突然の凶報
強化された下半身の力を使いこなす為の鍛錬と言っても、特別な事はしない。自分がどれだけの事が出来るのか、それをしっかりと認識するだけの話だ。
筋力強化帯を外した状態で全力で走る。全力で止まる。全力で方向転換する。全力で跳躍する。全力で踏ん張る。そんな感じで限界を見極めていくだけだ。
ただ、下半身の力をきっちり使い切る為には上半身の使い方も重要になってくる。そのあたりも身体に覚え込ませるためには地味な反復訓練を繰り返すのみ。
「砂浜を走るのもキツかったけどよぉ、これもキツいなぁ?」
肩で息をしながら孫左衛門がそう言うが、その表情にはまだ余裕が見える。
「砂浜の走り込みをしたお陰で、まだ余裕があるみたいだな?」
俺が皮肉混じりにそう言うと、孫左衛門の表情がピキリと引き攣った。
「あ、いや……そ、そそそそんな訳ねえぜ?」
いや、ところがそんな訳あるんだよ。『下半身の強化だー』って言って砂浜をひたすら走った訳だが、なにも強化されるのは足腰だけじゃねえ。体力そのもの――持久力や心の臓が強くなる。長い時間走り回っていられる力も上がっているんだこれが。
俺がその事を孫左衛門に説明していると、他の三人や桃姫様、それにおなつさんまで集まってきてフムフムと聞いている。
今まで師匠が俺の中で当たり前の人間像だった訳だが、どうやらヤツは人外じみているって事が最近分かってきた。ヤツに出来る事が普通だと思ってたんだが、どうもそうじゃない。むしろ出来ない人間が殆どだ。ヤツに敵わない俺は弱い。そう思ってたんだが、それもどうも違うみたいだ。
島を追い出されて以来、俺より強いと思える人間には会った事がない。
でもなあ、俺に教えられるのはここまでなんだよなぁ。
「姫様ぁ~!」
その時だ。城門の方から一人の男が駆け込んできた。
「ひっ、姫様! こちらにおられましたか!」
「どうしたのです? 落ち着きなさい」
「はっ」
男は桃姫様に諭され、大きく呼吸して息を整え言った。
「昨夜、石廊崎の漁村が海賊に襲われたとの事です!」
石廊崎っつったらここから南西に三里ってとこか?
まあ、お膝元と言っていいだろう。城主の戸田様がおられない事で舐められてるのか、それとも……
「至急出陣の用意を! まずは石廊崎へ向かいます! 出立は二刻後!」
「はっ!」
桃姫様の命を受けて、男が大急ぎで駆けていく。
「あなた方はどうしますか?」
次いで彼女は護衛の四人に向かって問う。
「もちろん、お供致しますぜ!」
孫左衛門がドンと胸を叩いてニヤリと笑う。そして他の三人も力強く頷いた。
「では、戦支度をしてきなさい。おなつ、私も」
そう言うと、桃姫様もおなつさんもさっさと行ってしまった。
えっと……俺はどうしよう? 戦支度って言ってもな。俺はこの『瓶割』一振しかねえんだよな。そうだ! 義父殿に相談してみるか。
思い立った俺は、二の丸近くの掘っ立て小屋にいる義父殿を訪ねた。
「ふむ。じゃが、お主には甲冑なんぞ逆に邪魔になるのではないか?」
囲炉裏の縁で胡坐をかき、優雅に煙管なんぞふかしてしるその姿はすっかり楽隠居した爺さんだ。いや、文字通りその通りなんだけどさ。
「俺もそう思うんだけどさ、桃姫様のお付きってそんな適当でいいのか?」
「そうさのう……」
――カーン
義父殿は煙管を囲炉裏の縁へ叩きつけ、いい音をさせて中の葉を落とした。そしてスクッと立ち上がる。
「付いて参れ」
そう一言言うと、義父殿は振り返る事なくスタスタと歩き始めた。外に出てからも終始無言の義父殿が向かったのは、今は俺が寝泊まりしている屋敷。元々はこの爺さんの屋敷だった。
そして元の家主は普段あまり使っていない、物置と化している部屋の襖を開けた。
「どうせお主の事じゃ。中を検めるなんて事もしとらんじゃろ」
うっ……
その通り。そもそも俺の持ちモンじゃねえし、興味もなかったからな。
「これを開けてみい」
義父殿は大き目の行李を指差した。
「へえ……」
行李の蓋を開けると、中には立派な甲冑一式が入っている。しかし、あちこち損傷していて、あまり程度がいいとは言えない。
「それは、合戦で死んだ倅が使っておったもんじゃ。使えるモンは使うがええ。城の武具もあるにはあるが、足軽用の粗末なモンしかないのじゃ」
なるほど。確か長篠合戦で戦死したんだったか? この損傷具合、かなりの激戦だったんだろうなぁ。
俺も養子になった事だし、ここは遠慮なくご厚意に甘えるとしよう。
「使えそうなのは、袖、籠手、手甲に……脛当てくらいか」
袖ってのは肩から肘の辺りまでを守る防具だ。籠手は腕から手首、手甲は文字通り手の甲。脛当ても文字通りだな。肝心な身体を守る部分は損傷が酷くて使えない。まあ、鎖帷子でも着ればいいだろ。
「兜はいらんのか」
「ああ。鉢巻きで十分! 俺の真骨頂はやられる前にやる! だからな。あんまり重いモンは装備したくねえんだ」
「ほっほっほ。まあそう言うと思ったわい。しっかり姫様をお守りするのじゃぞ」
「分かってらぁ。指一本触れさせやしねえ」
そしてきっちり二刻後、戦支度を終えた俺達は馬場へ集合した。