先生の事情 その3
ミハイル・ブーニン侯爵は焦れていた。
「セイレーンは王家に奪われた!お前のせいだ!」
苛立ちをぶつけながら罵詈雑言を繰り返す。
(これで何日目だろう?よくもまあ毎日飽きもせずに・・)
ミハイルがめちゃくちゃに鞭を振る。アレックスの顔や肩に当たり、血が飛び散るがもう慣れた。痛みもほとんど感じない。アレックスが感じているのは安堵と喜びだけだ。
誰かが執拗に殴ったり蹴ったりしているが、それももうどうでもいい。
この男がフィオナをまだ見つけられないということは、彼女がどこかで無事に保護されているということだ。マーガレットもマキシムも無事だ。身代わりを務めている影たちのことはミハイルも使用人たちも気がついていない。
(私はこのまま死んでもいい)
大切な人たちは逃がすことができた。もう心残りはない。不思議な達成感すらある。
思い起こせば、大切な人たちを失望させてばかり・・・挫折だらけの人生だった。でも、最後に自分自身には失望せずにすんだ。このまま消えても悔いはない。
それもみなフィオナのおかげだ。言葉では言い尽くせない感謝の思いがある。
*****
アレックスは将来を嘱望された若者であった。二十歳で近衛騎士団の副団長まで昇進した。国王陛下の懐刀と言われた時期もあり側近として重用されていたのは間違いない。
当時王太子だった現国王のトリスタン、第二王子だったリュシアン、セリーヌは魔法学校の同級生だった。
幼馴染でもあった三人は全員セリーヌに恋をして最終的にリュシアンに軍配が上がった。当時は苦しかったが今となっては良い思い出だ。
ミハイル・ブーニンは二学年下の後輩だった。ミハイルもセリーヌに恋をしていたと思う。当時、彼女に恋しない男はいなかった。ただ、ミハイルは純粋な恋愛というよりはセイレーンの血筋と不老不死に執着していた。
リュシアンとセリーヌが結婚した直後、国王に即位したばかりのトリスタンが暴漢に襲われた。扇動したのは隣国のコズイレフ帝国だ。彼らは常に侵略の機会と口実を探していた。その後、実際にコズイレフ帝国はフォンテーヌ王国に宣戦布告し、泥沼のような長期の戦争が始まったのだ。
あの時トリスタンが死んでいたら、フォンテーヌ王国は侵略され、今頃はコズイレフ帝国の一部になっていたかもしれない。トリスタンは勇敢に軍を導き、時間はかかったが軍事大国コズイレフ帝国に対して堂々と引き分けに持ち込むことができた。
しかし、アレックスはトリスタンを暴漢から守るために左足に大怪我を負った。治癒魔法を使っても後遺症が残り、歩くのにも支障があるくらいだった。
騎士や護衛としての務めはもう無理だ。もちろん後悔はない。トリスタンが無事だったおかげで国を守ることができたのだ。トリスタンと一緒に従軍して戦いたかったという心残りはあるが、怪我を負った身では足手まといにしかならなかっただろう。
近衛騎士を辞し、新しい道を探すことにした。自然とトリスタンやリュシアンとは疎遠になった。リュシアンは公爵に叙爵され宰相として辣腕を振るっていたし、戦争も続いていた。自分以外の全員が忙しく国のために戦っていた。そこに自分の存在意義を感じることはできなかった。
王都で腫れ物に触るように扱われるのも嫌になり旅に出ることにした。医学を勉強しようと思ったのはその時だ。旅の途中、戦争のせいで多くの人たちが苦しんでいるのを見た。当時のフォンテーヌ王国は国費を国民の医療に充てる余裕はなかった。それを見て自分にできることはないだろうか、と考えたのだ。
怪我は治癒魔法で治せたが、病気は難しいことが分かった。そのために一旦王都に戻り、医学専門の学校に通い薬草学などを勉強した。
庶民を診てくれる診療所は、その頃ほとんど存在しなかった。大勢が戦争に駆り出され、怪我をして故郷に帰ってきても、ろくな治療を受けられない状況にアレックスは憤った。戦争で傷ついた人たちを治療し、苦しむ人たちの力になりたかった。患者に感謝されるとやりがいを感じられた。自分でもまだ役に立てるのだと実感できたからだ。
アレックスは自分の身を一生医療に捧げようと決意した。
しかし、真っ向から反対したのは父親のエヴァンズ伯爵だった。母親も猛反対した。正室の長男で優秀と評判のアレックスは文句なく伯爵家の後継ぎと目されていた。
国王を守って大怪我をしたのも名誉の負傷ということで父親には褒められたくらいだ。いずれ伯爵家を継ぐのだから近衛騎士の仕事を辞めても問題ない、怪我のリハビリ代わりに旅に出るのも気分転換に良いだろう、と家族は考えていた。
アレックスが本格的に診療所の仕事がしたいと言った時、父親は「お前には失望した」と罵った。母親も同様でアレックスの望みを理解しようとはしなかった。
父親には側室がいて男児が生まれていた。母親は大反対したが、エヴァンズ伯爵はアレックスを廃嫡し、腹違いの弟を後継ぎに決めた。母親は元々アレックスより妹のマーガレットを溺愛していたが、その頃からアレックスと母親の間には修復不可能な亀裂が入ったと思う。
アレックスは思う。
自分の人生は父と母を失望させてばかりだった。幼馴染で親友だったトリスタンとリュシアンも失望したに違いない。国を守る戦いに参加できなかったのだから。
父親が亡くなる直前に異母弟が後を継いだが、アレックスは現エヴァンズ伯爵家とは疎遠なままだ。母親と側室は特に仲が悪かったので無理もないが。
アレックスは根無し草のような生活をしていた。診療所を開きたくても資金がなく、教会などを借りて患者の診療を行っていた。
そんな時にマーガレットとミハイル・ブーニン侯爵の結婚の話が出た。アレックスは正直反対だった。学生時代のミハイルに好印象がなかったからだ。しかし母も妹も乗り気であれば自分が口を出すことではない。
考えてみれば、ミハイルは利がないと動かない人間だ。ミハイルは妹との縁を利用してアレックスを都合良く使おうとしていたのかもしれない。
アレックスが渡り鳥のように教会から教会へ診療を行っている間に、ミハイルが近づいてきた。ブーニン侯爵領で庶民向けの診療所を作ろうと思っている、資金は全て出すからアレックスは診療のことだけを考えていればいいと甘い言葉を囁かれた。
庶民向けだから利益はないぞと言うと、笑いながら「これは投資だ。患者から金なんてとらなくていい」と言う。そんなうまい話があるわけないと思っていたはずなのに、気がついたら口車に乗っていたのはなぜだろう?
ミハイルはアレックスをいつか利用できると考えていたようだ。
アレックスはもう失うものなどないから怖くない、とあえて取り込ませたきらいもある。アレックスは住むところが無かったので、当時は診療していた教会の隅で寝泊まりしていた。なので、自分の診療所が出来たら住むところに困らなくなるという、ちっぽけな打算もあったのかもしれない。本や調薬の道具を置く場所があるのは有難かった。
恋愛もセリーヌに振られてからは誰にも心を動かされることはなかった。結婚する気もなかった。自分の人生は診療所で人々のために働くことだけだと思っていた。
ただ、トリスタンから頼まれて王子らの家庭教師をしたことはある。そういえば、アンドレやマキシムにも勉強や剣術を教えていた。
トリスタンやリュシアンが一時期、令嬢との見合いのような話を持ってきたこともあるが、何の興味も示さないので諦めたらしい。
そんな人生を変えたのは一人の少女だった。
ある夜、突然ミハイルから呼びだされた。親戚の娘が高熱を出したので診療してほしいというのだ。
すぐに駆け付けると、汗びっしょりでベッドに横たわっている少女を見て一瞬息が止まった。
キラキラと輝く銀髪だったのだ。
(この髪を知っている。セイレーンだ。瞳の色は分からないが・・・いや、そんなことはどうでもいい。今はとにかくこの子の治療をしなくては)
目を覚ました少女は予想通り美しい真っ赤な瞳を持っていた。しかし、自分が誰なのか何故そこにいるのかも分からない。
嫌な予感は大抵当たる。その時も侯爵が少女を誘拐してきたことが判明した。
怒りに我を忘れそうになったが、マーガレットとマキシムを人質に取られてアレックスはなすすべもなかった。その時に幼い少女が無力感に打ちひしがれた自分の頭を撫でながら労わってくれたのだ。誘拐されてきたばかりの少女が見せた的確な状況判断と優しさにアレックスは感動した。
あれほど驚いたことはない。フィオナには驚かされっぱなしだ。前世で医師だった彼女の話にも強烈に惹きつけられた。
それだけではない。優秀なのに自分に自信がない様子を見て胸が締めつけられた。前世で彼女に何があったのかは知らないが、もっと自分の価値を知って欲しいと強く願った。
あれほど聡明で人柄も良いのだ、今世では素晴らしい伴侶を得られるだろう。リュシアンの息子のアンドレなんかお似合いなんじゃないか?彼は外見も中身も良い男だ。
フィオナの人生にとって自分はもう必要のない人間だと思うと、胸の奥に鋭い痛みを感じた。
自信を持って言えるが自分に幼女趣味はない。しかし、フィオナの中に居たのは少女ではなく成熟して自立した大人の女性の魂だった。
彼女の知識や聡明さだけではない。自分に自信が持てずに落ち込んでしまうところ、しっかりしているのにどこか抜けているところ、好きなことを夢中になってお喋りするところ、何もかもが魅力的だ。それでいて素直で愛嬌もあり・・とにかく可愛い。顔ではない。仕草、言葉、彼女のすべてがとにかく可愛いのだ。
正直に言うと彼女に惹かれている。しかし、フィオナの幸せを考えたら私は消えた方がいい。
死ぬ前に彼女に会いたい・・・それだけが心残りだな。
フィオナのことを考えているうちに今日の拷問セッションは終わったらしい。
ようやくか、とため息をつく。
しかし、いつもと違い地下牢から出ていく代わりにミハイルがアレックスに近づいてきた。
「おい、お前はエリクサーを作れるか?」
(・・は?そんなに不老不死が欲しいのか?)
「エリクサーを御所望ですか?」
「あの女は王宮に隠れていて今は見つからない。だが、一生かけても見つけ出す。エリクサーで不老不死になったら永遠にあの女を追いかけてやる。自由になんかさせるものか。僕をコケにした報いを受けさせるんだ」
不気味な嗤いを浮かべるミハイルに、アレックスは暗澹たる気持ちになった。
この男だけは何とかしないといけない。フィオナに執着して彼女は自由に生きられない。自分はもうどうなっても良い。アレックスは覚悟を決めた。
「作れるかもしれません。ただ設備と材料が必要です。用意して頂けますか?」
「本当か?!」
「私の執務室に足りない道具や材料などを揃えてもらえれば・・・恐らく完成させられると思います」
「分かった。必要なものは言え」
執事に指示を出すとミハイルは出て行った。心なしか足音が弾んでいる。
執事は縛られていたアレックスの縄をほどき、傷に治癒魔法をかける。
傷が治癒すると水で体を洗浄し、久しぶりに清潔な服を着て自分の執務室に向かった。
執事が監視役としてついてくるが、無視して執務室の机に座り自分が書いたノートを開く。ノートを読んでいるふりをしながら自分の欲しいものを依頼した。
(大丈夫だ。フィオナ、私が必ず君を守る)
アレックスは慎重に頭の中で計画を組み立てていった。
*****
一か月後、ようやく準備が整った。
ミハイルがお供をゾロゾロ引き連れて執務室に入ってくる。相変わらず傲慢で尊大な態度だ。ミハイルのすぐ後ろに執事が控え、その背後に屈強な護衛の三人組が立つ。
「さて、先生。エリクサーが完成したと聞きましたが本当ですか?」
アレックスは黙って二つの容器を机に置いた。
「はい、この二つの容器の液体を混ぜれば完成します」
ミハイルは男たちに顎で合図をした。彼らはアレックスを捕まえて椅子に座らせ、縄で何重にも縛りつける。そしてミハイルから離れたところに椅子ごと移動させ、その周囲を三人で取り囲んだ。ミハイルをアレックスから守るためだ。臆病なミハイルらしい。
ミハイルは満足したように頷いて二つの容器を見比べる。
「これが毒ではないとどうやって証明する?」
「侯爵閣下が完成させた後、私が毒見をしましょう」
アレックスの声は落ち着いている。ミハイルは目を細めて疑り深そうにアレックスを見つめた。
「ほお、随分自信があるんだな」
「それなりに苦労しましたから」
ミハイルは顎を掻きながら考えている。
(こいつは猜疑心が強い。やっぱり手は出さないか)
アレックスが諦めかけた時、ミハイルが容器に手を伸ばして匂いを嗅いだ。もう一つの容器も持ち上げて匂いを嗅いでいる。
「酸っぱい匂いがするな」
「匂いが関係ありますかね?」
ミハイルはちょっと鼻白む。
「この二つを混ぜるとエリクサーになるんだな?」
アレックスは頷いた。ミハイルはちょっと考えていたが、執事にワイングラスを持ってこさせ、その中に二つの容器の液体を入れた。
テイスティングでもするようにワイングラスをグルグル揺らしながら混ぜた後、ミハイルはグラスに顔を近づけて匂いを嗅いだ。
彼はしばらくその姿勢のまま固まっていた・・・が、突然ワイングラスが床に滑り落ちる。
グラスはガチャンと割れてミハイルはその場に崩れ落ちた。
床に倒れたまま動かないミハイルに、執事が慌てて近づいて助け起こそうとした。しかし、その執事もその場で昏倒してしまう。
アレックスの周囲にいた三人組が浮足立った。「なんだ?!何が起こったんだ?」と騒いでいる男たちを見て、アレックスは『お前たちには絶対に分かるまい』と考えていた。
(そうだ。私はフィオナから教えてもらった硫化水素を作ったんだ。この世界では知られていない毒性の気体だ!)
三人組は床に倒れたミハイルと執事に必死で声を掛けているが、近づくのは怖いらしい。だが、既に目的を果たしたアレックスにとってはどうでもいいことだ。
(約束を破ってすまない。絶対に作らないと約束して教えてもらったのに・・・)
アレックスは心の中でフィオナに詫びた。彼女に執着するミハイルを放っておいたら彼女はずっと追われ続ける。フィオナを自由にしてやりたかった。
「電気分解する装置がないから作れない」と言ったのはフィオナを心配させたくなかったからだ。実は魔法で代用できるのではないかとその時から考えていた。
硫化水素の実験は成功したらしい。ミハイルと執事はピクリともしない。執事には申し訳ないという気持ちが湧いてくるが、縛られている状態では何もできない。
ただ、当主と執事が倒れるという緊急事態で屋敷は大いに混乱するだろう。王宮に通報するかもしれない。少なくとも王宮は異変に気がつくに違いない。それに乗じてブーニン侯爵家に乗り込み、その罪を暴いて欲しい。
三人組の一人がアレックスの胸倉をつかんで「おい!お前!何をした?」と凄んだが、アレックスは落ち着いている。
「私は何もしていない。ここで縛られていただけだろう?」
「それはそうだが・・あの液体に毒を入れたのか?」
「毒だったとしても、ミハイルはあの液体を口に入れたか?」
男は言葉に詰まり、他の男たちと顔を見合わせた。一人の男が恐る恐る倒れている二人に近づくと、ぐえっとえずきながら戻ってくる。
「・・・なんだ?頭がぐらぐらする・・・気持ち悪い・・・」
恐怖に顔を引きつらせた三人は扉を開け、そのまま逃げだした。
アレックスも頭痛がひどく意識が遠のいていくが、自分がしたことに後悔はなかった。
(フィオナ、どうか幸せになってくれ)
廊下の向こう側がどんどん騒がしくなっていく中、アレックスは意識を失った。