これは桃じゃない
明日から出仕せよ。そんな桃姫様の言葉を受けて、俺は今日中に鉄瓶を仕上げる事に没頭した。
一つは俺専用。もう一つはおなつさんの分。そしてもう一つは、義父殿が請け負ってきた安形様とかいうお偉いさんの分。先日までの脇差といい、ぶっちゃけかなり忙しい。
と言っても、あとは見た目を綺麗にするだけなので、それほど面倒という訳でもないんだな。安形様に差し上げるやつは手を抜かないにしても、俺が自分使いするやつはどうでもいいし、おなつさんのも……まあ適当でいいだろう。
そして今の俺は、やる気が天に向かって突き抜けている。
「俺が、お日様で、橙色かぁ……」
刀や太刀と違って、脇差は常に身に着けているものだろ? それを桃姫様が気に入ってくれて、拵えも俺の事を考えてお造りになられた。
おっといけね! 有頂天になってたら、無意識の内に鉄瓶に桃の紋様の刻印打っちまった。しゃあねえ、これは俺のにしよう。こんなもん、安形様やおなつさんに渡したら何を言われるか分かったもんじゃねえ。
「さて、早速沸かして白湯を……」
三つの鉄瓶を仕上げた頃にはすでに夕刻に迫っていた。というか、三つ仕上げるのに半日とちょっと。コレは異様に早い。きっと俺の桃姫様愛が突き抜けた結果だな。ふふふ。
そして自分用の桃の刻印が入った鉄瓶で湯を沸かす。
「弥五郎様~?」
丁度飲み頃になったあたりを見計らったように登場するこの声の主は、言わずと知れたおなつさんだ。今朝の事を思い出し、ちょっと気まずいな。膝枕してもらった上に、胸掴んじまったしな。
というか、なぜ様付けなんだよ。今朝はさん付けだったのに。
「なんで様付け?」
「あははっ、実はまだ呼びなれなくて~。たまに間違えちゃうの!」
「いや、だから何で様付けにする必要があるんだよ」
「ああ、それはねぇ……」
おなつさんが言うには、俺が義父殿の養子になるって事は、伊東家というれっきとした戸田家家臣団の一員になるって事らしい。つまり、職人や町人とは違い、武士になったって事だ。
「へえ、そうか。でも堅苦しくてやだな、それ」
「そうは言ってもねえ……」
まあ、おなつさんにも体裁ってものがあるんだろうな。
「せめて誰もいないトコじゃ様付けはやめてくれねえ? 何なら呼び捨てでもいいよ」
まだここに来てそんなに経ってないけどさ、この人には随分世話になってるし、なんだか他人って気がしねえんだよなぁ。
『私がお姉ちゃんだよ?』って言われたら、ああそうかやっぱりなって思うくらいにはな。
「うふふ~、そう? じゃあ二人っきりの時は弥五郎って呼ぶ~!」
「ビクッ!」
なんか急にニヨニヨしやがった!?
「あら……この鉄瓶……」
やべ、そんなおなつさん、鉄瓶見て気付きやがった!
俺は咄嗟に別の事に注意を逸らす。
「あ、ほら! 鉄瓶仕上がったんだよ! コレ! こっちが安形様、こっちがおなつさんの!」
「むう……」
おなつさんは一瞬並べてある二つの鉄瓶に目を向けるも、頬を膨らませて俺の鉄瓶に視線を戻す。
「もも……」
「いや、気のせいだ」
「桃の実の刻印……」
「いや、これは桃じゃない」
俺は否定する。けど、否定するほどおなつさんのほっぺたは膨らみを増していく。
「じゃあなによ……?」
「これは尻だ!」
「あ、なあんだ! お尻かぁ。じゃあいいや!……ってなるかあ!」
……ダメだった。尻を刻印するなど何事だってめっちゃ怒られた。
それにしても、桃を彫ったからってそこまで怒らなくてもいいだろうに。そう思って聞いてみた。
「姫様への気持ちは分かってるから仕方ない。でもズルい! 私の鉄瓶に何か模様付けて!」
はあ。
この人の思考がよく分からん。侍女的な仕事をしているクセに、たまに桃姫様に張り合おうとしている感じがするんだよなぁ。
「じゃあ、あと数日待ってくれ。おなつさんのやつにもなんか模様いれるから」
「うん! 分かった!」
……一発でご機嫌になるっていうね。
そしておなつさんに、安形様への鉄瓶を義父殿へ届けてもらうよう頼もうとしたんだが……
「あ、そうそう、ここに来た用事を思い出したわ!」
……おい。
「あのね、今夜酒宴を催すから、弥五郎は姫様と一緒に出席するようにって。大丈夫、斜め後ろに座ってるだけでいいから。私と一緒に」
「酒宴? なんで?」
「うん、それがね、明国からお客様がお見えになるんだって。交易商人の御一行らしいわよ?」
なるほど、そこに安形様や義父殿も出席するから、ついでに自分で渡せって事か。
「西国を巡りながら商売をしてたらしいんだけど、この下田で補給をしたいらしいのよね。で、こっちとしても色んな情報を知りたいから、酒宴に招いたってワケ」
西国と明国、それに朝鮮あたりの情報は今の時期はかなり貴重だろう。どうやら秀吉が朝鮮出兵を企ててるって噂もあるらしい。話を聞く限り、特におかしいところもないし、そのあたりの下調べは、俺よりおなつさんの方が余程しっかりやってるだろう。
「了解した。もう行った方がいいのか?」
「そうだね。小ぎれいな格好に着替えて? 待ってるから一緒にいこ?」
「お、おう」
着替えるんだから取り敢えず付いてくるなよ……
△▼△
着替え手伝おうと思ったら追い出されちゃった。もう、恥ずかしがり屋さんなんだから。
えへへ、実はね、今日の酒宴にはちょっと一騒動ありそうな感じがするんだぁ。
それを弥五郎に言ってないのはもちろんわざとよ?
これを上手く乗り切れば、家臣団や姫様の間で弥五郎の株は爆上がり。
それにしても……弥五郎の方から呼び捨てにしていいだなんて。思ったよりも受け入れてくれてるのね。嬉しかったなぁ。
あ、弥五郎が出てきた。
あらあら、襟がめくれてるじゃない。もう、ダメなんだから!
あれ? なんか私、姉さん女房みたい? やだー!