ハンス
ようやく全ての準備が整い、リオとレオンは一週間後にシモン公爵領にある診療所へ出発することになった。
リオは最近セリーヌを『お母さま』、リュシアンを『お父さま』と呼べるようになった。最初は緊張してぎこちなかったが、二人はとても喜んでくれた。コミュ障のリオも次第に打ち解けて話せるようになり、シモン公爵領に行ったら現在のようには会えなくなってしまうな、と寂しく感じてしまう。
出発の準備で忙しい中、レオンが
「どうしても出発前に会いたい人がいるんだ。君にも会ってほしい。君も知っている人だから」
と言い出した。
「誰?」と聞いても教えてくれない。驚かせたいらしい。でも、この世界にリオの知り合いはほとんどいない。
(ホント誰?)
約束の時間が近づき、誰が来るのか分からない緊張感でソワソワしていると、レオンは安心させるようにリオを抱きしめる。
コンコンと扉を叩く音がした。
(来た!!!)
リオは慌ててレオンの腕から抜け出し、扉を開けようとした。だが、レオンはリオをソファに座らせ、素早く自分で扉を開ける。
部屋に入って来たのは・・・・?
ブーニン侯爵家の厩番だったハンスだ。
「失礼いたします」
ハンスは礼儀正しく頭を下げた。とても緊張しているようだ。顔を上げて目の前に立っているレオンを見て、驚きのあまり棒立ちになった。口がポカンと空いている。
「え・・まさかアレックス先生ですか?!な、なななな何があったんですか?!し、死んだって聞いたんですが・・・・!?」
レオンは苦笑しながら戸惑うハンスをソファに案内した。
ハンスはリオを見て嬉しそうに笑った。
「フィオナ様・・ですよね?ご無事だったんですね。良かった!ますます美しくおなりだ」
リオも立ち上がって挨拶をする。茶色い鬘に茶色い目だけど分かってくれたらしい。
しかし、レオンに促されると落ち着かない様子でソファに座るハンス。手に持っているハンチング帽をもみくちゃにしている。
アニーがお茶の支度をして、ティーワゴンを押して部屋を出ていくのを見届けてから、レオンは話を始めた。
「ハンスには心から感謝している。君が馬の飼料用の藁束を壁に沿って積んでおいてくれたおかげで、フィオナは無事に逃げ出せたんだ」
そう言うとレオンは立ち上がって、深々と頭を下げた。
(確かにそうだ。あの時、壁に藁束がなかったら私は絶対に逃げ出せなかった。感謝してもしきれない)
「ハンス、あなたのおかげで私は助かりました。本当にありがとう」
リオも一緒に立ち上がって頭を下げる。
ハンスは両手をブンブン振りながら、慌てて立ち上がった。
「と・・とん、とんでもない!先生とフィオナ様に頭を下げさせるなんて・・そんな・・どうか頭を上げて下さい。ど、どうか座って下さい・・後生なんで・・・」
ハンスの動揺が申し訳なくて、リオはレオンと顔を見合わせるとソファに戻った。
ハンスは顔が真っ赤だ。汗をかいたのか、額を帽子でこすりながら、どすんとソファに腰を落とす。
「あ、すみません。不作法で・・」
「いや、気にしないで欲しい。ハンスのことはずっと心配していたんだ。侯爵から酷い目に遭わされただろう」
レオンが痛ましそうにハンスの首元に目を向ける。よく見ると首から肩にかけて傷痕がある。
(私のせいだ・・・)
途端に暗澹たる気持ちになる。
(ごめんなさい。謝って済む問題じゃないけど・・)
リオの表情を読んでハンスが慌てて言う。
「フィオナ様、どうかお気になさらないで下さい。俺はいつか先生に恩返しをしたいとずっと思っていたんで、ちょうど良かったんですよ」
「恩返し・・・?私は君に何かしたかな・・?」
ポカンとした表情でレオンが聞き返す。
頭を掻くハンス。何て説明しようか悩んでいるようだ。
「あの、俺の弟が先生の診療所でお世話になって・・。弟だけでなくて、義妹も甥っ子も姪っ子もみんな、先生に怪我やら病気やら治してもらったんです」
「診療所で・・・?君の弟はブーニン領に住んでいるんだね?」
「はい、特に弟は一度ひどい事故にあって死にかけたんです。弟から先生がいなかったら間違いなく死んでいたって・・・後から聞きました。先生は貧乏人だろうが誰だろうが、いつも笑顔でお金も取らずに診療してくれるって、弟が言ってました。先生に救われた人たちが沢山いるって・・それで・・」
レオンは何と言っていいか分からないようで、黙って自分の首の後ろを擦っている。
ハンスは続ける。
「それで、いつか先生に恩返ししたいと思ってたんです。そりゃ俺なんかが出来ることなんてないだろうって思っていたけど・・・だから先生から藁束のことを頼まれた時は、やっと役に立てるって嬉しくて・・!」
「あ、ありがとう。そんな風に思ってくれていたなんて知らなかったよ。もっと早く言ってくれたら良かったのに・・」
レオンの耳が赤い。照れてるんだ。
「フィオナ様と厩舎にいらっしゃるときは護衛の怖い人たちとか一緒で、世間話できる雰囲気じゃなかったですよね。先生はいつも怖い顔してたし。むっつり不機嫌そうでしたよ」
ハンスは笑う。レオンもクスクス笑いだした。
「そうだな・・いつも緊張していたからな」
「弟から先生は患者にはとても優しいけど、それ以外の人は近づけないって聞いてました。先生はたった一人で診療所を切り盛りしていて、忙しいのに薬を煎じるのも自分でやってたって。先生を狙ってる女の人が沢山いて、手伝うふりをして近づこうとするんだけど、先生はニコリともせずに追い払ってたそうですね。ふ、ふふ。弟は、先生が女嫌いだと思ってますよ。弟は忙しすぎる先生を見かねて、たまに掃除とか薬草集めとか手伝ってたそうです」
レオンは合点がいったというように手を打った。
「・・・ヨハン?!君はヨハンの?」
「兄です。そうです。覚えていて下さったんですね」
「当り前じゃないか。ヨハンとは長い付き合いだ。ヨハンと家族は息災かい?」
レオンは嬉しそうに尋ねる。
「はい。おかげさまで」
「今、診療所がどうなっているのか知っているかい?国王陛下には後任の医師の手配をお願いしたんだが・・・」
「新侯爵のマキシム様が、治癒士と薬師を何人か連れてきて下さったそうですよ。大丈夫、まだ診療所はちゃんとあります。マキシム様はこれからも支援して下さるって。でも、先生はもう戻られないんですか・・・?」
リオとレオンの目が合う。
「私はもう死んだことになっているんだよ。見て分かるだろう。この姿だからね。この姿で診療所に戻る訳にはいかない」
「そ、そうですよ。どうやって・・先生はそんな風に若くなって・・・?」
レオンは簡潔に事情を説明する。ハンスは目をまん丸にしながら聞いていた。あまりに大きく目を見開くから眼球がこぼれ落ちそうだ。心なしか顔色も悪くなった。
ハンスは大きくため息をついてリオの方を向いた。
「フィオナ様が無事で本当に良かった。セイレーンなんて御伽噺だと思ってました。銀髪と赤い目が特徴なんて庶民は知りませんし・・」
ちょっと涙ぐんでいるようだ。
「フィオナ様がいつも鎖につながれていたので、何か事情があるんだろうとは思っていました。でも、侯爵様に逆らったら何をされるか分からないし・・。何も出来ずにすみません!」
リオは手を伸ばして、ハンスの手を取る。
「ハンスが助けてくれなかったら、私は逃げられなかったの。ハンスは私の恩人だわ。本当にありがとう」
レオンがさりげなくリオの手をハンスから離し、代わりにハンスの手を握りしめる。ハンスと強く握手しながらレオンは再度礼を言った。
ハンスは気にしていないようだが、リオはまだ申し訳ない気持ちで一杯だ。
「ハンスは侯爵から酷い罰を受けたのでしょう。私のせいです。本当にごめんなさい」
すると何故かハンスは困ったような、照れているような表情をした。
「いや、あの・・悪かったことばかりじゃなくて・・。えっと、鞭で打たれたりしたんですけど・・・本邸で怪我の手当てをしてくれた侍女がすごい親切で・・・その・・今度結婚することになってて・・・」
真っ赤な顔で俯くハンス。
(あれれれれ?ダメだ。どうしてもニヤニヤしてしまう)
レオンとリオは心からの笑顔を浮かべた。
「そりゃ、良かった・・と言っていいんだよな?おめでとう、ハンス!」
「おめでとうございます!どうかお幸せにね」
ハンスはもう照れまくっている。
「いや、もう・・瓢箪から駒というか、怪我の功名というか・・でも、一つ言えるのは、俺はフィオナ様と先生を助けられて、本当に良かったってことです。お幸せそうで俺もすごく嬉しいです。お二人もご結婚されるんですよね?」
(ううむ、また、微妙な時期に微妙な話題だ・・・)
リオが何と返事していいか分からず迷っている間にレオンは平然と会話を続けている。こういうところが大人の余裕なのだ。リオは変わらずコミュ障な自分に落ち込んだ。
「あまり大きな式はあげられないけどね。今二人で話し合っているところなんだ。でも、私はもう死んだことになるし、名前も身元も全部変わるからね。どこに住むのかもまだ決めていないんだよ」
「そうなんですね。そっか・・・じゃあ、もうお会いできないですね」
寂しそうにハンスは呟く。ハンスは聡い。レオンが意味するところをすぐに汲んだようだ。
「すまない。私は死んだ。マキシムも・・誰も私が生きていることを知らない。だから君も・・」
「はい、決して誰にも言いません。ヨハンにも言いません・・あ・・」
ハンスはちょっと言いよどんだが、思い切ったように顔を上げた。
「ただ・・あの妻になるアリスにだけは隠し事をしたくないんで言ってもいいですか・・?彼女は口が堅くて絶対に信用できます!」
レオンは笑顔で頷いた。
「分かった。確かに夫婦間の隠し事は良くない。ただ、アリスにも固く口留めを頼むよ」
「絶対に大丈夫です。ありがとうございます!」
そんな二人を見ていて、リオの中の罪悪感が強くなった。
(私はずっとレオン様に秘密にしていることがある・・・)
考えに気を取られているうちに挨拶が終わっていたようだ。ハンスがリオの前で頭を下げている。リオも慌てて立ち上がった。
「フィオナ様、どうかお元気で。お会いできてとても嬉しかったです!」
「こちらこそ嬉しかったわ。本当にありがとう。どうかアリスさんと、メイスにも宜しくね」
メイスは賢い馬だった。もう会えないと思うと寂しい。
「はい。メイスも元気です。どうか先生とお二人でお幸せに!」
「それはこちらの台詞だわ。お幸せにね」
名残惜しい雰囲気の中、ハンスが出て行った。
扉が閉まるとリオは息をついてソファに倒れ込む。
「大丈夫かい?」
レオンが心配そうにリオの背中を撫でてくれる。知らぬまにレオンの腕の中にいて抱きしめられていた。さらに気がつくとレオンの膝の上に座っている。
「何かあった?」
レオンはリオの頬を撫でながら尋ねる。
「いえ・・あの・・思いがけないことが沢山あってちょっと疲れたというか・・」
「じゃあ、もう休もう。寝室に連れて行ってあげるよ」
(いや、それは色々な意味で休めない気がする!)
「だ、大丈夫です。あの、レオン様、さっき『夫婦間で隠し事は良くない』って仰っていましたよね。もし、その・・私が隠し事をしていたらどう思いますか?」
レオンの目が鋭くなる。腰を抱いていた腕に力が入り、そのままソファに押し倒された。顔が近いっ。
「それはどういうことかな?実はアンドレが好きだったとか?他に好きな人ができたとか?私を愛しているというのは嘘だったとか?実は女性しか愛せないとか?」
笑顔が全然笑っていない。穏やかな口調だけに質問の不穏さが際立った。
「そんなことあり得ません!私が愛しているのはレオン様だけです。それは変わりませんよ。でも、私はレオン様に愛される資格がないかもしれない・・・」
レオンはリオを抱いたまま身を起こして、再びリオを膝の上に座らせる。
「私は何があっても君を愛する自信がある。そんなに私が信用できない?リオ?」
悲しそうな表情を見てリオは真実を告げるべきだと悟った。後になればなるほど辛い。
「私は三歳の時、この体で目覚めた時から、平石理央としての意識しかありませんでした。三歳まで存在していたはずのフィオナちゃんの意識が全くなかったんです・・私の意識が入ったせいでフィオナちゃんの意識が消えてしまったのかもしれません・・・」
ずっと他人の体を盗んでいるような罪悪感があること。シモン公爵家の皆に親切にしてもらったけど、それはフィオナがセイレーンだからであって、セイレーンでも何でもない『平石理央』がその好意を受け取るのは『ずる』であると感じてきたこと。フィオナの意識がこの体に戻るのであれば、この体を返すつもりでいること。
感情がぐちゃぐちゃで自分でも何を言っているのか分からない。でも、レオンはいつものように黙って聞いてくれた。
話し終わった時、レオンはリオの頭を撫でながら優しく口づけをした。
「リオ、君は誠実で真っ直ぐで、とても・・不器用な子だね。そこも可愛いが」
リオは顔を伏せる。そんな良いように言ってもらえる資格はない。
「リオ、君は何も悪いことをしていない。前世で亡くなったのも君の責任ではない事故だろう?」
「でも、フィオナちゃんが・・」
「君は三歳の時からずっとフィオナとして生きてきた。周囲の人間は、中身がリオである君を好きになった。私が、皆が、君を愛しているのはリオだからなんだよ。それに君がフィオナの意識を追い出した訳じゃない。元から意識がなかった可能性だってある」
「元々意識がなかった・・・?そんなことあるんですか?」
確か「意識」というものは前世の医学や脳科学をもってしても不明な点が多く、「心」や「意識」は永遠の謎と言われていた、はず。
それでも、ニューロン(神経細胞)の活動を電気化学反応として捉えて、ある程度の研究はされていた気がするよ。
意識や心がない人間なんていないよね?
この世界では違うのだろうか?
「うーん、以前セイレーンについて調べていた時に文献で読んだことがあるんだ。セイレーンのことならセリーヌが一番詳しいんだが・・」
レオンは考え込んでいる。
「リオの前世のことをまだセリーヌたちに話していないんだよね?」
リオは小さくなって頷く。嫌われるのが怖いとか子供みたいだ。レオンは苦笑しながらリオの頬を手のひらで包むようにして口づけした。
「私しか知らない秘密なんだね。嬉しいよ」
甘やかすようなキスは以前と変わらない。秘密を告白した後も変わらないレオンの愛情にリオは安堵した。
「取りあえずセリーヌには言わないでおこう。王宮の書庫に行ってもう一度調べてみる。何か分かったら、またこのことについて話そう。誰にも君のことは言わない。だから安心して」
レオンが優しく微笑む。ついばむような口づけを何度も繰り返した後、リオの首筋に唇を当てた。強く吸われてびっくりする。更に噛む。ひえっ!
「れ・・レオンさま。いきなり何を?!痕がついちゃったかも・・・」
「罰だよ。君はフィオナの意識が戻ってきたら体を返すって言ったね。そうしたら、私の愛するリオの意識はどうなるんだい?リオがいなくなったら私はもう生きていけないからね。絶対に死ぬから。そりゃもう自信を持って言える。君がいないと私は絶対に死ぬ。君は私を殺すつもりかい?」
「でも、フィオナちゃんの意識が戻れば体は問題なく維持できるし・・」
レオンは顔をしかめて、もう一度強く首筋を噛んだ。痛い・・。
「私はリオという人間を愛しているんだ。リオがいないフィオナの体に興味はない。君は自分がどれだけ私にとって大切なのか本当に理解しているのかい?私は君以外の人間はもう愛せないし、君がいない世界では生きていけない。だから、リオには私と一緒に生きることを常に選んで欲しい。仮にフィオナの意識がどこかに存在したとして、彼女を助けるためだったとしても自分の意識を犠牲にしないで欲しい。絶対に私と一緒に生きる道を選択すると約束して欲しい。それを約束できるなら、私は協力しよう」
レオンは真剣にリオの顔を覗き込む。その瞳が必死で、切実で、とても不安そうだ。リオはレオンの気持ちを考えなかったことを心から反省した。
「私も先生と一緒に生きていきたいです」
(今、私が言えること。これが精一杯だ)
レオンはまだ不安そうに微笑みながらリオを抱きしめて額に口づけた。