初めての患者
レオンはサンからパン屋の場所を聞き、急いで飛び出していった。
(何とか二人を説得して連れて来られればいいんだけど・・・)
不安で待合室の窓から外を見ていると、レオンと二人の大人の影が揺れて療法所の扉が開いた。
レオンが連れてきた二人がダニエルとエミリーだろう。エミリーは小さな赤ん坊を抱いている。泣いているようだが、か細くて声が聞こえない。かなり弱っているようだ。これは緊急事態だ。急がないと。
エミリーは目の下に濃いクマが出来ていて明らかにやつれていた。無理もない。可哀想に。
リオがエミリーに近づくと赤ちゃんを庇って背中を向けた。
(赤ちゃんと守ろうとしているんだ。いいお母さんじゃないか)
リオはそれ以上近づかないよう気をつけて穏やかに話しかける。
「私はリオ。国家療法士です。あなたの赤ちゃんの事を聞きました。あなたはエミリーさんね。私はあなたの赤ちゃんを治すことが出来ます。だから治療させてくれませんか?」
エミリーはぎょっとしたようにリオを振り返るが、憤怒で顔が真っ赤になった。
「・・・は?何言ってんの?!この子は呪われてるんだよ!死ぬしかないんだよ!あんたみたいなお嬢さんが何とかできるなんて偉そうなことを言うな!ふざけんなっ!」
レオンが何か言おうとするのを目で止める。
「あなたは良いお母さんね。この子はおっぱいを飲めなかったでしょう。無理もないわ。この子もあなたも誰も悪くないの。ただ運の悪い病気だったのよ」
「び・・びょ、病気・・?」
「赤ちゃんはおっぱいを飲みたくても飲めないの。だから、ついあなたの乳首を噛んだりしちゃったのね。乳首とても痛いでしょう?痛いのに頑張ってお乳をあげ続けたのよね。痛いのをずっと我慢していたのよね。だからこの子はまだ生きているの。あなたが頑張ったから生きていられたのよ。あなたは本当に良いお母さんだわ」
前世からの知識でリオは彼女の乳首が傷ついている確信があった。
エミリーの丸く見開いた目から、ドバ――ッという擬音語がピッタリな感じで涙が溢れ出た。ポロポロ次から次へと涙がこぼれる。赤ちゃんをしっかりと抱いているので、涙を拭く手もない。涙は溢れるままだ。
「あ、あたしのせいで・・・この子が悪魔で・・呪われてて・・・死ぬって・・」
「大丈夫。死なないわ。私が絶対に助けてあげる。だから私を信じて治療させてもらえないかしら?」
エミリーの目を真っ直ぐ見つめる。エミリーもびしょ濡れの瞳で真っ直ぐリオを見返した。
(決して目をそらしちゃいけない。お願い、どうか、私を信じて!)
リオは瞳で訴えた。するとエミリーがゆっくり頷いたのでリオはほっと息を吐く。
「良かった。じゃあ、私の診療室に来てください」
リオの後にエミリーと赤ん坊が続く。リオとエミリーが話している間、男性陣は氷のように固まって全く動かなかった。が、リオたちが動きだすとダニエルが焦ったようにエミリーに手を伸ばした。お父さんも心配だよね。
「ダニエルさんよね?お父さんも良かったら一緒に入ってください」
ダニエルは安心したように頷くとエミリーの肩を抱いた。二人で不安そうに見つめあう。
レオンもようやく動き出して、躊躇うようにリオの肩に手を置いた。
「あの、もし良かったら私も見学させてくれないか?」
「エミリーさん?ダニエルさん?レオン先生も国家療法士です。一緒に居ても良いかしら?」
二人は戸惑いながらも頷いてくれた。
診察室に入って、エミリーに椅子に座ってもらう。向かい合う椅子にリオが座ると、赤ちゃんのお腹をこちらに向けるように抱いて欲しいとお願いした。
魔法で手を殺菌消毒する。ふわっと両手の周りが光に包まれた。手袋しないで患者に触るって初めてかも、と思いながらも、赤ちゃんの口に手を触れる。もう泣く気力もないらしい。
口を開けて舌を触ると予想していた通りの感触だった。
エミリーとダニエルの顔を見ながら言う。
「この子は舌小帯短縮症です。舌癒着とも言われます」
エミリーとダニエルだけでなくレオンまでが首を傾げて「ぜ・・・・・・?」と言った。
「舌の下には舌小帯という紐みたいなものが付いているんです。それが異常に短くて舌が動かせなくなってしまうことを言います。舌先の中心が口腔底に縛り付けられている状態なので、舌を出した時に割れているように見えるんです。赤ちゃんは舌を使って母乳を吸うので、舌が使えないとおっぱいが飲めません。」
「それで栄養が足りなくて体重が減ったのか?!」
レオンが感心したように言う。
リオは頷きながら続けた。
「そうです。舌小帯を切除して、舌を自由にしてあげなくてはいけません。そうすればおっぱいも飲めるようになります」
前世ではハサミでチョッキンと切る先生もいたけど大昔の話だ。ここ十年くらいはずっとレーザーを使っていた。一番良かったのはウォーターレーザーだ。直接患部に触れないし、殺菌効果もあるので感染リスクを低く抑えられる。
自分も魔法はかなり訓練した。感覚的にウォーターレーザーを再現できると思う。
エミリーが少し怯えながら「・・舌を切るってこと・・・?」と聞くので、私は安心させるように微笑む。
「大丈夫。二分もかからないわ。舌の下にある癒着している部分を切るだけだから」
「で、でも・・切るって・・・痛いんじゃ・・」
前世では局所麻酔を使っていたが、ここにはそんなものはない・・。でも、痛みはそれほど強くなかったはず。麻酔なしで処置するドクターもいた。切るそばから治癒魔法を掛けていくので、ごめん、我慢して。
「このままだとこの子はお腹が空いて死んでしまうわ。すぐに治癒魔法をかけるし、二分もかからないと約束する。だから私を信じてもらえないかしら?」
しばらく躊躇していたが、ぐったりしている赤ちゃんを見て、エミリーは覚悟を決めたらしい。力強く頷いた。ダニエルの方がオロオロしている。
「じゃあ、頭の中で100まで数えててもらえる?数えている間は赤ちゃんが暴れてもしっかり抱いて絶対に離さないでね。特に頭を押さえていて欲しいの」
エミリーは決然と頷いて赤ちゃんを抱き直すと、片手で頭を押さえた。
リオは左手で赤ちゃんの舌を支えながら、右手でレーザーのような魔法を繰り出す。舌の本体を傷つけないように、少しずつ舌の下の組織を削っていく。血管は当然、唾液腺にも触れないようにしないといけない。神経もある。慎重に切ると同時に治癒魔法で傷を治していく。それでも赤ちゃんは泣きだしたが、エミリーがしっかりと抱いている。偉いぞ。
結果、エミリーが100も数える必要はなかった。
終わった時は汗びっしょりだった。やっぱり緊張していたんだな。
エミリーもほっとした様子で赤ちゃんをあやしている。と、エミリーが何かに気がついて叫んだ。
「ダニエル!見て。この子の舌!」
赤ちゃんの舌は割れておらず、完全に普通の舌になっていた。まだ涙に濡れた目で「あ、あ」と言いながら何かを訴えている。
ダニエルが興奮して何か叫びながらエミリーと赤ん坊を抱きしめるが、リオは冷静に言った。
「レオン様、ダニエル様、男性は遠慮して頂けますか?今からおっぱいの時間です。おなかが空いているんですよ」
男性陣が少し気まずそうに部屋から出ていくと、エミリーは早速服をたくし上げておっぱいをあげていた。その乳首が傷だらけになっている。後で軟膏をあげよう。
赤ちゃんは猛烈な勢いでおっぱいにむしゃぶりついている。ゴクゴク飲む音が聞こえるくらいだ。エミリーが感極まったように泣き出した。
「こ・・こんなに飲んだの初めて・・・。いつも噛むだけで・・い、痛くないし・・」
「正しくおっぱいが吸えれば、乳首は痛くないんだって昔教えてもらったわ」
前世で仲が良かった助産師さんから教えてもらった。世話焼きで赤ちゃんのことを沢山教えてもらったなぁ。懐かしい。どうしているだろうか?
十分くらいで片方のおっぱいが空になり、もう一つにまたむしゃぶりつく。よっぽどお腹が空いていたんだろうな・・。
エミリーはポツポツと、赤ちゃんが生まれて嬉しかったのに舌を見てショックを受けたこと、呪われて死ぬ子だって言われて、どうしたら助かるんだろうって毎日泣いていたこと、赤ちゃんもいつも泣いてばかりで、夜中も全然眠れなかったこと、日に日に赤ちゃんが弱って痩せていったこと、こんな風に生んでしまってごめんと毎日謝ったこと、とにかく辛くていっそ死んでしまいたいと思ったことを話してくれた。
リオは一つ一つに頷きながら、黙って話を聞いていた。
「あの・・・先生、さっきは失礼なことを言って、ごめんなさい」
エミリーが深く頭を下げる。
「いいのよ。私は子供みたいな見た目だからね」
「・・・先生は・・・おいくつなんですか・・?」
「え・・いえ・・・あの・・年齢は秘密というか・・・ごめん。聞かないで」
リオは焦った。年齢は正直に言って良かったんだっけ?後で先生にここでの身分の設定を確認しないと。秘密が多いって困る・・。
「失礼な質問をしてしまってすみません。年齢なんて関係ないです。先生が素晴らしいお医者様だってことは良く分かります。変な噂をしている奴らは何にも知らないんだ。先生が素晴らしいお医者さんで治癒士だってこと、みんなに言います!」
「あ、ありがとう。私は女性と子供の患者を専門に診る予定なの。もし、具合が悪い人がいたらいつでも来るように伝えてくれると嬉しいわ」
エミリーは力強く頷いた。赤ちゃんはお腹が一杯になって満足したのだろう。もうウトウト眠りかけている。幸せそうだなぁ。
リオは許可を取って赤ちゃんを抱き上げる。縦に抱き上げて赤ちゃんの頭を肩の上に乗せるようにしてポンポンと優しく背中を叩いてあげると、ゲボッと見事なげっぷが出た。エミリーと顔を見合わせてふふふと笑う。
「先生は赤ちゃんの扱いが上手ですね。あたしは初めての子供でどうしていいか分からなくて・・」
「そんなことないのよ。でも、赤ちゃんの面倒は見たことあるわ」
姪っ子と甥っ子を思い出しながら言う。
「赤ちゃんの名前は何と言うの?」
「ソフィーです」
「素敵な名前ね」
ソフィーをエミリーの腕に返すとソフィーは少し身じろぎしたが、またスヤスヤと眠り始めた。幸せを噛みしめるようにソフィーを見つめるエミリー。
薬棚から薬草から作った保湿クリームの小瓶を出すとエミリーに渡す。
「今夜は一晩中起きないと思うわ。ゆっくり休みなさい。これまでずっと頑張ってきたんだから。乳首は保湿が大切なの。擦ったり乱暴なことはしないで、優しく清潔な布できれいにしたらこのクリームを塗ってね。赤ちゃんが口にしても害がないものだけど、おっぱいをあげる前には拭き取ってね」
エミリーはまた感極まって泣き出した。
「せ、せんせ・・あ、ありがとうございます。こんなに優しくしてもらったこと・・あたし・・初めてで・・」
「いいのよ。大丈夫?立てる?」
待合室に戻るとダニエルとレオンが熱心に何かを話し込んでいた。ダニエルが弾けるように立ち上がる。
「エミリー!」
「ダニエル、見て。この子、こんなに幸せそうに・・・」
「眠ってる・・こんなに穏やかな顔で・・天使だ・・」
ダニエルの目からもダーっと涙が溢れた。レオンが三人を出口に案内する。
「じゃあ、気をつけて。ダニエルがいるから帰りは大丈夫だな?」
「はい、先生。本当にありがとうございました。先生方は俺たちの恩人です。何かあったらいつでも俺に声を掛けて下さい!」
ダニエルはすっかりレオンに心酔している様子だ。待合室で何を話してたんだろう?
「ソフィーのことは全部リオ先生がやってくれたことだからね。私は何もしていないよ」
「リオ先生、先生はソフィーの命の恩人です!本当に本当にありがとうございました」
エミリーもソフィーを抱いたまま深く頭を下げた。
「いいのよ。少しでも役に立てたら嬉しいわ」
エミリーとダニエルは何度も振り返りながら帰って行った。
扉を閉めて、ほっと一息つくと後ろからレオンに抱きしめられる。
「私の妻はなんて賢くて素晴らしい医師なんだろう・・・」
リオの肩に顔を埋めて熱い息を吐く。首筋がくすぐったい。
「いえ、たまたま前世で良く知っている症状だったので・・」
「私は初めて聞いたよ。君はどれだけの知識をその頭の中に隠しているんだろうね」
「正直言うとそんなに知識があるわけではないんです。舌小帯短縮症はどちらかというと小児科とか歯科の分野なので・・。私は救急医になる前は小児外科にいたので舌癒着切除の経験はありましたが・・・」
レオンは私の体の向きをクルリと変え、思いっきり抱きしめた。く、苦しい・・
「君のそういうところがたまらない。このまま寝室に行こう」とレオンが不穏なことを言いだすと、後ろでゴホンという咳払いが聞こえた。
慌てて振り向くとアニーがレオンの方を睨みながら、
「これから夕食を召し上がるんですよね?」
ときっぱり言い放った。