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人生チュートリアル

作者: 城太郎
掲載日:2025/10/11

 アラームが止むより先に、耳の奥で何かが鳴った。


「人生 バージョン 6.2.8 アップデート完了。新機能:チュートリアルモードを実装しました」


 布団の上で半身を起こした瞬間、空中に薄いガラス板のようなものが滑り込む。透過率の高いパネル、黒く点滅する文字列、丸いボタン。画面は手を払っても、枕に顔を埋めても消えない。


「夢……か?」


 ギュッと目を閉じ、もう一度目の前を見る。やはりそこにある画面には「チュートリアルモード(1日限定)」の文字と、スタートボタンがある。指先を伸ばしてボタンに触れる。パンパカパーン、とチープなファンファーレが鳴り響いた。


 真っ白な画面に切り替わり、あまりの眩しさに目を細める。徐々に目が慣れてくると、いくつかの項目が新しく出現している。


【朝食を食べる(76%)】【朝食を食べない(24%)】


 画面の下には小さく「パーセントは高いほど良いことが起こりやすく、低いほど良くないことが起こりやすいです」とある。ナレーションのアニメ声が響き渡る。


「選択肢は、あなたの今日という一日を最適化します。安心してお楽しみください」


 無言でキッチンへと行き、冷蔵庫を開ける。飲み物とわずかな調味料を除いて何も入っていない。水のペットボトルだけを手に取り、扉を閉めた。


 「食べない」のボタンを押すと、画面はあっさり消失した。仕事用のシャツに袖を通し、駅までの道を早足で歩く。秋風が存外に冷たく、習慣でまくっていた袖を伸ばす。


 駅前に着くと、再び画面が現れた。


【電車に乗る(11%)】【隣駅まで歩く(89%)】


 人を馬鹿にしたような選択肢だ。朝っぱらから二十分も歩いてなどいられない。いつも通り改札にタッチする。改札を通り過ぎると、画面は勝手に「電車に乗る」が選択された。意外にハイテクだ。


 通勤客で混み合う車両に乗り込む。吊革につかまって目を閉じる。電車に揺られること数分、突然吊革を持つ手が引っ張られた。電車が急停車し、よろけた隣の客の肩がぶつかった。


『停止信号です。しばらくお待ちください』


 嫌な空気だ。案の定、最悪のアナウンスが流れだす。


『人身事故が発生し、ただいま運転を見合わせています』


 満員の車内に、ため息が連鎖した。空気がピリつく。そんな中、追い打ちをかけるように空腹で胃がキリリと痛んだ。


 二時間後、ようやく車外の空気を吸うことができた。遅刻に対するうしろめたさと共に、その奇妙なチュートリアルへの信頼が芽生え始めていた。





 小走りで会社に駆け込む。電車遅延があったことは衆知なので、いつも通り挨拶だけして自席に座る。やることはいつもと変わらないデスクワークだ。溜まっていたメールを処理し、黙々と自分の作業をこなす。


 ひとまず優先度の高い作業を片付けて一息ついていると、一人の先輩社員が資料の束を抱え、笑顔で近づいてくる。


「悪い、この作業は経験がなくてさ。代わりにやっといてもらえないかい?」


 画面が即座に反応する。


【仕事を受ける(18%)】【仕事を断る(82%)】


 その先輩は、口だけ達者なわりにスキルはなく、周囲に迷惑をまき散らす存在として有名だった。裏で「厄介先輩」と言われているのを聞いたことがある。


 少し考えてから「断る」のボタンを押す。


「そんなこと言わずに。頼むよ、今度一杯おごるからさぁ」


 厄介先輩は諦め悪く食い下がった。そう、これが問題なのだ。断りたいのは山々だが、簡単に断らせてくれない。いつもはそれが面倒臭くて、泣く泣く引き受けていたのだ。


「その案件、私に回して。彼、別件抱えてるから」


 助け船は思わぬ方向からやってきた。声の主は、須藤。三歳年上、直属の女上司だ。普段からそのキツい口調で皆を震え上がらせているが、今回ばかりは助かった。


「え、あ、いや……自分でやらせていただきます……」


 厄介先輩はすごすごと引き下がった。これがチュートリアルの力だというのなら、万歳三唱、拍手喝采だ。





 業務終了後、久しぶりに開催された部内の飲み会に向かう。焼き鳥屋の薄暗い照明の中、空いていたのは須藤の隣の席だった。座ると、画面が静かに変化した。


「会話中:好感度表示モードを有効化します」


 画面に今まではなかった数字が浮かぶ。


「須藤幸恵:好感度65」


 悩む間もなく、ナレーションが流れ出す。


「異性に関する選択肢が発生した場合、対象からの好感度があわせて表示されます。好感度は0から100。初期値が20で、60以上になると告白の成功率が高まります」


 思わず息を呑んだ。好感度というのも寝耳に水だし、だとすると表示されている値がおかしい。あの無愛想な須藤からの好感度が、65? チュートリアルの説明によると、告白が成功しうる値だ。


 チラリと横を見ると、須藤と目が合った。今まで感じたことはなかったが、その視線は熱っぽい気さえしてくる。


【趣味の話題(+8%)】【共感を言語化(+5%)】【席替えを提案(-4%)】


 一瞬だけ逡巡する。


「須藤さん、サッカー観戦が趣味って言ってましたよね?」


「え? ああ、そうね。そういう話をしたこともあったわね」


「最近も行ってるんですか?」


 顔は須藤に向けつつ横目で画面を確認する。数値がみるみる上昇し、65から73へと表示が変わる。


 まずい。


 なぜだかそう感じて、斜め向かいに座っていた女子へと視線を移した。同期の佐久間。実は前々から、ひそかに想いを寄せていた存在だ。


「佐久間陽菜:好感度25」


 数値を見て愕然とした。初期値は20という話だったから、ほとんどそのままだ。同期で同じ部署で、それなりに仲良くしていたつもりだったから、さすがにショックだ。ふと目が合うと、佐久間はニコリと笑った。好感度25の笑みとは思えない。


【注文を聞く(+2%)】【一発芸を披露(-5%)】【皿を片付ける(+4%)】


 このパーセントは誰が対象なのだろうか。しかし、チュートリアルを信じてさりげなく空いた皿を集めて横に寄せる。佐久間の好感度が29へと上がった。


 その後もチュートリアルを信じ、プラス値が大きい選択肢を選び続けた。しかし、須藤と違ってなかなか大きい数字が表れない。焦れるが、それでも選択肢を選び続けるしかない。刻一刻とお開きの時間が近づいていく。





 飲み会はお開きとなり、店の前でたむろしていた。


「このあと、もう一軒どう?」


 須藤に声を掛けられた。好感度を見ると、知らないうちに81まで上がっている。


【行く(88%)】【断る(12%)】


 パーセントの意味は言うまでもない。好感度60で告白が成功するレベルなのだ。81もあればどうなってしまうのだろう。選択肢のパーセントもそれを後押しする。しかし、踏ん切りがつかない。振り返ると、駅の方角へ歩き出した佐久間の背。どうしたものだろうか。


「……そうね。今日は電車のこともあって疲れてるでしょうし、早く帰った方がいいわね」


 須藤が残念そうにつぶやいた。そこで、画面の右下に小さく「時間切れ」と表示されていることに気づく。現実世界のことなのだから、選択肢にも時間制限があるに決まっている。言われてみれば当然だ。


「ごめんなさい、今日は帰ります」


 須藤の瞳が一瞬だけ沈み、その後すぐに元の光を取り戻す。須藤に向かって小さく頭を下げると、駆け足で佐久間に追いついた。


 駅までの短い道のり。無言のまま二人並んで歩いていると、突然どこからか大音量が流れ出す。


「告白チャーーーーーーーーーーンス!!!!!」


 デレンデンデンデン、デレンデンデンデン、デデン、デデン、デーーーーーン!


 無駄に派手なファンファーレが鳴り響く。そして、画面にはいつも通りの選択肢だ。


【告白する(41%)】【しない(59%)】


 結局、好感度は50にすら届かなかった。だが、数字がすべてではない――先ほどまで好感度に囚われていた自分を棚に上げ、ゆっくりと息を吸った。


「佐久間――」


 言葉を重ねる間、無機質な白い画面は沈黙を貫いていた。すべてを伝えきると、佐久間は申し訳なさそうに目を伏せた。


「ごめんなさい。でもなんとなく……私のことを見てくれてないような気がして」


 彼女の返事は簡潔で、そして的確だった。返す言葉が見つからない。好感度の表示は48からごくわずかに下がって45になり、やがて表示自体が消える。彼女は改札へと消え、夜風の中に一人取り残された。





 翌朝。画面は跡形もなく消えていた。不思議と頭はスッキリしている。手早く準備をして家を出る。


 駅に着いた。選択肢は、もちろん出てこない。一瞬立ち止まってから、駅の改札をくぐる。電車に揺られること三十分、何事もなく会社へと到着した。


「おはようございます」


 挨拶をして自席につく。先に来ていた須藤はすでに作業に集中しており、顔も上げずに挨拶を返してきた。変わった様子はない。やはりいつも通りだ。


 それからしばらく作業をこなしていると、また厄介先輩がやってきた。今日は迷わなかった。


「すみません、今は自分のタスクで手一杯です」


 毅然とした態度でそう言うと、厄介先輩はあっさりと引き下がった。ありがたい。再び自分の作業に集中する。


 ふと顔を上げると、部内がざわついていた。何事かと見ると、社内システムがエラーを吐いている。未読メールの件数がみるみる増えていく。


 原因はすぐに分かった。厄介先輩が分からないままシステムを触った結果、変えてはいけない設定を変えてしまったのだ。積み上がったメールは、他部署からのクレームだ。


 須藤の指示に従い、復旧作業に取り掛かる。今回のケースは問題の設定を直せば解決、というほど単純ではない。影響範囲の調査にデータの復元と、やることは多い。無言のままひたすら手を動かし続ける。





 夜十時過ぎ。エラーはすべて解消され、システムは正常に動き出した。ようやくホッと一息つく。


「お疲れさまでした」


 話しかけてきたのは河村美咲、二年目の後輩だ。静かで目立たないタイプで、言葉を交わしたこともほとんどない。


「お疲れ様」


「すみません、今日はいろいろご迷惑をおかけして……」


 河村はそう言ってペコリと頭を下げた。今日は役割分担上、彼女とペアで作業をすることが多かった。実際、彼女の一部作業でミスがあり、そのおかげで復旧完了までの時間が長引いたのは事実だ。


「仕方ないよ。珍しいトラブルだったし、次に生かしていけばいいと思うよ」


「あ、ありがとうございます……」


 河村は申し訳なさそうに小さくなっている。そんな中、視界の隅で厄介先輩がそそくさと帰ろうとしている。わざわざ声をかける気にもなれない。


「あの、もしよかったら、でいいんですけど……このあと、一杯どうですか? お礼にご馳走させてください」


 咄嗟に画面を探して視線が泳ぐ。昨日まで好感度が表示されていた場所には何もない。当然、選択肢もパーセントも。


「……うん、行こうか」


 オフィスを出ると、夜風が心地よい冷たさで頬を撫でた。


 歩きながら考える。


 結局、厄介先輩の仕事を受けるのが正解だったのだろうか。しかし、状況はほぼ昨日と同じだったし、チュートリアルは断ることを推奨していた。


 そもそも、この状況が正解なのか失敗なのかも分からない。復旧作業は確かに大変だったが、今のこの状況まで含めれば、こちらを選ぶのがむしろ正解だったまである。


「……正解かどうかは自分次第、か」


 ボソリと呟いた言葉に、並んで歩いていた河村が怪訝な表情で顔を寄せる。


「どうかしましたか?」


 横を歩く彼女との距離が近づき、手と手が触れそうだった。


【このまま歩き続ける(77%)】【距離を取る(23%)】


 慌てて目を凝らすと、画面は消えていた。絶対に気のせいだ。どちらを選ぶか、もうとっくに心は決まっていた。


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