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アンドレの事情 その1

アンドレがコズイレフ帝国で大使として着任してから三ヶ月が経つ。フォンテーヌ王国の前大使からの引継ぎも終わり、前大使は嬉しそうに祖国に帰っていった。戦後長い間、両国の平和のために尽くしてくれた立派な外交官だ。自分も頑張ろうとやる気はあるものの、彼が帰国した後は何となく憂鬱な毎日を送っていた。


スラヴィア語は問題ないし衣食住も快適だ。ただ、時々無性に寂しいと思うことがある。


両親と会えない生活がこんなに不安になるとは思わなかった。やっぱり自分は両親の愛情の上に胡坐をかいて甘やかされていたんだな、と反省する。セリーヌは正しかったと苦笑するしかない。


コズイレフ帝国の内部は荒れていた。皇帝イヴァン・コズイレフは権勢欲の強い暴君だ。先の戦争でフォンテーヌ王国と引き分けたことを未だに根に持っている。先々代皇帝の時代に旧ブーニン侯爵領をフォンテーヌに取られたことも恨みの原因になっているらしい。ブーニン地方は歴史的にも地政学的にも非常に難しい地域だ。


それだけでなない。傀儡として使うつもりだったミハイル・ブーニン侯爵が失脚し、マキシムが後を継いだことも計算外だった。せっかくの貴重なセイレーンの純血種も取り逃がした。フォンテーヌ王国には積る恨みがあるだろう。現在、仮想敵国ナンバーワンは間違いなくフォンテーヌ王国だ。アンドレも身の処し方には気をつけなくてはいけないと肝に銘じている。皇宮で明らかな敵意が向けられることも珍しくない。


平和を守るためには情報収集が欠かせない。外交官として多くの皇族や貴族と接触し、情報を集める必要があるのだが、その社交活動が苦痛でならなかった。


夜会には毎回参加するようにしている。すると群がる香水臭い女性たち。欲にまみれた目でアンドレを見つめ纏わりつく。「この男は得になるか」を見定めようとする視線は愉快なものではない。うっとりと腕を絡めて媚びに満ちた上目遣いに「うわぁぁぁああああ!」と叫んで逃げ出したくなることもある。


(リオの言う通りだ)


アンドレは思う。


(僕は母上に慣れ過ぎた。マザコンと言われるのも無理はない。僕は母上とは種類の違う女性たちをずっと避け続けてきたんだよな・・・)


思わずため息が出る。


皇太子のニコライと第二皇子のヴィクトルは仲が悪い。ニコライは側妃エレナの息子で、ヴィクトルは正妃エリザヴェータの息子だ。正妃と側妃の戦いに加えて、ニコライ派とヴィクトル派に分かれて貴族たちは権力争いに忙しい。バカバカしいとしか思えない。


ジュリアンたちは兄弟で仲が良かったよなぁ、と思うとまたフォンテーヌが懐かしくなる。


第三皇子のアントンは穏やかで唯一好感が持てる皇族だ。母親のマリヤは側妃だが、元々の身分が低いので皇宮内ではほとんど無視されている。アントンは次期皇帝の可能性が全くないので、有力貴族も近づかないし気軽な身分だと本人が笑いながら言っていた。卑屈になって自嘲している訳でもない真っ直ぐな瞳のアントンが皇帝になってくれればいいのにと思うが、まあ無理だろう。


第一皇女オリガと第二皇女タチアナは側妃エカチェリーナの娘たちだが、高慢で着飾ることにしか興味がないようだ。二人ともアンドレに猛烈なアプローチをかけてくるが恐怖しか感じない。二人とも押しの強さがエレオノーラを彷彿とさせるので、できたら避けたい存在だが、外交官としては適当に喜ばせながら付き合うべきだろう。つくづく自分には向いていない仕事だと、大使の大任を引き受けてしまった過去の自分の甘さを叱責したくなる。


鬱鬱とした毎日を送っていると心配してくれたジョルジュが散歩でもしてきたらどうかと勧めてくれた。


公爵家からは忠実な執事のジョルジュがついて来てくれた。公爵家で長年、かなめとして働いていたジョルジュを付けてくれたリュシアンには感謝しかない。ジョルジュはアンドレの気持ちを繊細に察することができる。アンドレが何とか頑張れているのもジョルジュに依るところが大きい。


アンドレは帝都にあるフォンテーヌ王国の大使公邸で暮らしている。近くには緑豊かな広場があり、子供たちが遊ぶ楽しそうな声もかすかに聞こえてくる。


護衛の騎士たちは指折りの実力者が選抜された。優秀な影も五~六人ついているとリュシアンが言っていた。散歩に行く時も騎士と影はついてくるだろう。至れり尽くせりでやっぱり甘やかされているな、と自嘲したくなる。


しかし、ジョルジュが手配したのか散歩に護衛の騎士はついて来なかった。影はいるのかもしれないが全く気配を感じない。一人で気楽に散歩しているような気分になり、足取りも軽くなった。


広場で子供たちが賑やかに集まっている場所があった。ふと見るとその中心に若い男がいて、何か絵を描いているようだ。


『絵?!』と思った。アンドレも子供の頃から絵を描くのが好きだった。


子供たちに混じって絵を描いている人物に近づく。小柄で細身の若い男性のようだ。


腰ほどまである茶色の髪を緩く一つに束ねている。茶色い目の上のまつ毛は女性かと思うくらい長い。端整な顔立ちが冷たい印象を与えるが、子供たちに笑顔を見せる時は少年のような無邪気な表情になりドキっとした。


(なんだ『ドキっ』って?!僕にはそっちの趣味はないはずだぞ!)


その時、広場の向こう側で子供たちを呼ぶ声がした。


ちょうど絵も描き終わったのだろう。若い男はスケッチブックを破ると子供たちにその絵を渡した。子供たちは歓声を上げて走り去っていく。


子供たちが去った後、アンドレは思い切ってその人物に声を掛けてみた。


「あの、絵を描いていらしたんですね?絵師の方ですか?」


その青年はアンドレの方を向いて軽く頷くと絵具の片づけを始めた。このままだとすぐに帰ってしまうとアンドレは焦った。


「あの、良かったらお名前を教えて頂けますか?僕はアンドレ・シモンと申します。僕も絵が好きで趣味でよく描いているんです!」


その青年は無表情でカバンの中から小さな黒板を取り出した。チョークでそれに文字を書いていく。


『ぼくは話せません』


アンドレは慌てた。


「す、すみません。でも、良かったら筆談でもいいので、少しお話できませんか?」


アンドレは何故か必死だった。見知らぬ青年にこんなにお願いする理由も分からない。ただ、この人と友達になりたいと思った。


青年は黙ってアンドレを見つめていたが、頷いて噴水の縁に腰かけた。アンドレも遠慮がちに隣に座る。


『名前はエディです』


黒板に書いた文字をアンドレに見せる。


「エディか。良かったら君の絵を見せてくれないか?」


エディはしばらく考えていたが、スケッチブックをアンドレに押しつけた。


アンドレは「ありがとう!」と言ってスケッチブックを開き、大きな衝撃を受ける。


ある絵には様々な人間の表情や動きがしなやかに描かれていた。人間の豊かな表情が動き出しそうに見える。美しい滝から激しく水が落ちてゆく様子を描いたものもある。広大な海や雄大な山並みを描いたもの、躍動感に満ちた瑞々しい絵に溢れていた。


(なんて素晴らしい才能だろう!)


アンドレは夢中になってスケッチブックをめくっていった。


「君は素晴らしい才能を持った絵師だね!」


興奮して言うと彼は肩をすくめて黒板に何か書く。


『たいしたことないよ』


「そんなことない!」


アンドレは拳を握りしめて、いかに彼の絵が素晴らしいかを力説した。気がついたら立ち上がって熱弁を振るっていた。こんなことは初めてだ。


エディは呆気に取られてアンドレを見つめると、急に笑い出した。笑う時も声は出ない。


(惜しいな。これだけの美青年の声はきっと美しいだろうに)


『君は変わっているね』


「そうかな?自分では気がつかなかった」


『ほめてるんだよ』


「ありがとう」


アンドレは急に恥ずかしくなった。


「あの、良かったら友達になってくれないか?」


エディは少し戸惑った様子だったが、しばらく考えた後に小さく頷いた。


アンドレはガッツポーズを取りたい気分だった。

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