19
「ルミさん。これで身体を拭いてください」
エルミアーナはエレンナに渡されたお世辞にも肌触りが良いとは言えない布を握りしめて立ち竦む。
服からも髪からもぽたぽたと水が滴り落ちて、床を濡らしていた。
ここは孤児院から巣立って久しいエレンナが、現在住んでいる家の玄関先だ。
いつまでもここに立っているわけにはいかないと分かっていても、自力では動けそうになかった。
お湯を沸かしてくると言って、部屋の奥へと向かったエレンナの姿は既にそこにはなく、エルミアーナは自分が一人きりになってしまったような心細さを覚える。
誰もが、自分を置いていってしまう。
手を伸ばしてみても、彼らに届くことはない。
どうして、わたくしはいつも――。
忘れていた虚無感が襲う。
頬を流れる雨粒がぽたぽたと落ちては、握りしめる布に吸収されてゆく。
「ルミさん……?」
様子を見に来たらしいエレンナが顔を覗かせて、エルミアーナを見た。
「――……酷い雨ですね。部屋の中にまで落ちてくるなんて」
エレンナの手がエルミアーナの肩にそっと置かれる。
エルミアーナは布に顔を押し付けて、ただ黙ってこくりと頷いた。
「――……」
エルミアーナはソファの上で膝を抱えながら、エレンナが淹れてくれたホットミルクをちびちびと啜っていた。
外はいまだ雨が降っており、窓ガラスの向こう側は灰色をしている。
身体がようやく温まってきた。
それと同時に、胸を支配していた悲壮感も少しずつ薄まって、頭も働きだす。
それに伴って湧き上がってきた感情は――
「――腹立ってきた」
ぼそっと呟くと、エレンナがぎょっとした顔で跳び上がった。
「え゛っ。わ、わたし、何かしましたか!?」
「へ? ……あ、ちがう! エレンナに言ったのではなくて……」
エルミアーナはカップを握る手にぎりりと力を籠める。
「妹を雨の中置き去りにした、あの『馬鹿兄』に言ったの……!」
「あ、あぁ~……」
エルミアーナは怒りにまかせて、ホットミルクをぐいっと飲み込んだ。令嬢らしくないと言われようが、知ったことではない。
「あの……、ルミさん」
「なに?」
ちょっと舌火傷したな、と思いつつ、まだ半分ほど中身の残ったカップを再び握りしめる。
「あの人は『お兄様』、なんですよね?」
「それは……」
エレンナの問いに、エルミアーナは言葉を詰まらせた。
「わたくしにも、わからないの」
上手い言葉が見つからずに、観念して苦笑する。
あの人は、自分にとっての何なのか。
期間限定の兄? 突然現れた不審な魔族? それとも――?
少し落ち着いた今、気付いたことはあったが、それがどうして彼が「兄」を名乗るという行動に結びついたのかは分からなかった。
「……だから、聞きに行かないと」
でもどうやって?
真っ当に魔族の土地を目指せば、往復だけで半年ほどはかかる。それに何より、彼らの住む大陸を覆う磁場を突破できねば話にならない。
エルミアーナ一人ならば、魔力で打ち消しつつ進めるかもしれないが、一人で操舵技術も無しに海を渡るなど自殺行為に等しい。
また、リーゼンベルク家の地下にある魔法陣が使えれば、魔界へ飛ぶことが可能だが――、こちらは魔法陣の起動、長距離移動、磁場の突破をできるだけの魔力が足らない。
それは原作のエルミアーナが実証済みだ。いや、ありとあらゆる手を尽くした上に、現在よりもいくつか歳を重ねたエルミアーナでさえ声を届けるのが精一杯だったのだから、現状では不可能と言っても過言ではないだろう。
手は無い? もう一度、彼がきまぐれに現れるのを待つしかないのか?
そんなものを待っていては、原作がはじまってしまう。どんな影響があるか分からないのは不安でしかない。
「…………」
その時、うっかり手が滑り持っていたカップが落ちていく。
「あっ」
そう声を上げた時には、ぬるくなったミルクをまき散らしながら、カップが床をころりと転がった。
幸いカップ自体は割れなかったようだが、その周囲は真っ白になっている。
「ルミさん、お怪我は!?」
「だ、大丈夫よ……」
持っていたカップを落とすなんて、とはじめての失態に呆然としている間にも、ミルクは広がってゆく。
「ご、ごめんなさい、エレンナ。すぐ片付けるわ」
「いえ、わたしが……」
エレンナが布巾で、とりあえずその零れている液体を拭き取ろうとしている。
だがそれならば、魔法で洗い清めた方が早い。
エルミアーナは床を吹こうとするエレンナの手を掴んで制止して、魔法を発動させようとした。だが――
「え……」
いつもより魔力の循環が早い。それに、魔力の量自体も多い――
そして、それを何故と思う前に、魔法が発動してしまう。
「あっ……」
膨れ上がるように現れた水は、コントロールを失って部屋の中に降り注いだのだった。




