第1話 『違和感という名の予兆』
結婚の挨拶に行ったら、義父に三万五千円の酒を手土産ごとゴミ箱に捨てられました。 婚約者が「お父さんに謝って」と言った瞬間、僕の中で何かが冷めて婚約破棄した話です。
理屈っぽいSEが、理不尽な親子を淡々と損切り(ロスカット)して自由になるまで。 全7話、完結まで執筆済みです。
夜景の見えるフレンチレストラン。
テーブルの上には、少し値の張るコース料理の最後の皿と、開かれたリングケース。
システムエンジニアとして働く俺、サクライ・ケイスケ(30)にとって、今日は人生のプロジェクトにおける最大の節目だった。
「ミナ。僕と結婚してください」
5年付き合った恋人、ミナ(30)へのプロポーズ。
これまでの交際期間、大きな喧嘩もなく、穏やかな関係を築いてきた。
彼女は少し優柔不断なところがあるが、おっとりしていて家庭的な女性だ。
俺のような理屈っぽい男には、彼女くらい柔らかい雰囲気の方が合う。
そう判断しての決断だった。
ミナは涙ぐみ、何度も頷いた。
「……はい。嬉しい。ありがとう、ケイスケ」
ここまでは、完璧な進行通りだ。
だが、俺が指輪を彼女の薬指にはめた直後、ミナの口から漏れた言葉は、喜びの余韻とは少し違う種類のものだった。
「どうしよう……お父さん、許してくれるかな」
俺はワイングラスを置く手を止めた。
「許す? 結婚の報告に行くんだよな? 許すも何も、僕たちはもう三十路の大人同士だぞ」
「でも……お父さん、厳しいから」
ミナの顔から、さっきまでの幸福な紅潮が引いていた。
代わりに浮かんでいるのは、明らかな「怯え」の色だ。
彼女の父親、ゲンゾウさんの話は以前から聞いていた。
「昭和の頑固親父」「厳格な人」。
まあ、娘を持つ父親なんてそんなものだろうと、これまでは軽く受け流していた。
「挨拶に行けばわかってくれるさ。僕も仕事は安定しているし、ミナを大切にする気持ちに嘘はない」
「うん、うん……そうだよね」
ミナは自分に言い聞かせるように、祈るように両手を組んだ。
そして、俺の目をじっと見つめて言った。
「大丈夫だよね? ケイスケがちゃんと**『誠意』**を見せれば、お父さんもわかってくれるよね?」
誠意。
その言葉の響きに、俺のSEとしての職業病のようなアンテナが反応した。
バグを見つけた時のような、微かな違和感。
「誠意って、具体的には? 失礼のない服装で行くとか、きちんとした手土産を持っていくとか、そういうこと?」
「そう! それ大事! すごく大事だから!」
ミナが食い気味に反応する。
「お父さんね、礼儀とか筋道にすごくうるさいの。昔から『半端な男は俺が叩き直してやる』って言う人で……。だから、中途半端なものを渡したりしたら、大変なことになるの」
「大変なことって?」
「……とにかく、怒らせちゃダメなの」
彼女の視線が泳いでいる。
俺は思考を巡らせた。
娘の結婚相手を値踏みする父親は珍しくない。
だが、ミナの反応は「父親に愛されている娘の心配」というより、「独裁者の機嫌を損ねるのを恐れる部下」のそれに近かった。
「わかった。最大限の準備をしよう。ご両親に納得してもらえるよう、僕もベストを尽くすよ」
俺がそう言って安心させようとすると、ミナはようやく強張った表情を崩し、安堵の息を吐いた。
「よかった……。ありがとう、ケイスケ。お願いね、本当に『誠意』が大事だから。お父さんの機嫌さえ良ければ、私たちは幸せになれるから」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
――お父さんの機嫌さえ良ければ、幸せになれる?
それは逆を言えば、「父親の機嫌ひとつで、僕たちの幸福はいとも簡単に吹き飛ぶ」という意味ではないか。
彼女にとっての世界のルール(仕様)は、俺との合意形成ではなく、父親の承認が全てなのか?
レストランを出て、上機嫌で腕を組んでくるミナの横顔を見ながら、俺は胸の中に広がる黒いモヤを払拭できずにいた。
プロポーズ成功という「成功体験」の裏で、致命的なシステムエラーの予兆が、静かに鳴り響き始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
幸せなプロポーズから一転、漂い始めた不穏な空気。 「父親の機嫌さえ良ければ幸せになれる」という言葉の怖さに、主人公のSEとしての防衛本能が警告を鳴らし始めました。
次回、第2話『手土産という誠意』 いよいよ義実家への訪問当日。 主人公が用意した「三万五千円の日本酒」と「老舗の和菓子」。 完璧な準備をして臨んだ彼を待ち受けていたものとは……?
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