第6話 『最後の往生際』
セキュリティ警告。不正アクセスを検知しました。 しかし、こちらの防御壁(オートロックのガラス扉)は鉄壁です。
安全圏から、最後の通告を行います。
その「不正アクセス」が発生したのは、週の半ば、水曜日の夜20時過ぎだった。
残業を終えて帰宅し、スーツを脱ごうとした矢先。
部屋のインターホンがけたたましく鳴り響いた。
モニターを覗く。
そこには、眉間に皺を寄せたゲンゾウ氏と、目を腫らしたミナが映っていた。
やはり来たか。
俺はため息をつくと、受話器を取らず、そのままエントランスへ降りていった。
もちろん、彼らを部屋に入れるつもりはない。
ロビーのオートロック、そのガラス扉一枚を隔てて対峙するためだ。
自動ドアの向こう側に俺の姿を見つけると、ミナがガラスに張り付くように駆け寄ってきた。
「ケイスケ! やっと会えた……!」
「何の用ですか」
俺はガラス越しに、冷ややかに告げた。解錠はしない。
後ろに控えていたゲンゾウ氏が、咳払いをして一歩前に出た。
「……まあ、なんだ。わざわざ来てやったぞ」
相変わらずの尊大な態度だ。
彼は腕を組み、どこか許してやるような口調で言った。
「あの日は俺も少し酒が入っていた。言い過ぎたかもしれん。お前が反省して戻ってくるなら、もう一度チャンスをやってもいい」
耳を疑うとはこのことだ。
手土産を捨て、罵倒し、さらに婚約破棄を突きつけられた後で、なぜ自分が「許す側」に立てると思っているのか。
「お義父さん……いえ、ゲンゾウさん」
俺はインターホン越しではなく、ガラス越しに肉声で届くよう、はっきりと声を張った。
「勘違いされているようですが、僕は謝罪を待っているわけでも、許しを請いたいわけでもありません」
「なんだと?」
「僕はあなたたちを『見切った(損切りした)』んです」
ゲンゾウ氏の目が点になる。理解が追いついていないようだ。
俺は視線をミナに移した。彼女は縋るような目で見つめ返してくる。
「ミナ。荷物は届いただろう? それが答えだ」
「やだ……やだよケイスケ! あんなの受け取れない! お父さんもこう言ってるじゃない! やり直そうよ、ねえ!」
ミナは泣き叫ぶ。
だが、その涙は「自分の平穏な日常」が壊れたことへの嘆きに過ぎない。
俺は淡々と、最後通告を突きつけた。
「やり直す? 無理だよ。君はあの日、僕を守らなかった」
「えっ……」
「自分の父親が、僕の誠意をゴミ箱に捨てた時。君は僕に『謝れ』と言った。その瞬間、君は僕のパートナーではなく、父親の共犯者になったんだ」
ミナの顔から血の気が引いていく。
図星をつかれた人間特有の硬直だ。
「そしてゲンゾウさん。あなたにも言っておきます」
俺は再び、ガラスの向こうの暴君を見た。
「あなたは『娘をやる』と言っていましたが、大きな間違いだ」
俺は、SEとしてシステムの欠陥を指摘する時のように、冷徹な事実を並べた。
「あなたは、ご自慢の娘さんの商品価値を、あなた自身の手でゼロにしました」
「な、なにを……!」
「僕ほど我慢強くて、条件の良い男はもう二度と現れません。普通の男なら、手土産を捨てられた時点で警察を呼ぶか、その場で帰ります。僕はそれでも耐えようとした。でも、あなたはそれを自ら壊した」
ゲンゾウ氏の顔が朱色に染まっていく。
だが、俺は止まらない。
「この先、ミナに近づく男がいたとしても、あなたの存在を知れば全員逃げ出します。あなたが変わらない限り、娘さんは一生結婚できない」
そして、俺はトドメの一撃を放った。
「ミナ。君が選んだのは、僕との未来じゃなくて、『お父さんの機嫌』だ。だから、望み通りにしてあげるよ」
「ち、ちが……私は……」
「一生、その立派なお父さんの介護をして暮らしてください。君たちにはそれがお似合いだ」
ミナがその場に崩れ落ちた。
ゲンゾウ氏は口をパクパクと動かしているが、言葉が出てこない。
あまりの正論と、突きつけられた「孤独な老後」という現実に、反論のリソースが尽きたのだろう。
ガラスの壁一枚。
それが、俺と彼らを隔てる「常識」と「狂気」の境界線だった。
こちらの世界は、安全で、静かだ。
「二度と来ないでください。次は警察を呼びます」
俺は踵を返した。
背後からミナの絶叫と、ガラスを叩く音が聞こえたが、俺はエレベーターホールへと歩き出した。
もはや、振り返る必要すら感じなかった。
お読みいただきありがとうございます。
「娘の商品価値をゼロにしたのはあなただ」 「一生、父親の介護をして暮らせ」
この二つの言葉こそ、感情論で喚く彼らにとって最も残酷で、かつ逃れられない「真実」でした。 ガラス一枚隔てた向こう側で崩れ落ちる二人。これでもう、彼らが主人公の人生に関与することは二度とありません。
さて、いよいよ物語は完結です。
次回、最終話『さよならと、そして自由』 ノイズのなくなった部屋で飲む、最高に美味いビールの味。 そして主人公は、新たな未来へと手を伸ばします。
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