10
「ねぇ、ミア」
後ろにぴったりとついて歩くエイドリアンの声を、エルミアーナは無視して歩く。
「ねぇってば」
「…………」
何故かは知らないけれどお兄様は――、怒ってらっしゃる。
エルミアーナはスタスタと平然とした風に歩きながらも、内心は冷や汗をかいていた。
声色は良く言えば優しく、悪く言えば呑気はいつもと変わらないもの。なのに、首の後ろがピリピリする。
普段とは何かが違った。
「ミーアー」
「――きゃあっ」
不意にエイドリアンの手が伸びてきて、エルミアーナの手首が捕らえられる。
そして、優しい手つきながらも強引に後ろを振り向かされた。
「なんで無視するの」
「…………お兄様、怒ってらっしゃるから」
身動きが取れなくなったエルミアーナは、ぼそぼそと呟く。
「……何に怒ってると思う?」
「それは――、……わかりません」
最初エレンナと別れてすぐの時は、彼女にも言った通り、「拗ねている」のだと思った。
大好きな妹に放置されていじける兄――。実に理に適った演技だと。
だが、どうやら違うらしいと悟ったのは、彼の近くまで来て「帰りましょう」と声をかけようとした時のこと。身の竦むような寒気を覚えたからだ。
今も少し和らいでいるものの、完全になくなってはいない。
「お兄様、あなたは――」
エルミアーナは、エイドリアンの服をきゅっと掴む。
だが、聞きたいことは言葉にならず、掴んでいたその手を離す。
「ねえ、ミア」
「……はい」
「さっきの子が言ってた噂、誰に聞いたの?」
「フェリクス様に」
「自分の立場が聖女に奪われないか、って心配だった?」
「そんなのではっ……、――ない、です」
心配なのではない。それは、事実なのだ。
エルミアーナは、声を荒らげそうになって俯いた。
「ねえ、ミア」
俯いたその頬に彼の手が触れて、エルミアーナは顔を上げた。
視線が絡む。
彼は、こんな色の瞳をしていただろうか――
「君が望むなら、僕は何でもしてあげるよ。――あの女を殺すことだって」
「は……」
何を馬鹿な。そう言って笑うべきなのは分かっていた。けれど、その言葉を口にすることが出来ずに押し黙る。
だってそうすれば、この長い――長すぎる悪夢から抜け出せるかもしれない。
聖女が現れた時の衝撃、婚約者が奪われた絶望、罪人となった惨めさ、首を落とされた時に感じたあの無力感も、何もかも――。
今なら、無かったことに出来るかもしれない。
「…………どうして」
でも頷くことは出来ない。
殺せないとかそういう、綺麗な気持ちからではない。私刑を望めば、あの女と同類に堕ちてしまう。それが耐えられないからだ。
「どうして、そんなことを言うの」
だから、別のことを聞いた。
呆れた風を装って。でも、隠しきれない哀惜の思いは滲み出ていたかもしれない。
「君のせいだよ。何に怒っているか分からない、なんて言うから」
彼の顔が翳って暗く見える。
「本当の目的があったのに、僕に何も教えてくれないから。もし危険な目に遭っていたら、どうするつもりだったのかな、って」
「――っ」
本当に、この男の目的はなんだというのだろう。
やめてほしい。
まるで本当に、エルミアーナという人間を愛しているかのような言葉を吐き続けるのは。
いつか、信じてしまいそうで。
「……お兄様。もうわたくし、子供ではありませんわ」
「知ってるよ。だから心配なんだ」
「なら、レディの秘密の一つや二つは許容していただきませんと」
「心配させないでくれるのなら、いくらでも」
エイドリアンが茶目っ気のある笑顔を見せ、いつも通りの雰囲気に戻る。
そのことに、思っていた以上の安堵を覚えながら、エルミアーナも笑顔を返した。
「今度こそ帰りましょう、お兄様」
「そうだね。――ところでミア、一つ聞きたかったんだけれど……」
「なんですか?」
帰りの馬車を待たせているところまで歩かなければならない。
ひとまず大通りへ足を向けたエルミアーナは、エイドリアンの顔を見上げた。
「どうして噂の少女を知っていたの」
「え? それは、フェリクス様に教えていただいた、と先程……」
「そうじゃなくて。どうして――、その少女の顔を知っていたの」
「ああ……」
どう答えるべきか、少し悩んで答える。
「夢を見たんです。あの娘が聖女だと名乗りを上げる夢」
エイドリアンがぴたりと足を止めた。
「お兄様?」
「その夢で、君は」
「聖女に処刑されました」
どうして本当の事を言う気になったのか。
エルミアーナ自身も分からなかった。
彼が息を飲む。
「――なんて、夢ですよ。ただの夢」
あまりに顔色をなくした彼が気の毒になって、エルミアーナは笑う。
「…………ミア」
彼が縋るようにエルミアーナの手を掴むのを、ゆるく握り返す。
「ごめんね、ミア」
何に対してなのか分からない謝罪を、黙って受け入れたあとは、もうどちらも喋らないままただ手を繋いで歩く。
そしてその夜、兄を名乗っていたその男は、唐突に姿を消した。




