アベル
グレイス院長が孤児院の案内をしてくれる。かなり広い。使っていない部屋も多くある。昔は戦争孤児の数がそれだけ多かったんだろう。最近は保護される孤児の数も減ってきているそうだ。
リュシアンは気前よくこの施設を作ったに違いない。前世の保育園のような造りになっていてベビーベッドの数も多い。今は使用されていない部屋にベビーベッドがズラリと並んでいた。昔は赤ん坊の孤児も多かったのかもしれない。どんな大義があるにせよ戦争で犠牲になるのはいつも弱者だ。
この孤児院では読み書きや算術などの基礎教育から職業訓練までしっかり施されるらしい。孤児院を卒業後に、仕事が見つけやすいようにするためだとセリーヌが言っていた。授業風景を見せてもらうと、子供たちは生き生きと学んでいた。院長や司祭が主に教えているらしい。
小さい子たちが頑張って鉛筆で文字を習っている姿は微笑ましい。そういえばシモン公爵領は識字率が国内最高だと以前レオンが言っていた。
さっき少し気になった年上の女の子たちは授業に参加せず、別室で繕い物などをしているそうだ。院長にその女の子たちのことを聞いてみる。
「あの別室にいる女の子たちは授業に出ないのですか?」
院長は少し悲しそうに頬に手を当てながら答えた。
「ああ、あの子たちは必要な教育はもう終わったんです。本来ならこの孤児院からも出ていかないといけない年齢なんですけど、なかなか仕事が見つからなくて・・・。追い出すわけにもいかないですしね」
なるほど。
「何歳で卒業なんですか?」
「大体十五歳になったら仕事を探して出ていく子が多いです。男の子は力仕事ができるので仕事には困らないんですよ。農場とかいくらでも仕事があるし、体力に自信があれば領内の騎士団や消防団を目指す子もいます。弟子を取る左官屋や鍛冶屋もいますしね。女の子は教育を受けても貴族や裕福な商家の侍女くらいしか仕事がなくて・・。それも狭き門ですし。養女として引き取られた子もいましたけど、そういった道もない子が残っています。まさか夜の商売をさせる訳にもいきません。公爵に叱られます。実は今の悩みの種なんですよ・・・」
リオは脳内のパズルピースがはまったような気がした。
(閃いた!)
「あの、今そうやって仕事を探している女の子は何人くらいいますか?」
「六人ですね。皆真面目で気立ても良い子なんですよ。何人かお嬢さまのお屋敷で雇用して頂くことはできませんか?」
(六人!ちょうどいい人数かも)
「私にもっと良い考えがあります!聞いて頂けますか?」
リオが閃いた計画はこの孤児院の空いているスペースを使って有料の保育園を作ることだ。勿論今すぐではない。まずその六人の少女たちにベビーシッターの訓練を受けてもらう。彼女たちは小さな子供の面倒は慣れているだろうけど、もっと専門的な訓練が必要だ。
乳児の安全管理が一番重要なので、そこは勉強と訓練を積んでもらわないといけない。実地研修も必要だ。まず、どこかでベビーシッターとして働いてもらう。そこで経験を積んだら、いずれ保育園で保育士として働くことができるかもしれない。理論はリオやレオンが教えられる。
エミリーやアメリも家業を手伝いながら赤ちゃんの面倒を見ている。安心して赤ちゃんを預けられる場所があれば、助かるのではないだろうか?
やっぱり資格が必要だな、と考える。『看護師』に続いて『保育士』の資格もリュシアンに打診してみよう。女性が専門職として働ける場所を増やすことが女性のエンパワーメントにつながるって、前世で研修を受けた時に聞いたことがある。
ざっくりしたアイデアを院長に説明すると、院長も乗り気になった。
「ええ、残っている六人の子たちは、皆小さな子供の面倒を良くみてくれます。赤ちゃんの世話も慣れています。とてもいい考えだと思います。もしリュシアン様のお許しが出れば・・・」
リオは力強く頷いた。
「お父さまなら絶対に賛成して下さると思います!」
院長は嬉しそうに続ける。
「今は全く使っていない部屋が結構あるんです。乳児や幼児の世話もできる設備が揃っているのにもったいないと私はずっと思っていました」
院長と手を取り合って盛り上がっているとレオンがおずおずと進み出た。
「盛り上がっているところを申し訳ない。そろそろ健康診断を始めたいのだが・・?」
(あ、目的をすっかり忘れていた)
院長には改めて詳しい話をしたい旨を伝えて、慌てて健康診断の場所へ向かう。
男の子はレオンが、女の子はリオが担当することになった。
「えー、俺もリオ先生がいいなあ」と言った男の子はレオンからゲンコツを食らっている。
女の子たちは全員栄養状態が良く発育も正常だった。みんな健康だ。良かった。
少し遅れて男の子の健診を終えたレオンがリオのところに来て、個別に診て欲しい子がいるという。どうしたんだろう?
レオンは五歳くらいの黒髪の男の子を連れて人目につかない別室に入る。この子は最初から目立たないように隅っこにいてずっと俯いていたので、実はリオも気になっていた。
レオンは小声で「この子は今五歳だ。話ができないんだが、舌を診てやって欲しい」と囁くと部屋を出て行った。
その部屋には椅子が二つ置いてあるだけだったので、その子を椅子に座らせリオはその向かいに腰を掛ける。
男の子はとても緊張している様子で顔も上げられない。リオはできるだけ優しい声で話しかけた。
「あなたのお名前を教えてくれる?」
その子は俯いてポケットから小さなノートと鉛筆を出すと、そこに「アベル」と書く。
「アベル。私はリオというの。宜しくね」
アベルは初めてリオの顔を見上げた。
とても痩せていて目の下に大きなクマが出来ている。他の子供たちは健康状態が良好なのに、どうしてこの子だけこんなにやつれているんだろう。
「食欲はある?沢山食べられる?」
アベルは首を横に振った。
「夜は眠れる?」
また首を振る。
とりあえず、手を消毒して触診から始めよう。首から肩にひどい凝りがある。扁桃腺も腫れているようだ。
目も念入りにチェックする。
(瞳孔の動きは普通かな。でも、目の色が少し赤っぽい・・・?前髪が目の上にかかっていて気がつかなかった。うーん、赤とオレンジの中間というか。不思議な目の色だなぁ。セイレーンの血が混じっているとか?まさかね)
「口の中を見せてくれる?」
と聞くと、アベルはビクッとして口に手を当てて必死に首を振る。
(あ、なんとなくお父さまが私たちにここの健診を頼んだ理由が分かったかも)
「大丈夫よ。何も怖くないわ。私があなたの口の中を見ても、誰にも何も言わない。絶対に秘密にする。約束するから。お願い」
リオが懇願するとアベルはゆっくりと口から手を離して、小さく口を開けた。
リオは再度手に殺菌魔法を掛けて、そっとアベルの口の中に指を入れる。
予想通り、舌の下に強い緊縛を感じる。舌小帯短縮症、いやゼナントカ病だ。良くこの年まで生きていられたものだと思う。舌を使えないと咀嚼にも発話にも悪い影響がでる。呪いだと差別されることにも怯えていたのだろう。口をずっと閉じて話せないふりをして隠してきたに違いない。この子の気持ちを想像すると泣きそうになった。
「あのね、あなたはゼナントカ病という病気なの。この舌の下を切るとちゃんとお話も出来るようになるし、普通の舌になるわ。その処置を今してもいいかしら?二分もかからないで終わるわ」
アベルはびっくりしてまん丸な目でリオを見つめる。リオは優しく微笑んでアベルの手を握った。
アベルは弱々しく首を振る。諦めているようだ。
「絶対に大丈夫。約束する。私を信じて」
アベルは無表情のままだが、今度は軽く頷いた。リオは安堵してアベルに手順を説明する。
「これから私はあなたの舌の下の部分を切ります。少し痛いと思う。でも、切ったらすぐに治癒魔法を掛けて治していくので、痛みは続きません。処置は二分程度で終わりますが、その間、絶対に頭を動かさないで欲しいの。我慢できそう?」
アベルはコクリと頷く。リオはアベルの手を握って「あなたは勇気があるわね」と言った。アベルは赤くなって首を振る。
リオは手にもう一度殺菌魔法をかけて処置を始めた。アベルは我慢強い子でじっとして動かない。おかげで処置もスムーズですぐに終わった。
終わった後、アベルは口を開けて色々な舌の動きを試していた。今までと違い目や顔に驚きの表情が溢れている。
「あ、あの、ありがと・・」
(アベルが話した!?)
アベル自身も驚いたようだ。言語療法士がこの世界に居ればいいのに。完全に専門外だけど、小児外科に勤務していた頃は一緒に患者のリハビリをすることもあった。
確か言語療法士は舌のエクササイズを患者に教えていた。かつての記憶の底から引っ張り出してきたエクササイズをいくつかアベルに教えてあげる。
「少しずつこういう練習をしたら舌の筋肉が鍛えられるからね。そしたらもっと話しやすくなると思うわ」
アベルは目に涙を浮かべてリオに抱き着いてきた。この薄い胸で良ければいつでもお泣き、とアベルを抱きしめる。
「ずっと一人で抱えていて辛かったね」と声を掛けると益々泣き声が大きくなった。
ノックの音がして返事をするとレオンが顔を覗かせる。アベルを抱きしめているのを見て一瞬ムッとしたが、この子はまだ五歳児だ。さすがに我慢したらしい。
レオンが優しくアベルに声を掛ける。
「大丈夫かい?」
アベルは目を擦りながら頷く。レオンはアベルを抱きかかえて部屋から連れて行こうとする。
「どこに行くの?」
と慌てて声を掛けると
「院長に説明しなきゃいけないだろう」と返ってきた。
(確かに。でも私はアベルに誰にも言わないと約束したんだ)
「私はアベルの口の中のことを誰にも言わないと約束したの」
レオンは少し考えた後、アベルに話しかけた。
「君の口の中には特別な病気があって、リオ先生がそれを治したんだ。それを院長先生に言ってもいいかい?」
アベルはリオの方を見ながら恐る恐る頷いた。
「ゼナントカ病という病気なんだ。それを話してもいいかな?」
アベルは再度頷く。
「君はもう自分で話が出来るんだ。良かったな」
とレオンが笑いかけるとアベルが初めて笑顔を見せた。可愛すぎる。
院長も他の子供たちもアベルが話せるようになったと知って、驚きと同時にとても喜んでくれた。きっと彼は大丈夫だろう。
最後に子供たちに歯磨きならぬ指磨きの指導をした。リオはこの世界に来てからずっと、寝る前に指で歯を擦って洗っている。気休めかもしれないが歯磨きに慣れた日本人にとって何もせずに寝るのは耐えがたい。虫歯防止と口腔衛生の大切さを説明して健康診断はお終いだ。
院長と子供たちの笑顔に見送られて、リオたちは孤児院を後にした。