った。
放っておいたら柱が腐ってしまう。だから、薬草を混ぜ込んだ石鹸で洗う。
そうすることで瘴気が溶け出し、自然と私の中へ流れ込む。
これは代々伝わる手法とは違う私が勝手に始めたものだ。石鹸が孕んだミントの成分を受け取ると、私はちょっとだけ清々しい気持ちになった。
それに、拭いたあとの柱はピカピカで、まるで生き返ったように美しくなる。
柱を洗い終えると、次は北側の窓枠だ。
ここは石鹸では届かない細い隙間に瘴気が溜まる。だから私は細い刷毛を使う。薬草を煎じた液を含ませた刷毛を、継ぎ目に沿ってゆっくりと走らせる。
これも私が勝手に始めたものだ。
母はそんな道具を使わなかった。ただ歩くだけで十分だと言っていた。確かにそれでも吸える。ただ、私には物足りなかった。もっと根こそぎ取れる気がして、十二歳の頃から試行錯誤を続けた。
刷毛の毛の硬さ、薬草の配合、液の濃度。
冬は薄めに、夏は濃いめに。雨の日は石壁全体が均一に湿るから、刷毛より素手の方が効率がいい。
母はそんな私を怪訝な目で見ていたが、しかしまるで世界が浄化される気がした。
それだけが楽しかった。
◆ ◆ ◆
十五歳の秋、母が死んだ。
瘴気吸いの一族は代々短命だ。
ただでさえ、数年前に次々に叔母が亡くなっており、瘴気吸いは私と母だけになっていた。
そして、いよいよ私はひとりぼっち。
葬儀の翌朝も、私は城へ向かった。 誰かが止めるかと思ったが、誰も何も言わなかった。
東回廊の柱を洗いながら、私は泣いた。いつもより長く、いつもより遠くまで歩いた。
泣きながら歩いて、泣きながら洗った。
石鹸のミントの匂いだけが、その朝の私を支えていた。
私はこの国で唯一の瘴気吸いの一族だ。
王城を、ひいては王都を決して腐らせるわけにはいかない。
それからは毎日欠かさず城中を歩き回り、必要だと思われる場所は特製の石鹸で洗ってピカピカにした。街中にも出て、瘴気が少しでも発生している場所があれば近づき、吸った。
なんとか保っていた。
やっと保っていた。
しかし、徐々に噂がたち始めたのを私は知っている。
『瘴気吸いの一族など不要だったのでは?』
当然かもしれない。
一族の女総出で瘴気を吸っていたはずだった。
それがいまやたった一人になったにも関わらず、城は以前と変わらず、なんなら以前よりも荘厳にそびえたっていた。
確かに私は、街を瘴気で腐らせまいと必死に働いた。
あるいは、たまに婚約者である侯爵と遠出する機会があれば、瘴気を見つける度にそれを吸って、その大地を殺すまいと気を遣った。
私が馬車を降りることに対して侯爵は何も言わなかったが、しかし彼は決してついてきはしなかった。
侯爵は、国を守るためという建前があったとしても不吉な一族との婚姻なんて望んでいなかったのだと思う。だからこそ、この国にやってきた野心溢れる魔法使いが「瘴気吸いの一族こそが災の元凶だ」なんて言えばその言葉に飛びついてしまうのは仕方がない。
私が王都を離れるとき、侯爵は顔を見せもしなかった。
◆ ◆ ◆
婚約破棄されてすぐ、私は馬車に詰め込まれるように乗った。
荷造りも大体完了しているのをみるに、出ていくことはずっと前から決まっていたらしい。
よほど私を遠ざけたかったと見え、いくつか宿を経由しながら辿り着いたのは辺境、フォグミット領だ。
そして、街はまるで瘴気が霧のように漂っているのがすぐわかった。
それを嫌がったのか、御者はさっさと馬を引いてどこかへ行ってしまった。
「早く吸わなきゃ……」
誰に聞かせるわけでもなくつぶやき、導かれるままに足を進めた。馬車移動で体がヘトヘトなことなどすぐに忘れてしまった。瘴気があれば、吸う。それが長年培った習慣だから。
私は瘴気に釣られてトボトボと歩く。
それにしても、廃墟だ。
あたりに見られる家は腐りかけており、人が住んでいる様子がない。まるで死地であり、ふと馬車が帰ってしまったことが不安になる。
私はこの場所で、生きていけるだろうか。
何せ、行くあてなんてないのに放り出されてしまった。
瘴気を吸いながらより辿り着いたのは、教会だった。
煉瓦造りのため形は残っているが、窓枠やドアが朽ちて崩れ落ちている。
中に入ると、足元がミシミシと声をあげ、ついにはズボっと底が抜けてしまう
入らないほうが良いかもしれない。
私はドアの前にたち、瘴気を吸うことに集中した。
濁った瘴気は私に取り込まれ、少しずつ私まで濁ってゆく感覚に陥る。だからこそ本当は特製のミントを混ぜた石鹸で掃除がしたい。
でも、いまはその持ち合わせがないのでただ吸うことしかできない。
へたり込んで、その作業に没頭する。
ただし、私は疲れていた。なんとも迂闊なことに、私はいつの間にか気を失ってしまった。
◆ ◆ ◆
目を覚ましたら、私はベッドに寝かされていた。
ただし、ベッドに寝かされてはいるもののとても寒く、それは部屋全体が石や鉱物でできているからだとわかった。
あたりにも漂う瘴気。
木製であればすべてが腐ってしまうのだろう。
私は上半身を起こした。
そこには、メガネをかけた理知的な男がいた。
身長は高いが細く、短く整えられた金髪は研究者然としている。
「ああ、いえ! 決してさらったわけではございませんよ! お嬢様が倒れておられましたので、看病が必要なものかと思い……!」
「大丈夫ですよ、わかってます!」
「え、あ、そうですか??」
「はい。感謝しております!」
私は大慌ての彼がなんだかおかしくて、場違いにも笑い出してしまった。
すると、なんだかそれだけで気持ちが軽くなって笑いを止めることができない。ずっと笑っているとそれは伝染するようでついに彼も笑い出した。
この寒い部屋を、私たち二人の笑い声がいっぱいに満たしていた。
私はなんだか不思議だった。
私はずっと王都で肩身の狭い思いをしていたから、笑うことなんて忘れていた。
そして、笑っただけでなんだか晴れやかだ。
改めて、私は男性の目を見た。
「あの、感謝しております」
「いいえ、そんな。僕はただ、ニーナ様に目を覚まして欲しくて」
ニーナ様……?
もしかすると、私は意識が朦朧とする間に名乗ったりしたのかもしれない。
そういえば、私はこの人の名前を知らない。
「あの、お名前を聞いても?」
「ああ、失礼しました! レイン・ヴィリヒ・クライヴァルトと申します」
クライヴァルト。
その家名は、たしかフォグミットの領主のものだ。
「……公爵家の……方ですか?」
「名ばかりですよ」
レインは俯きがちに視線を逃した。
「とにかく、今は体力の回復に努めて下さい。お腹も空いているでしょう。リゾットを用意いたしました。口に合えばいいのですが」
「そんな……。こんなによくしていただくわけには」
遠慮しようとしたのだが、そのときに私のお腹は大きな音を立てた。
私たちはまた笑い合った。
そして、押し付けられたリゾットはなんだかとっても体に染み込んだ。
……こんなに優しくされたのって、いつ以来だっけ。
そうだ、せめて何か返さなければ……!
私はあたりに漂っていた瘴気に気がついた。
「あの、クライヴァルト卿」
「なんでしょう」
「お掃除道具を、貸していただけますか?」
◆ ◆ ◆
野草の生えない土地であり、ミントを見繕うことはできなかったのでお酒を代わりに使う。
私は館の瘴気の深いところを探し、まずは掃除から始めた。
どうやら井戸に瘴気が溜まっており、この水が様々な場所を腐らせるのだろう。
手で触れ、借りたたわしにお酒をつけて丹念に洗う。それだけで心まで整っていくようだ。
振り返ると、レインもなにやら地面を掃いていた。
なんだこの人は。
「……あの、何をなさっているのでしょうか」
「いえ、ニーナ様。お手伝いした方が良いと思いまして」
「そんな、滅相もないですクライヴァルト卿! 助けていただいたお礼ですから、どうかお気になさらず!」
「あの……それなのですが……」
「……どれなのですか?」
「クライヴァルト卿、というのはあまりにもよそよそしく思います。よろしければ、名前で呼んでいただけますか?」
まるでテレたように、レインは言った。
「……レイン様?」
何気なくいうと、レインはそれだけで頬を赤らめた。
なぜそんな表情をするのだろう。
見ているだけでこっちまで恥ずかしくなってしまう。
私は視線を外し、井戸掃除に戻った。レインも掃き掃除を続けていたが、もうそんな彼を止めることは忘れてしまっていた。
私たちは言葉を交わすこともなく、淡々と掃除を続けた。
ヘトヘトになるまで掃除をしたら、レインは私を食事に連れ出した。
「フォグミット領に良い農作物はないので、輸入したものばかりですが」
そう言って並べられたものはしかし、高級品ばかりだった。
美味しそうなお肉にお魚。
高そうなお酒まで用意されている。
「あの……こんなにもてなしていただけるなんて……。せっかくお掃除で返そうと思ったご恩が返せなくなってしまいます」
「……まさか! 僕はニーナ様にお食事を出せるだけで幸せですよ」
この人は一体、何を言っているのだろう。
「レイン様は……私を誰かと勘違いなさっていますか?」
レインはぽかんとしたが、なにやら納得したようで「あー!」と手を打った。
そして、自信満々に彼は言った。
「あなたはニーナ・ブラックミスト様でしょう」
「……はい、そうです。私、自己紹介したんですか?」
「いいえ、知っておりました」
「王宮によく来られるのでしょうか?」
「行きませんね。私はもっぱら、フォグミット領で暮らしておりますので」
私はほぼ、王宮内で生活していた。出かけたとしても、王都内だ。
理解できない私に対して、レインは続けた。
「一度、フォグミットに来られたことがあるでしょう。そのときに、お見かけいたしました。ニーナ様は馬車の中におられたので、チラリとしか見えませんでしたが」
その記憶は確かにあるので、レインは本当に私を知っているのだろう。
それでもなお、彼の言っていることが理解できない。
「……どうして私なんかを、気に留めていただいたんですか?」
私は馬車の窓から外を覗き見るようなことはしていない。
レインは私を見たとしても、本当にチラリと見ただけのはずだ。
「あ、ああ」
レインは得心して席をはずし、どこからか本のようなものを持ってきた。
ボロボロだ。本当に……ボロボロの本。
レインがそれを開くと、そこにはびっしりと数字のようなものが記述されていた。
「私は毎日、フォグミット領の瘴気濃度を記録しております。これはその台帳です。そして、これまでの人生に於いてたった一度だけ、劇的に瘴気が晴れた日がございました」
レインはまるで、私のことを野に咲く花のように見つめてくれる。
その優しい目で、優しい声で、私に教えてくれた。
「ニーナ様がここへやってこられた日です。ずっと、僕はあなたに出会えることを心待ちにしておりました」
◆ ◆ ◆
ニーナを追放して数週間が経った頃、王都では異変が起こっていた。
最初に気がついたのは城の管理人だった。
東回廊の柱に、まるで老人の肌のような黒ずみが出始めていた。
妙に思い管理人は必死に磨いたが、それは落ちない。削っても、内側から染み出してくる。
報告を受けた公爵は、頼りにしている新参の魔法使いを呼んだ。魔法使いは柱を一瞥し、自信満々に言った。
「封印の魔法陣を刻めば問題ありません」
翌週、柱はさらに黒くなった。
一ヶ月ほど経つと、城の至るところに異変が広がっていた。北側の窓枠が腐り、鉄製の蝶番が錆びて扉が開かなくなった。
王妃の脂質の壁に亀裂が走り、初見の間の床が軋むようになった。
そして、その責任は侯爵へと向かっていた。彼が最後の瘴気吸いの一族を追放したことが原因だと、王宮の誰もが気づき始めていた。
侯爵は魔法使いを呼びつけ、怒鳴りつけた。
「いったいどうなっている! どんどん城が腐ってゆくではないか——」
「も、申し訳ございません」
魔法使いは連日の調査でまともな睡眠が取れず、顔がどす黒く変色していた。
もっともそれは、侯爵にとっても同様である。
「原因はなんだ」
「調査中でございます」
この男は、何も知らない。
侯爵はこのときにやっと、それを悟ったのだった。
瘴気吸いの一族。
ニーナ・ブラックミスト。
少女の顔が頭に思い浮かぶ。
忌まわしき一族の生き残り。彼女がいた頃は、王宮はあまりにも綺麗に保たれていた。
たかだか一人の少女。
あんな少女に、これほどの瘴気をコントロールできるはずがなかった。
貴族の品位にそぐわないそんな一族と結婚するのは御免だった。
だからこそ、あのタイミングで婚約破棄をしたのだ。
それなのに。
侯爵は魔法使いに何も言わずに私室を出て、秘書官に震える声でいいつけた。
「ニーナ・ブラックミストを呼びつけろ。婚約破棄を取り消すぞ」
◆ ◆ ◆
私はフォグミットにいついてしまった。
ある程度瘴気を吸ったら離れようと思っていたのだけれど、レインに強烈に止められてしまう。
フォグミット領にきてから、私は恐縮しきりだ。
領主のレインが私をお姫様のように扱うのでいつもこそばゆく感じる。
忌まわしき一族。
王都では蔑まれ、身を隠すように生きてきた。
しかしここでは、レインの扱いに倣ってか出会う誰もが私を敬ってしまうのだ。
「おお、ニーナ様だ」
「ブラックミスト嬢の顔を見ることができた、今日はいいことがあるぞ」
「素敵。私も瘴気吸いの一族になりたいわ!」
あまりに居心地が悪いため、私はレインに言ったことがある。
「レイン様、困ります!」
「…………何がでしょうか?」
「この際ですがレイン様。私はそんなに、丁寧に扱っていただく必要はないのです。瘴気吸いの一族は王都では……差別されております。近づくことも憚られる、汚らわしい……存在なのです」
喋っていると、それだけで悲しくなってきた。
泣きそうになるのを堪え、声が震えないように続けた。
「ですから、私をそんな風に扱うなど……きっとレイン様が……他の貴族に馬鹿にされてしまいます。その……瘴気のことでしたら、たまに吸いに戻って参りますので、私などいつ追い出していただいても、構わないのです」
レインに、大切に扱ってもらえるのは嬉しい。
でもそのことで、レインに不利益があるのは許せない。
私はきっと、これからの人生で幸せになる権利はなく、だからこそ誰かを幸せにできるのであればそれが一番だと思っていた。
それなのに。
「でしたら、僕は喜んで馬鹿にされますよ」
とびっきりの笑顔で、レインは私に語りかけた。
その嬉しそうな顔に私は、息がつまりそうになった。
「あの瘴気が晴れた一日。あの日からずっと、私はあなたを想っていたのです」
ああ、私は、人から想われても良いのでしょうか。
まるで、私の人生ではないようで、それを受けとることはあまりにも過分で、まるでズルみたいに思えた。
だから私は、こんなつまらない言葉を口にしてしまった。
「あの、レイン様」
「…………なんでしょう」
「……お友達に、なってくださいますか?」
◆ ◆ ◆
それから数日が過ぎ、私の元に王都から使者がやってきた。
「ニーナ・ブラックミスト様。侯爵閣下より王都への帰還をお願いしたく参りました」
私は何が起こったかすぐに理解し、それに従った。
数日であれば、もうフォグミットを離れても大丈夫なはずだ。
三日馬車に揺られ、私は王都に辿り着いた。
一目見ただけで異変に気がつく。すでに、城は腐り始めている。私は休む間もなくとりわけ瘴気の濃い東回廊へ向かった。
ずっと綺麗に保っていたはずのそれは、見事に別世界になっていた。
やはりあの魔法使いは、何もできなかったのだ。
私は急いで掃除に取り掛かった——
——一通りの対処を終え、その日は王都のベッドを借りてぐっすり眠った。
ここには良い思い出があるわけではないが、しかし生まれ育った場所だ。
ただ腐ってしまうのは寂しくもある。
明日も瘴気を吸えばしばらく腐ることはないだろう。そうなってしまえばもう、仕事は宮大工の領分になる。
そして一晩が経ち、用意された朝食を食べ終えると私は侯爵の私室へと呼ばれた。
胸が、どきりと嫌な音を立てた。
「久しぶりだな、ブラックミスト嬢」
「……ええ、お久しぶりです」
侯爵は、なんだかずいぶんやつれていた。
頬が落ち窪み、目の下には濃いクマがある。
「思った通り素晴らしい能力だ。さすが瘴気吸いの一族と言ったころか!」
明るい声。
そして賞賛。
胸が苦しい。この人は、なにを言っている?
「王の命で婚約破棄をしなければならなかった。あのときは辛い想いをさせたな。しかし、もう大丈夫だ。おまえの有用さは、伝えておいた。今回の件で、改めて見直してくださるだろう。さらに、だ!」
もはや妄言。
彼は一体、何を見て、どこを見て、何を考えて喋っているのだろう。
「婚約破棄を取り消すことにした! 喜べ、おまえはこの私の妻になれるのだ!」
「——お断りします」
私が言うと、その一瞬場が凍った。
「……いま、何か言ったか?」
「ええ、お断りします、と」
沸騰したように顔を赤くし、しかしすぐに苦しげな表情に変わった。
「なぜだ?」
「私はいま、別にすべきことがありますので」
侯爵は何やら思案し、そして思いついたように手を打った。
「なるほど、さてはおまえ。フォグミットの領主に絆されたな。クライヴァルトなど田舎者だ。あんなものに見出されたとして、おまえは王宮で笑われるだけだぞ」
私は驚いた。
これだけ嫌味で、検討違いなことを言うこの人が、この土壇場でこんなに嬉しいことを言ってくれたのだ。
私は、お腹の底からくる笑いが抑えられなかった。
「ふふ、ふふふ」
「な、何がおかしい!」
「もしクライヴァルト卿と一緒にいると笑われるのだとすれば。侯爵様。私は喜んで笑われたいのです」
そうなったとしても、きっとレインは私と笑い合ってくれるから。
◆ ◆ ◆
フォグミット領に戻ると、町外れの検問所でレインが出迎えてくれた。
「ニーナ様!」
私は飛び降りるように馬車から飛び出て、彼に駆け寄った。
ちょっと気が咎められたけど、思い切って彼の広げた腕に私は飛び込んだ。
「よかった。もう戻ってこないのではないのかと思って心配したのです」
そんなわけないのに。
そんな風に思ってくれる人がいることがこんなにも嬉しい。
「な、何か酷いことはされませんでしたか?」
「大丈夫ですよ、レイン様」
私には、帰る場所がある。
だからまた、館の掃除をしなきゃ。
そうしたらきっと、レインは瘴気が晴れたと台帳に記録するだろうから。
改めて王都からとってきたミント入りの石鹸で、私は館をピカピカにするのだ。




