見舞い
アレクシアがなんだライドルトか、と思って入室を許可すると、ライドルトは部屋に入ってくる。
笑いながらアレクシアの寝ているベッド脇まで歩いてくる。
「お前、結局仮病使ってるんだ」
「はは」
ライドルトとは正反対の乾いた声で笑うアレクシアは体を起こしてベッドに腰掛け、ライドルトと向かい合った。
彼女は部屋着だが、ライドルトは兄のようなものだ。
アレクシアのだらんとした姿など彼は何度も見ているし、服装など今更気は遣うまい、と思ったが、ライドルトに頭から乱暴に毛布を被せられた。
仮病でも一応病人扱いしてくれているのかもしれない。
「何しに来たの?」
先ほどまで笑っていたライドルトが静かにアレクシアの顔を見ている。
何見てるの、という意味も込めて聞いてみた。
「お前の見舞いだよ。…仮病の」
「暇なんだね」
「まあね。でも一応王子に挨拶してきた」
ライドルトもクロスライトの分家出身で、騎士団の一部隊の隊長も務める一応名の通った人物であるし、せめて会食に顔くらいは出せと言われていたのだろう。
「そっか」
「あのさ、お前ほんとに顔色悪いよ。ほんとに病気かってくらいお前が参ってるなら、もう流石に見てられないんだけど」
やはり顔色は良くなかったようだ。アレクシアは何となく目を伏せた。
大好きなはずのノーラントのことを考えて、喜ばない体の正直さが恨めしい。
「大丈夫だから」
「あのね。やっぱりお前全然大丈夫じゃないから。頑固なお前が大丈夫って言う時は6割全然大丈夫じゃない」
顔を手で隠すようにそっぽを向くアレクシアに、ライドルトは少し苛立ったようだ。
「親父さんにでも頼み込んで、早く婚約破棄してもらえるよう動いてもらえよ」
「頼まなくても、もしかしたらもうすぐにでも…」
「王子がリナリー嬢を連れ回し始めたの、半年とか前からだろ。でもまだしてもらえないんだから、お前からも言ってみろよ」
ライドルトは吐き捨てるように言った。
ずっと前から心配してくれていたライドルトに、アレクシアがようやく胸の内を晒して辛いと言ったことと、ノーラントがアレクシアを嫌ってリナリーを大切にするようになってから時間も経っていることが相まって、まだアレクシアが婚約破棄をしてもらえない状況にしびれを切らし始めているのだろう。
「…なんで言えなんて言うの」
「お前だけ一方的に好きで辛そうだからだよ。早く終わらせろ」
その言葉にアレクシアは、不覚にもビクリとしてしまった。
アレクシアのことを心配してくれる誰かに、面と向かって終わらせろなどと言われたのは初めてだ。
もう頑張れない、早く終わらせてくれと散々思ってきたのに自分の目の前にその選択肢を突き付けられると、足がすくむ。
ノーラントは自分のことなどもう何とも思っていないと分かっているのに、自分が選べば、今すぐにでも変わってしまうであろう未来に怯んでしまう。
「私は…しない」
「なんでしないの」
「できないよ」
アレクシアは少し声を荒げて言った。
追い打ちをかけるように、聞かれたくないと思ってきた質問ばかりしてくるライドルトが憎たらしい。
彼はアレクシアのどんな答えが聞ければ満足なのだろうか。
アレクシアがどんなに愚かな選択をしていたとしても納得してくれるのだろうか。
どんなに無様な事をしていても黙って頷いてくれるのだろうか。
「お前さ、王子がいなくなったら、やりたいことも夢も何もかも全部なくなるってまだ本気で思ってるわけ」
「…そうだよ。無くしたくない」
だから私が何かをすることなんてやめてしまえばいいと思った。
私の叶えたいと思い描いた未来には彼がいるのに彼の思い描く未来に私がいないのなら、明らかな答えなど探す方が愚か。
だからもう考えなかった。
何かをすることだってやめる。諦めることもやめる。出来ることなどない。
そして、私が考えることをやめれば、婚約破棄をされるまでは婚約者でいられるよね?
「…そんなの無くなってもいいだろ。お前が悲しまない方が大事だろ」
「大事じゃない。だって」
「だってまだ好き、とかもう言うなよ」
ライドルトは眉間にしわを寄せていた。声がかすれている。
「…言うよ」
私が悲しまない事なんて大事じゃない。
何かを言われたら苦しんで、何かをされたら辛くなればいい。何も言われない事にも、何もされない事にも。
悲しいもう終わらせてと言いながら耐え続ければいい。
会いたい会いたくないと言いながら辛抱すればいい。
きっと、それほど悲しんで苦しむほど彼が好きなのだと、気づいてくれるよね。
だから私が辛いのを我慢したら、もう一度好きだと言ってくれるかもしれないよね?
「お前さ、好きならそんな辛そうな顔するなよ」
そういうライドルトも辛そうな顔をしている、ように見える。
だがアレクシアはそれをしっかり確認できる状態ではなかった。
「辛くても大丈夫」
「なら泣くな」
「泣いても、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。それにもう王子はお前の好きだった王子じゃないんだろ。そんな奴のために泣くな」
「…大丈夫」
もういない彼の面影を探して泣くのは、やめなくていい。
彼恋しさに、ずっと一人で泣き続ければいい。朝も夜も、夢の中ででも泣き続ければいい。
辛い助けてと泣き続ければいい。
今の彼も同じあの人だと性懲りもせずに思って震えていればいい。
きっと辛さを感じた分だけ、我慢した分だけ、報われるはずだよね。
報われなきゃおかしい。だからまた笑いかけてくれるって信じるくらいはいいよね?
そうだよね?それでいいよね?
それでいいと言ってよ。
アレクシアからは止められない苦しそうな声が漏れてくる。
アレクシアは毛布をギュッと握りしめて、拳をベッドに叩きつけて叫んでやりたかった。
すでに涙は勝手に目からボロボロ零れ落ちて止まらない。
それでも自分は大丈夫とばかりにアレクシアは涙を拭うこともしなかった。
キッと震える唇を引き絞ってライドルトを正面から見る。
視界はもう土砂降りの日のようで、今はライドルトの赤い髪の色が辛うじて見えるくらいだった。
「振り回されるのはもうやめろ。お前は頑張った。もう悲しい思いはするな」
しかしそんなアレクシアに対してライドルトの声は優しかった。
彼は、それを振り切るように声を上げて泣き続けるアレクシアの頭をポンポンと撫でてくれた。
「大丈夫だから…!」
だから、正しいことを言わないで。
間違った私を否定しないで。
私に決断させないで。私の背中を押さないで。
私に諦めさせないで。
したいこともない。叶えたい事も見つからない。
それでいいの。ノーラントがいないなら、そんなものこの世界のどこにもない。
…どこにもないはずなのに、するべきことならここにあると呼びかける声もアレクシアの中にはあった。
もう聞きたくないとばかりにライドルトの大きな手を振り払い、拒絶したアレクシアは毛布を頭からかぶってベッドの上で丸くなった。
分厚い毛布に光が遮られていて何も見えない。鼻がつまっているので口で息をすることにする。
この暗さ、この息苦しさ、身に覚えがあるとアレクシアは泣きながら思った。
…そうだ。
あれはアレクシアが幼かった時のことだ。
凄く辛いことがあって、泣いていた。
その時もこうやって毛布を頭からかぶって、全てを拒絶して震えていた。涙が止まらなかった。
ずっとずっと朝から泣いていた。
そして、気が付いたらノーラントが毛布を被ったアレクシアの隣にいた。多分、声をかけずにずっとそこにいてくれたのだと思う。
そのノーラントも静かに泣いていたけど、ようやく顔を出した涙と鼻水まみれのアレクシアに、なぜか怒っていた。
『泣いたら、次は笑わなきゃいけないんだよ。アレクシア』
きりりと綺麗な形の眉を吊り上げて、いつまでも泣き止まないアレクシアの涙を優しい手で拭ってくれた。
ならノーラントも次は笑わなきゃいけないんだよ!とアレクシアも泣きながら言ったことを思い出した。
あの時は二人で次に行けたけど、今は一人。
泣いていた私を次に連れて行ってくれたノーラントはいない。
今はもう、一人でも次に進めということか。
そんな厳しいことを言うのか。
私にそんなことができると思っているのか。
ノーラントがいたから頑張れたのに、それでも今私は一人で泣き止まなければいけないのか。
ノーラントはいつも凄く甘やかしてくれていたのに、変なところで厳しかった。
防具を着けずに稽古をしていたら怒られた。怪我なんてしないのに。
グリンピースを残したら怒られた。ノーラントだってトマトが嫌いなくせに。
ノーラントに貰った髪飾りが嬉しくて、アレクシアが照れてありがとうと言って逃げようとしたとき、もっと嬉しそうな顔を見せてくれと怒られた。いや、あれは怒っていたのではないかもしれない。ノーラントも照れていてくれたのかもしれない。
そういえばいつも照れながら、何があっても笑っていてくれと言ってくれていた。
今は、ノーラントに好きだと言ってもらえない自分を憂いて泣いているのに、何があっても笑っていてくれなんて言うノーラントを思い出すなんて、滑稽過ぎて笑ってしまう。
「でもやっぱり、もう泣くのはやめる」
アレクシアは被っていた毛布から顔を出した。
アレクシアは、
考えない分だけ、名ばかりの婚約者でいられただけだった。
泣いた分だけ、笑うことはできなかった。
我慢した分だけ、楽しいことはなかった。
本当は分かっていた。
もう次に進まなければとも思っていた。
諦めなければとも考えていた。
ノーラントのことは一生好きで、これからも何かあるたびに思い出すのだろうけど、そのたびに泣くのではなく笑うようになれるだろうか。
無理かもしれないけど、その分違うことで笑えるようになるだろうか。
できるだろうか。
できるか分からないけど。
でもあの時のノーラントに、もうお姉さんでしょ、大丈夫と言われる気がする。
「ライドルト、何でもいいから私のこと笑わせてくれない?」
ライドルトはアレクシアの顔をじっと見た。急に毛布から顔を出しておかしなことを言うハトコに面食らったのだろう。
「急だな…じゃあ、これからポチの前にたくさんおやつ置いてお預けさせてみるのはどう」
暫く考えて、彼は悪戯っぽく笑って見せる。
仮病で部屋に籠っていなければいけない人間を平然と外に誘う。
確かにあのフワフワの犬にじゃれつかれたら気が紛れるかもしれない。
アレクシアは観念したように仮病を使っている身だということに目を瞑り、罪悪感を無視して首を縦に振った。
思えばライドルトは昔からこうだった。
奔放なライドルトは悪いことでも堂々とするからあまり侍女や乳母にも怒られたことがなくて、考えすぎてしまうアレクシアがいつも共犯者だからと堪らなくなって怒られに行っていたのだ。
頭の良いノーラントとはまた違った意味で、要領が良かった。
この要領のいいライドルトのおかげで、仮病を使った身なのに部屋を抜け出して犬とじゃれ合っても、今日はもうこれ以上何事もなく終えられるだろうと思ってしまったのは、間違いだったのだけれど。