第5話 『無慈悲なほどの事務処理』
鉄は熱いうちに打て、と言いますが、バグは発見次第、早急に修正しなければなりません。 思い出の品? いえ、ただの不要データです。
帰りの電車に乗っている間、俺のスマートフォンは壊れたように振動し続けていた。
ポケットから取り出すと、画面には『ミナ(34件)』『着信通知(56件)』という異常な数字が並んでいる。
さらには、LINEの通知ポップアップが滝のように流れていた。
『ごめんなさい』
『お父さんも反省してるから』
『言いすぎだよケイスケ』
『電話に出て』
『ねえ』
『無視しないで』
俺はため息を一つつくと、スマホを「機内モード」に設定した。
物理的な遮断。
これで静寂が戻った。
マンションに到着するなり、俺は即座に行動を開始した。
まずは管理会社への連絡だ。
日曜の夕方だが、24時間対応のコールセンターに繋がる。
「あ、もしもし。305号室のサクライです。鍵のシリンダー交換をお願いしたいんですが。ええ、緊急で。紛失というか……防犯上の理由で、一刻も早く」
ミナは合鍵を持っている。
今までは「信頼の証」だったその鍵は、今や重大な「セキュリティホール」と化していた。
最短で明日の午前中に業者が来れることになった。
費用は数万円かかるが、安全には代えられない。
電話を切ると、次は部屋の掃除だ。
クローゼットを開ける。
ミナの着替え、化粧品のストック、ペアで購入したマグカップ。
俺は廊下からダンボール箱を持ってくると、それらを次々と放り込んでいった。
思い出に浸ることはない。
Tシャツを畳むことすらしない。
ただの物体として、淡々と箱に移送する作業だ。
「……こんなものか」
30分ほどで、ミナの私物はダンボール二箱分に収まった。
ガムテープで厳重に封をし、伝票にミナの実家の住所を書き込む。
品名欄には『私物一式(返却)』と太字で記入した。
そして、すぐに集荷依頼のWebフォームを入力する。
明日の朝イチで発送だ。
着払いにするか一瞬迷ったが、数千円で揉めるのも面倒だ。
元払いにしてやる。これが最後の手切れ金代わりだ。
部屋が広くなった気がした。
物理的にも、心理的にも、余計なキャッシュがクリアされた感覚。
最後に、PCを開いて結婚式場の予約状況を確認する。
まだ内金を払った段階だ。
今キャンセルすれば、数十万円のキャンセル料が発生する。
一般的には手痛い出費だろう。
だが、あの父親と親戚付き合いを一生続け、ミナの機嫌を取り続けるコスト(運用保守費)を試算すれば、安すぎる損切りだ。
「よし」
式場の担当者へのメールを作成し、送信ボタンを押す。
文面は簡潔に。
『婚約破棄のため、キャンセルいたします』。
全てのタスクを完了させた俺は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
プシュッ、という小気味いい音が、静かな部屋に響く。
悲しみは、驚くほど湧いてこなかった。
あるのは、厄介なバグだらけのプロジェクトから解放された時のような、圧倒的な開放感と安堵だけ。
「……うまい」
一人で飲むビールが、こんなに美味しいとは知らなかった。
俺はソファに深く沈み込み、明日からの平穏な日常に思いを馳せた。
――しかし。
俺は一つだけ、読み違えていたことがあった。
ウイルス(悪意ある第三者)は、セキュリティを強化しても、強引にファイアウォールを突破しようと試みるものだということを。
嵐は、去ったのではなく、接近していた。
お読みいただきありがとうございます。
数十万円のキャンセル料。 普通なら膝から崩れ落ちる金額ですが、地獄のような結婚生活のコスト(運用保守費)と比較して「安い」と即断できるのが彼の強みです。
これで全て終わった……と思いきや、最後に不穏なログが残りました。
次回、第6話『最後の往生際』 セキュリティホール(合鍵)は塞ぎましたが、彼らは物理的に攻めてきます。 オートロックのガラス扉一枚を隔てた、最後の対峙。 主人公が放つ正論の連打にご期待ください。
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