マーケの第一歩
カホは現世では、大学の経営学部に入り、広告研究会に所属していた。子供の頃からCMが大好きで、15秒・30秒の総合芸術だと思っていた。広告業界は華やかに見えたし、商品販売の仕組みにも興味があった。
商品に魅力があれば、黙っていても売れる。かつて、頭の固い経営者の中には、そんな主張もあったらしい。しかし、メディアとインターネットの発達とともに、時代遅れな考え方は一掃された。
いかに素晴らしい商品でも、消費者の目を止まらねば、絶対に買ってもらえない。関心をもってもらえなければ、誰にも相手にされず、大量の在庫をかかえてしまうだけである。逆に言えば、どんなにくだらない商品であっても、広告宣伝の力によって爆発的に売れることもありうる。
商品販売の仕組みを「マーケティング」という。大学時代のカホは、マーケティングを手掛ける「マーケター」になりたいと思っていたものである。
例えば、商品を買ってもらうためには、どのような売り方がいいのか?
例えば、売上げを増やすためには、どちらの販売経路をとればいいか?
例えば、ターゲットの消費者に知ってもらうには、どうすればいいか?
随分と回り道をしてしまったが、父がぎっくり腰になり、独自の商売の必要性に駆られた時、カホの脳裏に閃いたアイデアとは、異世界の商売に現世のマーケティングを応用しよう、というものだった。
商品販売や広告宣伝が未熟な世界で消費者の目をひくためには、何が必要なのか?
自分の手掛けた商品を素早く消費者の手元に届けるためには、どうすればいいか?
マーケという概念のない世界で商品を買ってもらうためには、どうすればいいか?
頭の中ではうまい考えであっても、実際に試してみると、まるっきり事が進まず、あっさり失敗に終わってしまうということは、よくある話だ。いわゆる「机上の空論」である。事を起こすには、有力なビジネスパートナーが必要だった。
何といっても、カホは初心者である。どうしてもわからないことは、その道の先輩に訊くべきだ。長年の経験をもつベテラン、それも女性の商売人であることがベストだろう。カホの脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、城下町で宿屋を経営しているアニーだった。
考えているだけでは、何も始まらない。「案ずるより産むが易し」だ。カホは早速、アニーに会いに行くことにした。
アニーの宿屋は城下町の一等地にあり、人の出入りが絶えない。アニーは終日、多忙を極めているが、カホが訪ねていくと気持ちよく会ってくれた。
「カホ、久しぶりじゃないか。イースター以来になるかね。そうだ、お父さんの具合はどうだい? 少しはよくなったのかい?」
「お気遣い、ありがとうございます。少しずつですが、腰の痛みは軽くなっているようです。まだ時間はかかりそうですが」
アニーは50代の恰幅の良い女主人である。20代で父親を亡くし、一人娘だった彼女が、伝統のある宿屋を引き継いだ。男性客の中には乱暴者もいるが、怒鳴られたり脅されたりしても、アニーは一歩も引かないという。男尊女卑がまかりとおっている城下町で、屈指の女主人として名が通っていた。その点だけでも、カホは素直に尊敬ができる。
「父は起き上がるのもやっとの状態なので、私が家族を食べさせていかねばなりません。そこで、アニーさんにお話を聞いてもらいたいのです」
「ふむ、訳ありのようだね。よろしい、話を聞こうじゃないか。ただし、私は忙しいんだ。手短に頼むよ」
「わかりました。ありがとうございます」
アニーの経営方針は堅実である。甘えや馴れ合いを許さない。カホの父親も宿屋がらみで何度か取引をしていたが、納入商品の不備を指摘され、予算を大幅に削られて困っていた。若輩者のカホにも、甘えは許されないだろう。
カホは落ち着いて、自分の考えたビジネスのプレゼンテーションを行った。つっかえつっかえだったので予定よりも時間がかかってしまったが、アニーは黙って耳を傾けてくれた。ただ、持参したブレスレットのサンプルも見せたのだが、
「原料は木の蔓だって? 随分と安っぽい代物だねぇ」と、鼻で笑われた。「あんた、こいつが売れると本気で思っているのかい?」
アニーにジロリと睨まれて、カホは怖気そうになったが、何とか気持ちを奮い立たせて、
「売れます。このメモ通りに伝えてもらえれば、間違いなく売れるはずです」そう言って、一枚の紙きれを差し出した。そこに書かれていたのは、わずか十数行の文章である。
アニーは丁寧に目を通してから、
「なるほどね。面白そうな話だけど、これだけで売れるかねぇ。商売というものは決して甘くはないよ」
商売を甘く見ているつもりはない。ただ純粋に、ブレスレットを売るための仕組みを試してみたいだけである。
「アニーさん、お願いです。私にチャンスを与えてもらえませんか?」
アニーはしばらく考えた後、
「カホのいうチャンスとは、どれぐらいの期間を考えている?」
「期間、ですか」想定外の問いかけだった。できるだけ長い方がいいのだが、アニーの顔色をうかがって、「お願いできるなら、一カ月ほど」
「駄目だね」アニーは首を横に振った。「長くても一週間だよ。売れるものは、すぐに結果が出る。一週間で売れないものは、まず売れないね」
そう言われて、カホは腹を決めた。アニーの言うことはもっともである。
「わかりました。一週間で結構です。必ず結果を出して見せます」
こうして、カホのマーケティングの第一歩を踏み出したのである。




