4月1日
『先輩、卒業したら東京の大学に行っちゃうんだって』
親友が目にいっぱいの涙を堪えながら言ってきたのは、数週間前のことだった。
入学式で一学年上の先輩に一目惚れして以来、二年も想い続けた彼女のこと、わたしはよく知っていた。
けれど、一つしか違わないのにわたし達よりずっと大人びて見える先輩は、とてもモテる人で。
当然恋人もいて、親友はただ想い続けるだけの日々を過ごしていた。
けれど一年前、先輩が恋人と別れたという噂が学校中に広まったのだ。
わたしは親友に、『告白しないの?』と訊いてみた。
親友も悩んでいたみたいだけど、しばらくして、静かに首を振った。
『先輩、最近元気がなかったの。きっと恋人と別れたことがショックなんだと思う。そんなときに、先輩の迷惑になりそうなことはしたくない』
それは、先輩を見つめ続けた人間にしか分からないことだった。
親友は、優しい子だったから。
そして本人がそう決めたのだから、わたしがそれ以上何か言うことはなかった。
やがて、時間が流れた。
モテる先輩は、いろんな子から告白されてたようだけど、結局誰とも付き合うことはなかった。
それだけ、前の恋人が忘れられないのだろう……いつの間にか、今度はそんな噂が広まっていた。
そして半年前、仲間内の誰かが親友に言った。
『先輩がどこの大学受けるのかは知らないけど、どっちにしろ卒業したら会えなくなっちゃうんだよ?告白するなら受験シーズンに入る前の今しかないよ』
彼女も告白するタイミングについては考えていたみたいで、いくらかは迷ったようだけど、やっぱり、静かに首を振った。
『せめて先輩の受験が終わってからにするよ。今は陰ながら先輩の受験勉強の応援をしてる』
彼女は、自分のことよりも相手を思い遣る、優しい子だった。
それからまた時間が流れて、桜の開花を待つばかりの季節になった。
学年末考査も終わり、校内の至る所で卒業式の足音が聞こえてくるようになった頃、たまたま職員室で先輩と教師が話してるのを、親友が聞いてしまったらしい。
先輩の進学先が、遠い東京だと。
『卒業したら会えなくなるのは分かってたけど、東京なんて、遠すぎるよ………』
親友の声は、ひどく頼りなくて、今にも沈んでいってしまいそうで、わたしまで心が痛くなってしまう。
『ねえ、だったら先輩に言おうよ!』
気付いたときには、そう言っていた。
『二年も想い続けたんだもん、結果がどうなろうと、ちゃんと言わなきゃ後悔しない?』
わたしのセリフに、今日の彼女はいつもの迷いを見せずに、はっきりと告げた。
『―――そうだよね。わたし、先輩に告白しなかったら、きっと後悔すると思う』
『でしょ?だったら、ほら、早く。今ならまだ先輩、校内にいるんじゃない?泣いてる暇ないよ、急がなくちゃ』
『え、今?今すぐ?』
『ほらほら、善は急げよ』
『あ、ちょっと…』
『もたもたしてたら誰かに先を越されちゃうよ?それでもいいの?そうしたら、せっかく決心したのに、また言えなくなっちゃうよ?』
『それは嫌だ』
『だったら、ほら、頑張って!』
わたしは心からの気持ちを込めて、思いっきり彼女の背中を叩いた。
すると彼女は痛がる素振りもなく、満開の笑顔を見せて。
『うん!ありがとう!行ってくるね』
そう告げて駆け出したのだった。
二年分の想いを乗せた彼女の告白は、『友達から…』 という、希望を残した結果だった。
けれどその場で先輩の連絡先と、上京後の住所や引っ越しや進学のスケジュールを教えてもらった彼女は、すぐに顔を真っ赤にさせてわたしに報告してくれて、『忙しい先輩の邪魔にならないようにしなくちゃ…』と、関係をすぐに深めようとはしなかった。
わたしの親友は、優しい子だから。
その優しさのせいで、ときどき遠回りや損をしたりもするけれど……
でもわたしは、そんな彼女が親友として、一人の人間として好きだった。
「……で?春休みの真っ只中に、朝一でわたしを呼び出したのはどうして?先輩と何か進展でもした?」
春休みも中盤にさしかかった日の朝、わたしは彼女に呼び出されていたのだ。
待ち合わせ場所は、学校の教室。この前まで、わたし達のクラスだった場所だ。
まだそんなに時間が経っていないのに、わたし達がここにいた痕跡がすっかりなくなっていて、なんだかもう、まったく別の場所のように感じる。
それが少し、……いや、結構、寂しく思った。
「先輩とは………ゴールデンウィークに、会う約束は、したけど………」
照れ臭そうに答えた彼女に、わたしは、「いいなあ、楽しそう」と笑いかけた。
すると、なぜか彼女の表情が、すっと色を変えたのだ。
「……ねえ、わたし達、親友だよね?少なくともわたしはそう思ってる。クラスが離れても、卒業しても、別々の大学に行っても、一生、友達だと思ってる」
「どうしたの?急に。……そりゃ、わたしもそう思ってるけど………」
いきなり熱く語られて、わたしの方が恥ずかしくなってしまう。
けれど彼女は、真顔を保ったまま、また告げたのだった。
「たとえ、あなたが警察に逮捕されても、わたしは変わらずに友達でいる。万が一SNSとかで炎上するようなことがあっても、わたしはずっと友達でいる。もし何か大きな過ちを犯したとしても、わたしは友達のまま、一緒に謝るよ。だから、わたしにはなんでも本当のことを言っていいの。わたしは、そうしてほしい。本当の気持ちを、聞かせてほしい」
「……本当の気持ち?何のこと?」
いつになく饒舌な彼女に、わたしは意外な思いで訊き返した。
すると、彼女の真顔が、にわかに崩れて……
「うん。本当のこと教えてを。ねえ、もしかして、先輩のこと………、好き?」
静かに、問いかけた。
その表情はとても穏やかで、柔らかくて、優しい彼女をさらに優しさで彩ったものだった。
けれどどこかに恐々とした、惑いみたいのものも混ざっていて、それは複雑に顔色をかき混ぜる。
彼女がなぜ今になってわたしにこんなことを尋ねてくるのかはわからないけれど、きっと、相当思い詰めているのだろう。
わたしは数秒、黙してみた。
やがて、意を決し、
「ごめん、実は………」と口を開いた。
彼女は、じっとわたしの返事を待っている。
「実は、先輩のこと………」
「うん………」
「…………好き、………………なわけないじゃない」
「………へ?」
「なによ、急に学校なんかに呼び出して、そんなこと訊きたかったの?そりゃ先輩はかっこいいし人気者だし、憧れはあるけど、そんなのただのファンよ。どうして急にそんなこと訊きたくなったの?やだ、もしかして勘違いしてたの?」
プププと笑いながら、彼女の背中を大きく叩いた。
あの時と同じように。
だがあの時とは違い、彼女は若干痛そうに背中をさすり、再確認してくる。
「本当に?好きじゃない?先輩のこと、何とも思ってない?」
わたしは「当たり前じゃない」と笑い声を高めた。
「わたしが先輩のこと好きなら、とっくの昔にあんたに話して正々堂々恋のライバルしてるわよ。わたしってそういうタイプでしょ?」
「そりゃまあ、体育会系なところはあるけど……」
徐々に徐々に、萎れかけた花がまた水を吸い上げていくようにじわじわと納得していく彼女。
わたしは最後のダメ押しとばかりに、「それにわたし、実は好きな人がいるんだよね」と打ち明けた。
「え?本当?わたし聞いてない!誰?わたしの知ってる人?」
とたんに、弾かれたように追及してくる。
わたしは素直に、今頭の中に浮かんだ人の名前を答えた。
「………担任」
「ええっ?担任って、わたし達がこの間まで同じクラスだった時の担任?本気?担任って、イケメンだけどアラサーだよ?」
「いいじゃない、好きでいるくらいは」
唇を尖らせると、彼女は「まあ、確かに女子からは人気あるけど……」渋々批判の声を収めていく。
「はいはい。もうこれでわたしの話はおしまい。あ、内緒にしておいてよ?誰にも言ったことないし、本人にも言うつもりなんかないんだから」
「そうなの?……うん、わかった。誰にも言わないって約束する。わたしにだけ話してくれて、すっごく嬉しい!でも何かあったら絶対に言ってね」
そう念押ししたあと、彼女の携帯が鳴った。
「……出ないの?」
躊躇っている彼女に、わたしは何とはなしに促した。
「ええと、うん……ごめんね」
彼女は遠慮がちに断ってから、電話に出た。
「え……?今、学校、だけど……」
ちらっとわたしを見た彼女に、「誰?」と小声で尋ねた。
すると彼女も小声で「あ………ママ」と困惑顔で答えてきた。
「―――え、今から?」
小さく驚きの声をあげた彼女に、わたしはまた小声で、「何か用事なら行ってくれていいよ?」と伝える。
「でも……」
「いいからいいから。おばさんによろしくね」
わたしが半ば強引に促すと、名残惜しそうにしながらも、彼女は「じゃあ、今から行くね」と電話越しに告げる。
そして通話を切ってもなお躊躇いを滲ませるものだから、わたしが背中をぐいぐい押し、彼女を教室から追い出すような形で今日はお開きとなったのだった。
一人きりになって教室はがらんと広くて、知らずのうちに息が漏れ出ていた。
その時だ、がらりと後ろの扉が開いた。
「ちっとも知らなかったな。おまえ、いつから俺のこと好きだったんだ?」
飄々とした声が、わたし一人きりだった教室に入ってくると、わたしはまた違った種類の息を吐いていた。
「……さっき、窓の向こうで渡り廊下をこちらに歩いてくる先生が見えたんですよ」
「それだけでお前の想い人にキャスティングしてくれたのか?」
「現役女子高生の片想い相手役です。光栄に思ってください」
この前までわたし達の担任教師だったこの男は、若くてイケメンで教え方も上手くて生徒から人気だったけれど、女子生徒からの好意をいつもさらりとあしらうことで有名だった。
そして、大人の余裕というか、器の大きさを感じることが多々ある人だった。
だから、わたしの片想いの相手として名前を出して、万が一それが本人の耳に入ってしまったとしても、笑って流してくれそうな気がしたのだ。
担任は「それはそれは光栄に存じます」と、恭しくお辞儀をした。
そして頭を上げると、
「ま、いいんじゃないか?今日は4月1日だし」
朗らかに言ったのだった。
けれど次の瞬間、おや、と眉を動かした。
「どうやら嘘つきは、おまえだけじゃなかったみたいだな」
担任の視線を辿ると、窓の外、彼女が校門に小走りで向かっているところで、校門前には、両手で ”ごめん” のポーズをする先輩が立っていた。
ああ、そうか。
さっきの電話は、彼女のお母さんからではなくて、先輩からの急なお誘いだったのか。
「おまえ、いい友達持ったな。そしてあいつも、いい友達を持った。二人の嘘は、今年のエイプリルフールで一番良い嘘だったんじゃないか?」
担任が嬉しそうに言った。
どこか誇らしげで、いつもの飄々とした雰囲気は削ぎ落されている。
「………親友ですから」
窓の外を見たまま呟いた。
すると顔の横に、スッとハンカチが差し出された。
「泣け。吐き出してしまえばスッキリすることもあるんだ」
言われて、はじめて自分の涙に気が付く。
彼女の前では堪えられたけれど、担任に何もかもを見抜かれてしまい、張り詰めていた気がゆるんだのだろうか。
何度か、打ち明けようかと思ったりもした。
でもできなかった。
本当のことを話す勇気がなかったのだ。
わたしも、入学式に向かう途中ではじめて見かけたときから、先輩が好きだったと……
彼女の応援をしたいと思った気持ちに嘘はない。
でも実際は、ただ臆病なだけだったのかもしれない。
すると、まるでわたしの心の中を覗いたように、担任が告げた。
「おまえは優しかったな。正直に打ち明けるだけが正解じゃない。お前の嘘は、臆病だったからでもないし、ずるくもない。ただ、優しかっただけだ」
グイッとハンカチを頬に押し当ててくる担任に、わたしは仕方なくそれを受け取った。
「ありがとう……ございます」
「気にするな。なんてったって、俺はお前の片想いの相手なんだからな。好きなだけ甘えていいぞ?」
「だからそれは違うから!」
「はいはい。俺もそんな年下のガキには興味ありませんから、ご心配なく」
笑いながらそう言って、担任は手のひらをひらひらさせながら教室を出て行こうとする。
その背中に、思わず呼びかけていた。
「あ、先生!」
「うん?」
「これ、ちゃんと洗って返しますから」
「そんなの気にしなくていいよ。可愛い生徒のためにハンカチの一枚や二枚くらいどうってことないさ。じゃあ気をつけて帰れよ」
教室を出ていくときの担任は、いつもの飄々とした態度に戻っていた。
渡されたハンカチは、柔軟剤なのか先生の香水なのか、とてもいい匂いがした。
わたしは、なんとなく、この匂いを忘れられなくなりそうな予感がしていた。
そして、この日嘘つきだったのは、わたしと彼女以外にもう一人いたのだと知ったのは、数年後のことだった―――――――――
『はいはい。俺もそんな年下のガキには興味ありませんから、ご心配なく』
4月1日 (完)




