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第3話 『理不尽の実体』

最高級の酒と老舗の和菓子。 これだけ揃えれば、普通なら最低限の会話は成立するはずです。


しかし、この親子には常識というOSがインストールされていなかったようです。


通されたのは、線香と湿布の匂いが染み付いた古びた和室だった。


上座にドカとあぐらをかいて座るゲンゾウ氏。

その横に、小さくなって正座するミナの母親。


そして、俺の隣で借りてきた猫のように震えているミナ。


重苦しい沈黙が、部屋の空気を淀ませていた。


「……で、挨拶とはなんだ」


ゲンゾウ氏が不躾に言った。

名刺を渡そうとしたが、「そんな紙切れはいらん」と手で払いのけられた後だ。


俺は息を整え、まずは用意してきた「切り札」を出すことにした。

会話の糸口を作るには、相手の好物を出すのが定石セオリーだ。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。お父様が日本酒がお好きだと伺いましたので、心ばかりですが……」


俺は紙袋から桐箱を取り出し、丁寧に蓋を開けて『瑞兆』のラベルを相手に向けた。


そして、老舗『白露』の最中の箱を添えて、畳の上を滑らせるように差し出した。


「お口に合うとよろしいのですが」


自信はあった。


金銭的な価値もさることながら、これを用意するためにかけた手間と時間。

それこそが、俺のミナに対する思いの丈であり、この家に対する最大限の敬意リスペクトだ。


ゲンゾウ氏は、鼻を鳴らしてそれを見下ろした。


そして、太い指で桐箱を乱雑につまみ上げ、ラベルをちらりと一瞥する。


「……フン」


鼻で笑った。


次の瞬間だった。


ドサッ。


乾いた音が響いた。


ゲンゾウ氏は、俺が差し出した桐箱と菓子折りを、あろうことか部屋の隅にあるゴミ箱に向かって放り投げたのだ。


正確にはゴミ箱に入らず、畳の上に無様に転がった。

三万五千円の酒瓶が、ゴロリと虚しい音を立てる。


時が止まった。


俺は自分の目がバグを起こしたのかと思った。


挨拶に来た客の手土産を?

封も切らずに?

投げ捨てた?


「な……」


俺が絶句していると、ゲンゾウ氏は口の端を歪めて言った。


「なんだ、こんな安酒は。俺の舌を馬鹿にしているのか?」


「……安酒? それは入手困難な古酒で……」


「御託はいい! 俺がマズそうと言ったらマズいんだよ! こんなゴミを持ってきて『娘をください』だと? ふざけるのもいい加減にしろ!」


怒号が飛ぶ。

理屈もへったくれもない。ただの暴君の戯言だ。


俺の心の中で、熱い怒りが湧き上がる――はずだった。


だが、俺の感情を「怒り」から「無」へと変えたのは、隣にいたミナの反応だった。


彼女は、父親の暴挙に抗議するどころか、蒼白な顔で俺の袖を掴んだのだ。


「け、ケイスケ、謝って!」


耳を疑った。

俺が? 何を?


「お父さん、舌が肥えてるから……こういうの厳しいの! だから謝って! 『次はもっといいの持ってきますから』って!」


ミナの目には涙が溜まっていた。


だがそれは、俺への同情ではない。

父親の機嫌を損ねたことへの恐怖と、俺が早くこの場を収めないことへの焦りだ。


「……ミナ。君は、あれを捨てるのが正しいことだと言うのか?」


「そうじゃないけど! でも、お父さんが気に入らないなら仕方ないじゃない! お願いだから、場を荒立てないでよぉ……!」


その言葉を聞いた瞬間。


俺の頭の中で、何かのスイッチが「カチリ」と音を立てて落ちた。


それは、怒りではなかった。

悲しみでもなかった。


ただ、急速な「興味の喪失シャットダウン」だった。


ああ、そうか。

この父親にして、この子ありか。


彼女は被害者だと思っていた。

けれど違う。


彼女はこの理不尽なシステム(家庭環境)に適応し、それを維持するために、平気でパートナーを犠牲にする「共犯者」なのだ。


ゴミ箱の横に転がる酒瓶を見る。

あれは酒じゃない。俺の「誠意」の死骸だ。


そして、今しがた俺の隣で、俺への愛情も死んだ。


俺はミナの手を、そっと振り払った。


心拍数は驚くほど落ち着いていた。

頭の中は、氷のように冷たく澄み渡っていく。


この案件(結婚)は、これ以上のリソースを割く価値がない。


損切り(ロスカット)だ。今すぐに。

お読みいただきありがとうございます。


義父の暴挙以上に、婚約者の「謝って」という言葉が決定打となりました。 この瞬間、彼女は「守るべき恋人」から「切り捨てるべきバグ」へと変わりました。


次回、第4話『静かなる撤退』 怒鳴り散らす義父と、縋り付く婚約者を置いて、主人公は淡々と退室します。 感情的な言い争いはしません。ただ、事実を告げて去るのみです。


ここから始まる主人公の冷徹な「損切り」にご期待ください。


続きが気になる方、主人公の判断を支持してくださる方は、 ぜひブックマーク登録と評価をお願いいたします!

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