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共産原理主義概論

作者: 新入生

私的思想である。

新たな思想、共産原理主義は

初期共産主義とは時代が

現代共産主義とは思想が

国家社会主義とは共有が

違う

共産主義と聞くと何を連想するだろうか。私は共産主義を全く知らなかった時、反日左翼を連想した。理由は多々あるが、日本赤軍によるテロリズムや現代の在日外国人が多く所属している組織が共産主義を掲げていることがあるからである。

しかしそこで私は共産主義を切り捨てるのは勿体無いと考え、共産主義だけではなく共産主義国や共産主義組織を調べた。結論から言うと全くの色眼鏡であった。

まず共産主義国や共産主義組織は名前だけで、全く共産化できていない。そして共産主義自体に欠陥があった。

前の自論でも述べたが、共産主義はマルクス思想である。しかしマルクス思想には物が人を育むという矛盾がある。

物は人が作る物体である。物体が人を産むわけでも育てるわけでもない。マルクスは物を必要とするから人が(金銭的に)育つという意味で唱えたのだろう。そして物、労働者、経営者(資産家)という資本主義とは逆階級を提唱したと解釈している。

確かに物体を必要とするのは人である、しかし物体に頼らざる得ない社会を形成したのは資本ではないか。資本が一システムから出世し人間の上に君臨した経済社会では、物体を人が必要とする時資本に頼る。その時、人は文明の発展作業を「労働作業」と忌み嫌った。資本を得なければ欲を解放できないし、働かなければ資本がない。元来、人間の欲を解放する機会は自己にあり、資本に縛られてはいなかった。しかし資本にシステム以上の価値がつけられ、競争される内に発展とは関係がない資本主義というエゴイズム的イデオロギーが作られた。これが物体を人が欲するには働かなければならず、物体が人間を育んでいるという根拠である。つまり、資本主義こそがマルクス思想の生みの親であると言えるわけだ。

私はそもそも中世の資本主義と現代の資本主義には大きな違いがあると考えている。簡単である、人権という「言葉」があるかないかである。

現代では当たり前に使われている人権という単語は中世には無い。もし仮に我々が中世にタイムスリップして人権を尊重などと言っても完全に無視されるだろう。現代でも人権が無い紛争地帯や人種差別傾向が強い国はある。この人権という言葉がなかった中世でマルクスは共産主義を唱えた。しかし中世にはマルクス思想の敵対思想である資本主義の中に人権という言葉はない。ここが共産主義の変異点にもなってくる。まず共産主義は人権を作ったイデオロギーであるが、現在は資本主義も人権を唱えている。目に見える奴隷制は現代ではゼロではないが、なかなかないと言える。そうして共産主義は変異し、マルクス思想から離れて凡ゆる利己主義者に使われてしまった。

名前こそ出さないが、とある共産主義組織は平和のために自衛隊を無くすと言っている。平和のための自衛隊を改組ではなく無くしてしまったらどうなるかわからないのだろうか。ある共産主義国は人民が貧困なのに政府首脳は贅沢だし、或は首脳が率先して人民弾圧をしている。これでは共産ではなく独裁である。

このような観点から過去の共産主義と現代の共産主義では多いなる違いがあることがわかる。しかし見解は統一され名前も「共産主義」である。私は新たな共産思想を考える必要があると思った。それが共産原理主義である。

共産原理主義とは、マルクス思想である共産主義でも現代の似非共産主義でもなく文字通りの意味である「共産」を目指すイデオロギーである。

「平等」「共有」「平和」を念頭に置き、国家の保全と人民の権利を第一に唱える必要があると考えた。それは現代の似非共産主義者が口先だけの偽善で終わりエゴイズムに傾倒している共産主義を救済するという意味でも必要である。

まず平等だが、労働という苦行を発展だと考えるために資本を捨てる必要がある。資本というメリットがなければ文明の発展作業をする国民に上下関係が形成される可能性が少なくなる。そして人民の権利を対等にするため、権利政策には裏付け(傾倒がないか)を必須とする。

次に共有だが。原理主義であるので共産の名前から国家資源の共有である。全ての国民が自国土の資源を共有できるようにしなければならないと考える。そこに量の差や停滞が起きてもならない。

最後に平和である。日本の場合、自衛隊は中華人民共和国や韓国、朝鮮民主主義人民共和国などの脅威から人民を護るため必要である。しかし軍備が米国資産になってしまっている現状では、米国の一喜一憂で日本国民が「使われて」いるので、祖国のために自衛隊の方々も解放し、国軍として作り直す必要がある。勿論戦争を遂行する軍隊ではなく中立軍として機能させる必要がある。自国民を護るための軍隊であることを第一とする。

これら三つの提唱は民族共同体=国を護る為に必要不可欠な原点である。故に名前を共産原理主義とし、従来の共産主義とは分ける必要がある。

マルクス思想である本流共産主義でも現代の似非共産主義でもないからだ。

資本からの解放を叫んだマルクス思想とは違う。資本主義の上で成り立つ共産主義にならないために資本は完全にシステムすらも棄てなければならない。即ち交換システムを捨てる為、愛國心もなければ成り立たない。難しく思えるが、祖国を愛することは元来帰巣本能上簡単である。それを資本が捻じ曲げてしまっているが故に我々には難しく思えるのである。

共産原理主義の「原理」とは民族共同体の根本的な要素に還るという意味にあり、またマルクス思想=初期共産主義を遵守するという意味ではない。偽善者に使われている人権という言葉は「当たり前」の常識とし、その上で資本に囚われない共産主義を作る必要が世界にはある。

ありがとうございました。

私的思想です。文字に表現するのが難しく、時間が結構かかり読みづらい部分もあるかと思いますがご理解くださると幸いです。

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