エレナの事情
アントンが村長からの返答を持って皇宮に帰還した時、彼の瞳から輝きは失われていなかった。
だから、キーヴァを救う手段を講じることが出来たのかもしれない、と期待したのだ。しかし、アントンが皇帝に奏上したのは「キーヴァが皇宮に参内することを同意した」ということだけだったという。
エレナは正直失望した。
アントンは罪のない少女を救出してくれるはずだと信じていたから。
「やっぱり皇族はダメだ」という両親の口癖が頭をよぎる。
エレナの家族は全員が帝政に反対する反体制派だ。特に皇族や貴族に対して強い敵意を持っている。それだけ一般市民が犠牲になる残酷で悲惨な事件を見たり聞いたりしてきた。
大昔には『賢帝・賢妃』なんて呼ばれる慈悲深い皇族がいたという。
しかし、この数十年、人々の生活はどんどん困窮し、一握りの皇族と貴族に富のほとんどを搾取されている。貧しさから子を売らざるを得ない親もいるくらいだ。
人々の血と汗と涙の結晶である富を当然といった顔で奪い取り浪費する皇族たち。見ているだけで虫唾が走る。
エレナの兄は、町中で襲われそうになっている少女を助けた。襲ったのは貴族の馬鹿息子で、そいつは怪我をさせられたと因縁をつけ、兄は逮捕された。まともな裁判は受けられず、兄は拷問され処刑された。
家族は身を震わせて慟哭した。
このまま皇族や貴族の暴虐を許していいのか?
エレナの両親はスミス共和国の例に倣い、帝政・貴族制を廃止することを目的に動いている。
彼らには多くの仲間がいる。反体制派は戦争が近々起こると予想しており、戦争に乗じて皇宮を攻撃し国家転覆を図っている。エレナも何か協力したかった。だから、侍女として皇宮に入りこみ、情報を両親に流している。
最初は下働きの洗濯女だったエレナを侍女に取り立ててくれたのは、皇帝の側妃マリヤだ。マリヤは刺繍が得意で、ドレスやハンカチ、クラバットなど色々なものに美しい刺繍を刺している。
エレナはマリヤの刺繍が好きで、洗濯する時にも糸がよれたりしないように丁寧に洗っていた。それに気がついたマリヤがエレナを侍女として希望したのだ。予想外のことでエレナは驚いたが、反体制派のために重要な機密を探れるようになると興奮した。
ただ、マリヤは側妃の中でも身分が低く、皇族だけでなく貴族からも馬鹿にされていたので、重要な機密なんて入ってこなかった。だが、すぐにマリヤに仕えることがエレナにとって何よりの喜びとなっていた。
マリヤは誰に対しても等しく優しい。皇族にもこんな人がいるのかとエレナは複雑な気持ちになった。
帝政を滅ぼしたとしても、マリヤ様だけは何としてでもお守りしたい、と思うまでにエレナはマリヤに傾倒した。
だから、マリヤに息子のアントンに仕えてもらえないか?と頼まれた時も、内心不満を覚えながらも大人しく従ったのだ。マリヤによるとアントンには信頼できる侍従も侍女もいないという。
「このままだとあの子は人間不信になってしまうと思うの。だから、エレナのような誠実で頼りになる人に傍に居てあげて欲しいのよ」
と優しく微笑むマリヤを敬愛するが、内心『見る目がないな』と思ってしまった。
『だって、私は反体制派のスパイなんだよ。あんたら皇族の生活をぶち壊そうとしてるんだよ!』
と怒鳴りつけたくなるような奇妙な衝動を必死で抑える。何故か胸が痛くて泣きそうだった。
マリヤはエレナの頬を優しく撫でながら、
「エレナに贈り物があるの」
とハンカチを差し出した。
そこにはピンク色の美しい大輪の花が刺繍されていた。
(私に・・・?)
とマリヤの顔を仰ぎ見る。
マリヤはニッコリと微笑んで
「この花はね、『エレナ』という名前なのよ」
と言った。
エレナは堪らなくなった。目から涙が溢れる。
「あのね、私もアントンもここでの生活に未練なんてないの。どちらかというと逃げ出したいくらいなのよ。市中の人々の生活のことは私も聞いているわ。・・・・だから、気にすることないのよ」
と諭すように話すマリヤにエレナは愕然とした。
(この方は・・・・最初から知っていたの・・?)
マリヤは困ったように
「ただ、アントンのことだけ、お願いしてもいいかしら?とてもいい子なのに誤解されやすくて・・。あの子だけ逃げてくれてもいいのに、私がここに居る限り離れようとしない。せめて信頼できる人に付いていて欲しいの」
と続けた。
エレナは涙で声が出なくなっていたけど、何度も頷いた。
マリヤは嬉しそうに微笑んで
「ありがとう」
とエレナの涙を自分のハンカチで優しく拭ってくれた。
それ以来、エレナはアントンに忠実に仕えている。
アントンもマリヤと同じく、皇族とは思えない優しさと思いやりを持った人だ。アントンはいつか皇宮を出てマリヤと共に市井で暮らしたいという夢を持っている。皇族だけど、やっぱりこの人も助けたいとエレナは思ってしまう。
でも、アントンもエレナが反体制派のために働いていることを知っているのだろうか?
全然気がついていないように見えるが、この人は知らない振りをするのがとても上手い。
エレナには何でも知っておいて欲しいから、と執務室の壁の中にある秘密の空間を自由に使わせてくれる。アントンに極秘の相談があると訪れた客人の話は、エレナも隠れて聞いている。
それが腹心の部下として何でも知っていて欲しいからなのか、反体制派に情報を流してもいいと思っているからなのか、全く読めない。
先日アンドレと密会した高級娼館は、皇族や貴族にも人気の場所だ。まさか反体制派の拠点になっているとは思わないだろう・・・が、アントンなら気づいているかもしれないという疑念も拭えない。
アントンは見た目通りの単純な人間ではない。しかし、人として信頼できることは間違いない。
だからこそ、もっとキーヴァのために親身になってくれると信じていたんだ。
エレナの両親は親に売られた少女たちの救済も行っている。キーヴァをあんなクソじじいの嫁にすることにアントンが唯々諾々と従うことが許せない。その気持ちが顔に出ていたのだろう。アントンは言い訳がましく釈明した。
「キーヴァは大丈夫だ。多分・・・」
「なんですか?多分って。まだ十六歳の女の子なんですよ。六十歳のジジイの餌食になるなんて!」
「・・・本人が絶対に逃げ出せるから大丈夫だって言うんだ」
「いくら本人がそういったからって!」
あまりに無責任で腹が立つ。
「まあ、見ててよ。もし、彼女が逃げられなかったら俺が何とかするからさ」
アントンがいい加減なことを言っているとしか思えなかった。もしキーヴァが犠牲になったら、本当にあんたを見限ってやるから!とエレナは心の中で痛罵した。
***
その後、キーヴァが皇宮にやって来て、皇宮の一部を半壊し、皇帝をぎっくり腰にし、彼女を取り押さえようとした兵士全員を再起不能にした後、悠々と皇宮を出ていったと聞いた時、アントンは鬼の首でも取ったように「な?」と言った。
皇帝は怒り狂い追っ手を差し向けたが、全員返り討ち。次に暗殺者集団を送ったが返り討ち。最後には、軍の一個師団まで送り込んだが、全員再起不能になるまでぶちのめされているところを発見され、皇帝は仕方なく矛を収めたという。
ポレモスは皇帝から酷く叱責を受け、再び皇宮から姿を消したなんていうおまけもあり、これら一連の騒動のおかげで戦争の勃発を遅らせることができたとアントンはご機嫌だ。
エレナは複雑な心境だった。反体制派は戦争の混乱に乗じて皇宮を占拠しようと企んでいる。彼らにとって戦争は起こってもらわないと困るのだ。
自分は誰のために、何のために働いているんだろう・・・?




