ポチ
クロスライトの分家であるライドルトの邸宅は、アレクシアのうちのすぐ隣にある。
アレクシアはライドルトに外で待っていてもらって、動きやすいワンピースに素早く着替え、彼と共に人目を避けてライドルトの家に向かった。
王子たちの訪問で強化されている護衛は、大多数が本家を取り巻くように建っている分家の家々の外側にいるので、幸い内部での移動は比較的楽だった。
もう辺りはすっかり暗くなっていて、人目に付きづらいのも好都合だった。
分家の邸宅も本家に劣らないほど大きくて威厳のある建物だ。
アレクシアの家の庭の生け垣をくぐり、ライドルトの家の庭へ侵入する。
ライドルトの家の庭には、幼いアレクシアとライドルトが一緒によく遊んでいた秘密の場所がある。
高い生け垣が小さな丘の上に並んでいて、そこをくぐると緩やかな下りの斜面がある場所だ。
生け垣と斜面が壁のような役割をしてくれて、人目に付きにくい。
そこでアレクシアが芝生に腰を下ろして待っていると、何分も経たないうちにライドルトがポチを連れてやってきた。
手にはたくさんランプを持っている。
その暗かった場所が一気に明るくなった。
生け垣の下から苦しそうに身をよじってアレクシアのいる空間に入ってくるポチの、栗色の毛は切られたか切られてないか分からないくらいだった。
そして、ポチはアレクシアの姿を見たとたん、尻尾を千切れんばかりに振って飛び掛かってくる。
ベロベロ顔を舐めまわしてくる。
早く撫でろと手の下に顔を突っ込んできた。
ポチはとても大きくて、フワフワしている。そしてちょっと能天気な顔をした犬だ。
愚かなほどに真っすぐな感情を向けてくれるこの犬はとてもかわいい、とアレクシアは思う。
アレクシアはポチのその温かい質感に安心した。
だがその重量は時々容赦なく重い。
「ポチ、アレクシアが潰れるぞ」
思うままに全身の体重をアレクシアにかけてくる巨体のポチを軽々と持ち上げたライドルトは、体を器用にくねらせたポチに顔を舐められていた。
くすぐったいからやめろと下に下ろされて、ポチはライドルトに腹を撫でられていた。
ポチは幸せそうに舌を出して尻尾を振っている。
幸せを無邪気にめいっぱい楽しんでいるポチを見て、アレクシアは目を細めた。
「ありがと、ライドルト」
「なに突然」
ハスキーでぶっきらぼうな声で言ってから、ライドルトがアレクシアの方を振り返った。
「今日は話聞いてくれてありがとう」
もう頑張れない、と思ったところで手を差し伸べてくれた彼には感謝している。
今日もこのあいだも話を聞いてくれて、嫌と言うほど泣かせてもらった。
気にかけてくれる人がいることは有難かった。
「どうしたの、やけに素直だね」
そう掠れた声で言ってから、ポチから離れてアレクシアの隣に腰を下ろすライドルト。
一方のポチは、次はアレクシアの方に寄ってきて、撫でてほしいと言わんばかりにじゃれついてくる。
確かに私いつもこんなに素直じゃないよね、と思ったアレクシアはライドルトには何も返事をせず、ねだられるままポチのフワフワの毛を撫でて、その犬の首に顔を埋めた。
彼の方を向かなくても良くなったので、丁度良い。
「でも、これからも一緒にいて心配してやるよ」
突然、彼の掠れた囁くような声が耳元で聞こえた。
隣に座っているライドルトの顔がいつの間にかすぐ傍にあって、アレクシアと同じようにポチの首に埋められるくらいの近さで止まっていた。
しばらく、ランプの灯が燃える音しかしなかった。
その静寂を破るように、ぽふっとライドルトがアレクシアの頭に手を置いた。そしてわしゃわしゃ撫でる。
アレクシアはわしゃわしゃ撫でられる。
その感触に、私まるでポチのように撫でられている、とアレクシアは思った。
アレクシアがポチをぎゅっと抱いて毛に思う存分顔を埋めたりしていたら、ライドルトがポケットに忍ばせていた犬のおやつを出してきた。
ライドルトがポチの目の前にそれを並べ始め、ポチはそれに飛び掛かって行ったり、お預けされたり、お手をしたり忙しそうだった。
面白い顔をしたり、可愛く鳴いてみたり、ライドルトを威嚇したりしていた。
能天気な顔をした犬が、少しだけ面白かった。
…もう帰る時間だろうか。ポチと遊んでいていい時間が経った気がする。
少し軽い気持ちになれたアレクシアは思った。
そして彼女は持ってきていた鎖時計を引っ張り出して時間を確認する。
「もうそろそろ会食も終わると思う。お父様かお母様が私の部屋に様子見に来た時にいなかったらまずいからもう帰るね」
「そうだな。送るよ」
「はは。すぐそこだからいいのに」
遠慮はしたが、ライドルトは送るためについて来てくれた。
アレクシアはポチにおやすみを言って、ライドルトと共にアレクシアの部屋への道のりを歩き始めた。
人の気配がしない、外灯に照らされてほの暗い庭を進む。
本家の庭に戻って来て、本家の館に沿ってアレクシアの部屋を目指して進む。
館は大きな平屋なので、出て来た時と同じように窓から部屋に帰れる。
そして、アレクシアとライドルトが館の角を曲がった時。
広い庭にぽつんと立っている細長い人影が急に視界に入った。
月明かりを背にするその黒い影がこちらを向く前に、アレクシアはバッと身を翻した。
気づかれる前に隠れるためだ。
隠れるために、アレクシアは再び館の壁のうしろに戻ろうとした。
が、戻れなかった。
自身の影が地面に縫い付けらたかのように、足が止まってしまった。
あの長い人影は。
あの月に透けるような銀色の髪は。
あの沈んだ太陽のように燃える色の瞳は。
ずくん、とアレクシアの心臓が鳴る。
あの人は。
その、病気で寝ているはずのアレクシアの姿を外で見た者は。
病気で寝ているはずなのに、ライドルトと何処かから戻ってきたアレクシアの姿を見たのは。
それは、ノーラントだった。
そこには大きくて丸い月を仰ぐように一人立っているノーラントがいる。
彼はゆっくりアレクシアとライドルトの方を向く。
会食はどうしたのだろうか。いくら安全とは言え付き人もつけず、こんな庭の真ん中で何をしているのだろう。窮屈なあの場を一人で抜け出したかったのだろうか。私が仮病を使ったことはバレるのだろうか。ノーラントのことで勝手に悩んで追い詰められてしまっていたことに呆れるのだろうか義務を放棄して犬と遊んでいたことを罵られるのだろうかとアレクシアは異常な音を立てて回り始める頭で、硬直したまま思った。
ノーラントは二人の姿を確認すると、夜空に浮かぶ月のように温度のない赤い目を細めた。
慈悲のない、その赤い目にアレクシアは息を飲んだ。
「ノーラント…」
「仮病を使って何をしているかと思えば」
アレクシアの小さな呟きに被さるように発されたノーラントの冷たい声は、アレクシアの全身から血を搾り取るように、耳から全身を駆け抜けた。
耐えきれず叫ぶように何かを思ったアレクシアの脳はもう使い物にならず、アレクシアの心臓が必死に、空になった脈だけ打っているのを感じる。