いやいやいや!
本日より、更新は一日一回、18:00になります。
気のせいか、姫様の俺を見る目が熱を帯びている気がする。
そしておなつさんはポン! と手のひらを拳で叩いていた。何か閃いた。そんな顔だ。
俺は桃姫様の視線を受け止めるように、自然な形で目を合わせた。
「あっ……いえ、その……ごめんなさい! ちょっと気分が優れないので……」
そう言って桃姫様は退席してしまった。
「姫様!?」
その後をおなつさんが慌てて追いかけていく。
えっと……
もちろん桃姫様の事は心配だけど、後を追いかけていってご寝所に入り込んだりしたら首が飛びそうだし……
仕方ないから、俺はポツンと一人、廊下に出て胡坐をかき、半刻ほど月を見ながら佇んでいた。
「あの視線、どういうアレなんだろうな? もしかして熱上げて辛かったとか?」
「違うわよっ!」
「いてっ!?」
いつの間にか戻っていたおなつさんに頭をポカッと叩かれた。やべえな、気を抜きすぎてた。気付かなかったよ。
「……らしくないわね? 私今気配殺して無かったよ?」
「……桃姫様は?」
そうか。おなつさん、気配消してなかったのか。それでも気付かないなんて、余程桃姫様の事が心配だったんだな、俺。
「いい月夜ね。少し、歩きましょうか」
おなつさんは俺の問いに答えることなく、そう言って外に出る。俺も無言で後に続いた。
やけに黄色い満月はお庭の飛び石を明るく照らし、池の水に揺らぎながら分身を映し出している。俺達二人は、その月が揺らぐ池のほとりに立ち止まり、しばらくの間無言で佇む。
「姫様なら大丈夫だよ。どこも悪くない」
不意に沈黙を破ったのはおなつさんだった。でも、桃姫様は実際顔も赤かったし、なんだが呼吸も早かった気がする。それなのにどこも悪くないって?
「ねえ、弥五郎? 姫様が婿を取る条件、覚えてる?」
呼び捨てか。仕事抜きにして腹を割って話したい、そういう事だな。
「自分より強い男、だろ?」
「そうね、でも。姫様だって年頃の女の子だもの。自分より強ければ誰でもいいって訳じゃないのよ?」
それはそうだろうなと思う。でも武家の女ってのはそういう感情を抜きにして、お家の為に嫁いでいく。そういう世の中だろ?
おなつさんは池に揺らぐ月を見ながら尚も続ける。
「それにね、姫様に勝った人だからって、誰でも彼でも戸田のお殿様がお許しになると思う?」
それも否だろうな。ただの荒くれ者が婿候補になる事だってあり得る訳で、流石にそういうのは殿様もお許しにならないだろう。
「姫様はね、自分の目で見極めて、その上で御父上である殿に認めていただけるお方を選ぶために、日々鍛錬を重ねているの」
なるほどなぁ。自分も、殿様も認める男に出会うまでは絶対に負けられないから、必死に鍛錬を重ねてる訳だな。
だけど、中々話が見えてこない。それと、桃姫様が退席したのと何の関係があるんだ?
俺は首を傾げながらおなつさんを見た。雲が流れ、一瞬月が姿を隠す。
「……はぁ、まだ分かんないかなぁ?」
「何がだよ?」
おなつさん、今ちょっと、いや、かなり呆れた顔しただろ。
「姫様はねえ、気付いちゃったんだよ」
「だから何に?」
「もう、この朴念仁!」
雲が流れ、再び月が顔を出す。俺は池の中で揺らぐ月に小石を投げつけた。月を中心に広がる波紋。それと同じように、俺の心は乱れている。
何だってんだよ。
「はじめは、職人としてのあなたを気に入っていた。そしてその人柄もね。そして、あなたと手合わせをしてあなたの強さを知った」
「ああ……そうだな」
「歳も同じくらい、自分より強くて職人としての腕もいい。そして気取らずに話せるあなたを、友人として側に置きたいと思っていたのでしょうね」
それで俺を側付きにした、か。義父殿の差し金だけじゃなかったんだな。
「だからさ、それと桃姫様の退席とどう関係が――」
「もう! だ・か・ら! 姫様のは恋煩いなの!」
「こい?」
俺は思わず池を見る。
「そっちの鯉じゃなあーい!」
――スパン!
いい音をさせて後頭部が平手で叩かれた。なぜだ。
「あのね? 冷静に考えたら、弥五郎は婿候補の試験に合格してるんだよね」
「ああ、なるほど……」
「それで姫様、気付いちゃったのよ。あなたに抱いてる気持ちに」
えっと……
それって……?
「いやいやいや! 桃姫様が俺に? いやいやいや! だって俺、親の顔も知らねえ孤児だったし、師匠だってなんか訳分かんねえ人だし!」
「だから伊東様はあんたを養子に取ったんでしょうが!」
――スパン!
もはやあんた呼ばわりになってるけど、不思議と心地よい。いや、頭叩かれるのは普通に痛えよ。
「そっか。家柄的な事はそれで解決してるのか……」
まさか義父殿が本気でそこまで考えてるとは思わなかったけどな。せいぜい桃姫様の護衛としてお仕えするのに大義名分が必要だから、くらいだと思ってたんだけど。
「あんたはどうなの? 桃姫様の事」
「……一目惚れだったよ。それに、飢え死にしそうだった俺に飯を恵んでくれた命の恩人だ。あのお方の為なら何でもする」
「そっか、頑張れ少年!」
おなつさんが激励の言葉と共に、俺の背中をバシンと叩いた。
波紋が消えた池は静かに水を湛え、僅かに揺らぐ丸い月は、まるで俺の事を笑っているように見えた。
△▼△
はぁ……
どうしちゃったのかしら。
弥五郎と目が合ったら、急に胸が高鳴って、顔も暑いくらいに火照って……
思わず席を立ってきちゃったけど、失礼な女だと思われてないかしら?
「姫様!?」
その時おなつが飛び込んできた。あら、心配かけちゃったみたい。でも丁度いいわ。おなつに相談してみましょう。
「おなつ、ちょっと聞いて。私、弥五郎を見ているとなんだかおかしいの」
弥五郎は私の小太刀の手入れが出来て、『斬桃華』という銘も付けてくれた。
弥五郎はたった一人で三島の村人を救ってくれた、義に篤い人。そして救えなかった人の為に心を痛める事が出来る優しい人。
そして弥五郎は、私など足下に及ばない強い人……
「うふふ。弥五郎様は、姫様の試験を全部合格しちゃったんですよね」
そう、おなつの言う通りなの。なぜ、今まで気付かなかったのかしら?
彼は婿候補として文句のつけようがない。しかも爺の所に養子に入り、伊東家の跡取りになった。家柄的にもなんとかなる。でも、それに気付いた瞬間、私は弥五郎をまともに見る事が出来なくなってしまった。
「姫様? それが恋ですよ?」
「恋?」
そうなのですか。これが恋……
切なくて、苦しくて、でも甘酸っぱいような……
ああ、弥五郎に会いたい。でも会うときっと苦しくなってしまう……
「はぁ……まったく、姫様? まるで生娘みたいにときめくのやめてくれません?」
「生娘です!」
「あらあら、じゃあ、それを弥五郎様に伝えてきますね!」
そう言っておなつは出ていってしまった。
――はっ!?
ちょっとおなつ! そんな事弥五郎に言っちゃダメ!