頑固者
その後、フィオナの部屋にリュシアンが迎えにきた。
セリーヌはフィオナを抱きしめると「頑張って」と囁いて出て行った。リュシアンが心配そうに「大丈夫か?」と尋ねる。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか、後で俺がアレックスを連れて来る。心の準備だけしておいて欲しい」
フィオナはドキドキする胸をおさえて頷いた。
部屋で一人になると座っていても立っていても落ち着かない。意味もなくウロウロと部屋中を歩き回った。もうすぐ先生と会えると思うと、嬉しいような不安なような胸が締めつけられるような不思議な気持ちになる。でも、嫌な気持ちではない。
しばらくすると足音がして誰かが扉をノックした。
扉を開けるとリュシアンと、目隠しをされて首輪と鎖でつながれた犬の散歩状態の先生が立っていた。先生が慌てて逃げ出そうとする。
「リュシアン!今日は尋問するという話だったろう!?なんかいい匂いがする?!騙したな!」
リュシアンが鎖を引くと、先生はぐえっと言いながら引きずられるように部屋に入った。目隠しで顔は隠れているが、不精髭がひどい。汚い。臭い。服もボロボロで黒ずんでいる。地下牢から直接連れて来られたんだろうなぁ・・・と先ほどのドキドキ浮ついた感覚から急に冷静になった。
先生はまだギャーギャー騒いでいるが、リュシアンは完全に無視してフィオナに鍵を手渡した。
「これは首輪の鍵だ。必要だったら外していい。それから、この部屋は外から鍵をかけるけど大丈夫か?今のところアレックスは被疑者だからな」
フィオナは頷いた。なんか色々覚悟ができた。
リュシアンは先生の方に向き直って冷酷に言い放つ。
「お前臭いぞ」
そして、そのまま部屋を出て行った。
リュシアンの言葉に先生は完全に固まった。彫像になったような先生に近づき話しかける。
「先生?」
ビクッとした先生が慌てて逃げようとする。
「先生。目隠しを取ってもいいですか?」
「フィオナ、私に近づくな。臭いし、汚い・・・」
先生はもう泣きそうだ。逃げ出そうとするので鎖をつかむ。そして無理やり目隠しを外した。先生は眩しそうに瞬きをした後、目の前にいるフィオナと視線が合った。先生は釘付けになったようにフィオナを見つめる。
しかし、ハッと我に返ると真っ赤になって顔を背けた。
「こ、こんな姿を君に見せたくなかった・・。もう嫌いになったろう。も、元々好かれる要素もないが・・・」
(嫌いになんてなるはずない!)
そう思ったけど口には出さなかった。
「先生、私は先生とちゃんと話がしたいです」
「君と話すことはない。君と会うべきではないんだ。私は君にとって障害にしかならない。今すぐ出ていく。もう二度と会うことはない」
「先生、まず体を洗ってきてもらえますか?」
先生の言葉を無視して主張した。いつもなら『失礼かな?』と心配になるところだ。でも今夜は言いたいことを全部言う。要求を全部言う。それで嫌われて、もう会いたくないと言われたら仕方ない。結果は今と同じじゃないか?
先生は目に見えてうろたえた。でも、匂う自覚はあるらしい。慌てて浴室に走る先生の鎖からカシャンカシャンと音がする。浴室にはタオルだけでなく石鹸や着替えも揃っていたはず。セリーヌのことだ。抜かりはあるまい。
浴室の大きな水音を聞きながら、フィオナは焼き菓子や軽食を並べてお茶の支度をした。先生とお茶なんていつ以来だろう。さっき、久しぶりに会った先生の惨状を見ても全然嫌だとは思わなかった。汚くても臭くても先生は先生だ。会えて嬉しい気持ちしか感じなかった。
浴室のドアが開いて先生が出てくる。相変わらず鎖を引きずっているが、髭も剃ってこぎれいになっている。白いシャツとグレーのパンツというシンプルな組み合わせだが、美男は何を着ても似合う。ただ、初めて会った頃は黒かった髪が今は真っ白だ。
『やっと先生に会えた』と思ったら、目が自然にうるんでくる。先生が所在無げに立っていたのでテーブルに案内すると、気まずそうに椅子に腰を下ろした。
しかし、絶対に私の方を見ない。頑なに下を向いている。だが、気にせずお茶を淹れて差し出した。良い香りがするお茶だ。でも、先生は手を出そうとしない。
先生はフィオナの方を一切見ずに早口でまくし立てた。
「君はますます綺麗になった。君は聡明で美しく優しい。純粋に君を愛する若者は沢山いるに違いない。昨日アンドレに面会したが、アンドレは君と結婚したいと言っていた。彼は良い男だ。君を幸せにしてくれるだろう。私は君の人生にもう必要ない人間だ。こんな年寄りの役立たずを気にかける必要はない」
「私は先生に会いたかったです。私には先生が必要です。先生に会えなくなるなんて嫌です」
先生がものすごい勢いで顔を上げるとフィオナと目が合う。再び赤面した先生は俯いて顔を背けた。
「私は君に会う資格がない」
「私が監禁されていたことを通報しなかったからですか?」
「それだけじゃない・・私は君との約束を破った・・君の信頼を裏切ったんだ」
「約束・・・・?」
「私は君との約束を破って硫化水素を発生させた。それでブーニン侯爵を殺そうとしたんだ。絶対に作らないと約束したのに・・・すまないっ!」
先生は顔をくしゃくしゃにして叫んだ。泣き出しそうな顔だった。
「君から教わった作り方と電気分解の原理を使って・・・。道具は足りないものが多かったが、魔法でカバーしながら次亜塩素酸ナトリウムを作った。それに酢を混ぜて硫化水素を発生させたんだ。ミハイルから君を解放したくて・・・。でも、絶対に作らないと君に約束したのに・・・申し訳ないっ」
先生が立ち上がって深く頭を下げ、鎖がシャランと鳴る。あまりに思いがけないことを言われて、頭が真っ白になった。
(そういえば、そんな約束だったっけ・・・?でも、そうか、硫化水素。毒ガスが存在しないこの世界では、いくら猜疑心の強い侯爵でも用心しようがなかったろう。色々と納得だ)
フィオナが忘れてしまったような約束を律儀に覚えていて、それを破ったことを気に病んでいる先生にどうしようもない愛しさが湧いてくる。
自分はどうしようもなく先生が好きなんだと実感する。今まで確信が持てなかった感情のピースがカチリと音を立ててはまった気がした。アンドレのことを好きな感情とは明らかに違う。
先生を守ってあげたい。ずっと一緒にいたい。一緒に色んな事をしたい。先生に話を聞いて欲しい。先生の話を聞きたい。会いたい。触りたい。先生が欲しい。
先生はずっと頭を深く下げたままだ。そんな先生の後頭部を撫でる。白髪でもやっぱりサラサラだ。初めて会った時も頭を撫でたっけ、と思い出す。懐かしいな。
触られることに我慢できなくなった先生はフィオナの手を避けようとして体勢を崩した。その拍子に自分の鎖に引っかかって転ぶ。先生は床に尻餅をついたまま頭を抱えた。
「私はいつも格好悪くて、情けないな。周りのみんなを失望させてばかりだ」
自嘲気味に言う先生の首輪に手を伸ばし、鍵を使って外す。
先生は抵抗しようとしたけど
「先生は私との約束を破ったんですよね。悪いと思っているなら私のしたいようにさせてください」
と言うと、ピタリと抵抗を止めた。
その後は素直にフィオナの言うことを聞く。座りなさいと言うと座るし、お茶を飲めと言えば飲んだ。でも、絶対に視線は合わせようとしない。フィオナも黙って先生を見つめ続けた。
しばらくすると、沈黙に耐えられなくなったように先生がフィオナに問いかける。
「君は一体何をしたいんだ?私をどうしたいんだ?」
「先生、私は先生が好きです。ずっと好きでした。だから、私と一緒にいて下さい」
「・・・・・・・・・・・・!!!!」
先生の顔はまた一瞬で真っ赤になった。体が震えている。何か言おうとしても言葉が出てこないようだ。
何度も唾を飲み込んで、先生はようやく口を開く。声も震えている。
「き、君は自分の人生を大切にした方が良い。私はこんな年寄りで、お金も名誉も権力もない。住む家すらないんだ。君を幸せにすることはできない」
「私は先生と過ごす時間が好きでした。先生と医学の話をするのがとても楽しかった。先生と一緒にいられるだけで幸せなんです!」
それを聞いて、先生は動揺から少し立ち直ったようだった。
「いや、それなら医学の話は続けよう。君の知識が得られるのは有難い。君の知識は私の医師としてのキャリアの役に立つからね」
先生がわざとこういう言い方をしているのが分かる。負けるもんか。
「私を利用したいだけっていう振りをしても無駄です。先生も私が好きなはずです。諦めてください」
「・・・・?!私が君を・・・?いや、それはない。私に幼女趣味はないと自信を持って言える。もちろん、君は優秀な生徒だったし、そういう意味で私は好ましく思っているよ。君が言う『好き』という感情も恋愛感情というよりは師に対する尊敬の念とかそういうものだろう」
「私の感情を勝手に決めないでください。私は恋愛感情として先生が好きです!愛しています!」
「君の年頃だと憧れを恋愛感情と勘違いするものだ。私はもうこの年だ。女性に対する欲望なんてここ十年以上感じたことがない。もう枯れてしまったんだよ。君ももっと現実的に考えて幸せになれる道を探しなさい。迷惑だ!」
以前だったら、ここまで言われたらフィオナは絶対に折れてしまっていただろう。でも、今のフィオナにはセリーヌからの秘伝があるのだ。
「先生は国王に厳罰をお願いしたと聞きました。大きな罪を犯したからと。それは私の誘拐、監禁を通報せずにいたからということですか?」
「・・・ああ、まあそうだな。セイレーンの純血種の誘拐や監禁は重罪なんだよ。共犯者もね」
「先生は処刑でも終身禁固刑でも良いと仰ったんですよね?どんな厳罰でも甘んじて受けると」
「・・ああ、そうだ」
訝しげに先生が答える。
「国王陛下は私が処罰を決めて良いと仰いました。なので、私が先生に厳罰を与えます。宜しいですね。私は被害者です。先生に拒否権はありません」
「っ・・・それは法に則っていないはずだ。君は確かに被害者だが・・・」
「先生は私にひどいことをしました。責任を取って一生奴隷として私に仕えなさい」
先生は顔面蒼白で絶句した。
(先生は本当に私といるのが嫌なのかも・・・?)
と思うと不安になるが既に出てしまった言葉は取り戻せない。
「・・・それは・・・・私にとってはご褒美になってしまうよ・・・」
先生は呆然としながらつぶやくと、焦って自分の口を塞いだ。左手で口を押さえたまま、右手で首の後ろを擦る。耳まで真っ赤だ。
(青くなったり赤くなったり、忙しいわね)
でも、今の言葉は聞き逃せない。
「先生、では異存はないということですね?」
「いや、異存だらけだよ・・」
先生は力なくつぶやくとがくりと肩を落とした。はあっと大きく息を吐き出す。
「・・・私はとっくに君のものだ。君の好きに使ってくれ。君の役に立てるなら本望だ」
何かを諦めたというか吹っ切れたように先生は言う。
「では、私の言うことは何でも聞いてくれますね?」
「それはずっと昔からそうだよ。君はめったに我儘を言わなかった。たまにお願いをされると嬉しくてね。何でも言うことを聞いてあげたいと思っていたよ」
先生が観念したように微笑む。やっと見られた大好きな先生の微笑みだ。
「リオ、私の一生を君に捧げよう」
「先生!」
(私の本当の名前を呼んでくれた!)
嬉しくて先生に飛びつこうとするが、その手前で先生に止められる。
「私も君が好きだ。一緒にいると幸せな気持ちになれる。しかし、恋愛関係はダメだ。許されない。年が離れすぎているし、私に幼女趣味はないんだ」
「どうしてですか?この国では法的に十四歳から結婚できますよね?私はもうすぐ十五歳です。しかも、中身はもう五十二歳なんですよ!十分大人です。先生は五十四歳ですよね?ちゃんと年も釣り合ってます」
「私は君のためなら喜んで尽くそう。でも、現実的に男としては役に立たないと思う。情けない話だがね・・」
(くぅぅぅ!ここまで来てまだ言うか。この頑固者!)
「でも、私の言うことは何でも聞いてくれますよね。今夜は同じベッドで一緒に寝て下さい。拒否権はないです」
先生はまた真っ青になって絶句したが、諦めたように肩を落として頷いた。
フィオナはその夜、前世四十一年間の女としての知識と経験を総動員して先生を襲った。




