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「はい、ミア。あーん」
「……自分で食べられます、お兄様」
穏やかな午後の昼下がり。
春の陽気があたたかな庭先で、エルミアーナは兄を名乗る男とお茶をしていた。
なんていい天気――、と現実逃避したくなるが、少し視線をずらせば否応なく、満面の笑みを浮かべた「兄」が視界に入る。
彼の手にはビスケットが摘ままれていて、それをエルミアーナの口元へ持ってこようとしていた。
要するに、手ずからそのビスケットを食べてほしいということだ。意図は分かるのだが、エルミアーナは当然それに首を横に振る。すると彼は、しゅんとした顔で俯いて、上目遣いでこちらを見つめてきた。
「…………」
沈黙が落ちる。
先に根負けしたのは、やはりエルミアーナで、小さく溜息をついて口を開けた。エイドリアンはぱあっと顔を輝かせて、摘まんでいたビスケットを近付ける。
「あーん。――おいしい?」
「……まあ、はい。……美味しいです」
ここ数日ですっかりお決まりの流れになってしまったやりとりに、給仕をしていたラナから「またやってんのか」とでも言いたげな視線を感じる。
エルミアーナも内心は頭を抱えたい気分だった。
なんというか、すごく居心地が悪い。
それを言葉に出せないことが、非常にもどかしい。表情にも出せないその気持ちを誤魔化すように、エルミアーナはティーカップに口をつける。
カップの隙間からエイドリアンを覗き見れば、彼はなんとも上機嫌に鼻歌を歌っていた。
一体、何が目的なのだろう。
死に戻りらしき不可思議な現象に遭ったかと思えば、前世の記憶とやらまで思い出し、果ては見知らぬ男が存在しないはずの兄を名乗る――。
あまりに訳の分からないことが続き、頭痛さえ覚える。未だ正体の分からない、得体の知れぬ男の身元をすぐにでも質したかった。しかし、それよりも前に確かめるべきことは山ほどあったのだ。
今がいつなのか、そして本当に自分の時間が巻き戻ったのか。
それを調べる方が先決だった。
まず、エルミアーナが今いるのは、原作の本編がはじまる一年ほど前で、まだ聖女の覚醒は起こっていない。
原作の本編――つまり、十六になる貴族の子息や令嬢が通うべく定められている学園への入学はまだ先だということだ。
とまあ、ここまでの事実確認はそう難しいものではなかった。
だが問題は、本当に時間が戻ったのか、だ。
最終的には平民育ちの女が聖女になるという、王国史上でも例のない出来事が再び起きれば、確定となるのだろう。だが、そこまで待っているのは時間が惜しい。
そして、それ以外に都合よく証拠となるような大事件など、起きようはずもなく。
結局エルミアーナは、三日ほど前に届いた婚約者フレドリックからの手紙に見覚えのある内容があったことで、自分は死に戻ったのだということを前提として動くことに決めた。
それで、だ。
一度目の人生にも、原作の物語にも存在しないこの男は、エルミアーナがそうして悩んでいた間に何をしていたかというと、目の前のこれだった。
エルミアーナはフレドリック、つまりは勇者の家系に嫁ぐ身として、勉学や勤めが課せられている。どこで生まれるか分からない聖女と違い、勇者は初代から連綿とその血を受け継ぎ、代々王家の忠実なる家臣として国に仕えていた。
一般的に聖女は、生まれ落ちると共にその力を発現させ、認定され次第国に召し上げられて高位貴族の養女となる。そのあと、年回りの近い勇者の子孫と婚約を結び、時期が来れば嫁ぐ――。
それがこれまでの倣いだった。
前回の聖女と勇者――つまり、フレドリックの祖父母も例に漏れずそうだったらしい。
だが聖女は通常、三百年から五百年周期でしか誕生しないため、聖女不在期間中は高位貴族の子女から選ばれる勇者の妻が、「聖女代理」と呼ばれるのだ。
エルミアーナもその「代理」となるはずだった。
先代が生まれてから、まだ百年と経っていない。過去の通りなら、何の問題もなくそうなれたはずだったのだ。
だが、聖女は突然姿を現した。
青年期を平民として過ごした聖女。前任者の死から間をおかずに発見された新しい聖女。
何もかもが、イレギュラーだった。
――とまあ、一度目の人生では、聖女に嘆かされたエルミアーナだったが……。現状、得体の知れなさではこの「兄」の方が遥かに上だ。
何かと忙しいエルミアーナの暇を見つけては、お菓子を餌付け――、もとい「兄妹水入らず」のお茶会に誘い、今もそうしているようにニコニコとこちらを見つめている。
それ以外はというと、本を読んだり、庭でぼんやりしたり、と暇を持て余しているとしか言えない状態だった。
これではエルミアーナの餌付けのためだけに現れたようにさえ思える。
太らせて食べる気かしら……。
などと、荒唐無稽なことを考えてみたりしたくもなるほど、目的が不明なのだ。
前世の世界には、お菓子で太らせた子供を食べようとする魔女の話があったが、まさかそんなはずない。
原作でも、魔族が人を喰うという設定はなかったはずだからだ。
じーっと兄なる男を観察していると、唐突に彼が両手で自分の頬を押さえた。
「もう……ミアったら。そんなに見つめられたら照れちゃうよ」
「えっ、あ、そういうつもりでは……」
「じゃあ、どうしたの?」
「それは――」
あなたが怪しくて観察していました。
などと馬鹿正直に言うわけにもいかない。
エルミアーナは少し考えて口を開いた。
「お兄様はどうしてそんなにご機嫌でいらっしゃるのかしら、と思って」
「んー、そうだね……」
エイドリアンはおもむろにこちらへ手を伸ばして、エルミアーナの手を握った。
「ミアが元気で嬉しいから」
「そっ……それだけ、ですか……?」
急に触れられて、跳び上がりそうになる。だがそれは、「お兄様が大好きな妹」には相応しくない態度だと思い、エルミアーナは平静を装って尋ね返した。
「そうだよ。僕は君が傍にいてくれるだけで嬉しいんだ」
ぱちんとウインクしてみせる彼に、今度は我慢せずにエルミアーナは思い切り眉根を寄せる。
「もう、からかわないでください、お兄様。それだけでいいなんて、そんなはずないでしょう」
エルミアーナはエイドリアンの手からするりと己のそれを引き抜いて立ち上がった。
「そろそろ戻ります」
「あ、ミア」
追いかけてくる兄を無視して邸内に戻る。
「――エルミアーナ嬢?」
屋敷に入った時、不意に声をかけられて、エルミアーナは廊下を振り返った。
「あら……フェリクス様」
そこにいたのは自身の従兄にあたる男だった。
後ろで纏められたダークブラウンの長い髪が揺れている。エルミアーナとは少し色合いの違う明るい青の瞳が、ぱちりと瞬かれた。
その時、追いかけてきたエイドリアンの姿が、視界に映る。エルミアーナは両者を見比べ――、兄からぷいとそっぽを向いた。
「わたくし、少しフェリクス様に用事があるのを思い出しましたわ。お兄様はついて来ないで」
「そ、そんな……」
ショックからか顔面蒼白になるエイドリアンに背を向ける。
「さあ、参りましょう。フェリクス様」
「え……と、はい」
ミアはそんな男がいいのかぁ、という謎の叫び声が後ろから響いたが、エルミアーナは聞こえないふりをして歩き出した。