変わらず
アレクシアは、男達に休憩室にあるベッドに放り込まれる。
急いで起き上がろうとするも、その男性達と入れ替わるように現れた一人の男性に力ずくで押し倒された。
バタン、と音がして。アレクシアを引きずってベッドにぶち込んだその男の配下たちは、この休憩室のドアを後ろ手に閉め、外側から鍵をかけたようだ。
アレクシアの上に載って、その両手をきつく握って動かないようにしているのは、先程庭へ行かないかと誘ってきた若い男性だった。
よく見たら、第一王子派の七大公爵家の一つの分家出身の男性だった。
アレクシアは彼のことはあまり知らない。話したことがあるのも公務の時だけだ。
だが、思い返してみたらアレクシアは彼によくパーティで話しかけられていた。ノーラントがアレクシアを見限ってからはパーティ自体、強制参加のものしか行ってなかったがそこでも必ずと言っていいほど話しかけられていた気がする。
やはり第二王子派の妨害ではなくただの私情での行動だろう、とアレクシアは体をこわばらせた。
「…アレクシア様、ずっとお慕いしておりました」
眉を寄せているアレクシアのことをとろけるような瞳で見つめ、彼はそう言ってため息をついた。
そして抵抗するアレクシアの両手を彼女の頭の上で素早く縛り上げる。
まるで殺人事件が起こった現場であるかのように、アレクシアの紅い髪が一面に広がるベッドで、男はアレクシアの縛られた両手を片手で強くベッドに押し付ける。
そしてもう片方の手でアレクシアの頬を触ってきた。
アレクシアは必死で顔を背けるが、男の手はしつこく頬を撫でまわす。
「止めて」
アレクシアは強く言うが、微笑む男の手は止まらない。
アレクシアを無視して触り続ける。
その男の指が唇付近に這って来た時、食いちぎってやろうと歯をむいて首を振ったが、避けられた。
「っ、早く放しなさい!」
それならば、とアレクシアは腕の関節が引きちぎれるんじゃないかと思うくらい力を入れて、ガッと自分の両腕を下に引いた。
片手で押さえていたアレクシアの両手が抜け出てきそうで、男性は少し焦ったようだったがバッと両手でアレクシアの縛られた両手を固定することで、アレクシアの逃亡を防いだ。
次の瞬間、アレクシアの両掌と両足が付け根から、痺れたように動かなくなる。
…この感覚は、魔法か。
この男のこの魔法は高度な重力操作だろうか。
男をキッと睨んで、アレクシアは重く潰されたように動かない両手両足に唇を噛む。
男の魔法でベッドに押し付けられたアレクシアの腕は、もうびくともしない。
男は分家と言えども七大公爵家の出身。
流石、厄介な魔法を使ってくる。
男は満足そうに動けなくなったアレクシアを眺めて、彼女の美しい顔を両手で包んだ。
「貴方は婚約者に捨てられたんでしょう。それならば僕と婚約しましょう。僕は貴方を捨てたりしない」
「…っ」
「僕は貴方の元婚約者のように貴方をぞんざいに扱ったりしませんから」
アレクシアは、鎌のように目を細めている男から目を逸らした。
アレクシアとノーラントはもう婚約者ではないと思っている者がいる。
もう既にアレクシアはノーラントに捨てられたと思っている者がいる。
その未来はすぐにやってくる。間違ってはいない。
それには何も反応すまいと思ったのに、その事実を脳内で反復させたアレクシアの口からは勝手に、ははと乾いた笑いが洩れてしまった。
好きだった女性を組み敷いて主導権が自分にある状況に歓喜しているようだった男は、それを肯定もしくは諦めととったのか、
「多少順番が違ってもいいですよね」
と益々嬉しそうにアレクシアのドレスの胸元を舐めまわすように見る。
そして片手で固定されたアレクシアの顔に、うすら笑いを浮かべる男の顔が近づいてくる。もう片方の手はアレクシアの細くて柔らかい首に巻き付いて、そこから下へ向かおうとしている。
そんな下衆な男に嫌悪の表情を向けることももう疲れた。
アレクシアは虚ろな目で男を見る。
ボッ
呪文を詠唱をすることも、何かを念じることもなく、純粋に炎が発生しただけの音と共にアレクシアの両の手首に巻き付く大蛇のような炎が現れた。
何の前触れもなく突然現れた二匹のそれはアレクシアの腕を縛っていたものを一瞬で灰にし、ゆらりと鎌首をもたげる。
その弾けるような明るさを視界の端に捕らえた男の動きが、びくりと止まる。
それはメラメラと燃えて、瞬きをしている間にアレクシアの顔と体に無作法に触れている男の両手を這うように焼いた。
まとわりつくように燃える。
顔の真横で、じゅうううう、と血液が蒸発する音と肉が焼けこげる匂いがする。
嫌なにおいだ。
「うわああああ!」という野太い悲鳴と共に男がアレクシアの体を触っていた両手を離す。
男はばっと飛び上がってアレクシアから距離をとった。
その両手は真っ赤な火傷を負っている。ベッドも大きく焼け焦げてしまった。
…大丈夫。私なら大丈夫だから。
重力の魔法から解放されたアレクシアはベッドの上でゆっくりと体を起こす。
紅く美しい髪が、その体の動きに合わせて妖艶にアレクシアの肩にかかる。
2匹の炎の大蛇は、ゆっくりアレクシアの腕を上に這っていき、髪の間をくぐるとうなじの後ろに隠れるようにして消えた。
アレクシアのクロスライト家は炎の神の眷属と言われるほど、代々炎魔法に長けた一族だ。
その炎の神の寵愛を一身に受けたかのように、業火を手足よりも簡単に操るアレクシアの炎魔法の才能は、歴代でも指折りだった。
これも王子の婚約者に選ばれた時、決め手となったものの一つだ。
国母として国や民、王を守ることができる強い力、そして王家に取り入れるに値する優秀な血。
…守る物がない今となっては、人をけん制したり、殺したり傷つけるくらいでしか使えないけど。
ふっと遠くを見て笑ったアレクシアは、紅くて長い髪を翻してばっと布団から跳ね起きて床に足をつく。
しつこい男が泣き声をあげながら、後ろから腕を使ってアレクシアに抱きついて来ようとする。
混乱して訳も分からないままの行動なのだろう。
アレクシアはそれを少し不憫だと思った。
自分に似ている、とも。
だが、アレクシアは容赦なく振り上げた長い足で、男を一息に蹴り倒す。
アレクシアはその蹴り倒した勢いそのまま、部屋に備え付けられた椅子のうちで一番軽そうなものに手をかける。それを何とか持ち上げ、申し訳程度に付けられた休憩室の窓に投げつけた。
それは簡単に粉々にできた。アレクシアは躊躇なく外に飛び出る。
ここは一階だ。問題ない。
割れたガラスが素足に少しだけ刺さったが、きっと問題ない。
痛くてあまり上手く走れないが、多分問題ない。
後ろからアレクシアの名前を叫ぶ声が聞こえてきたが無視した。
男はアレクシアが振り返らず立ち止まりもしないことを知ると、付き人たちを大声で呼んでいた。
部屋の鍵は内側からでも開けられたが、外の廊下には先ほどの男たちが監視なり待機なりしていたかもしれないので逃げるためには窓を割ろう、と予想した通り、先ほどの男たちは部屋の外に待機していた。背後ろから聞こえてくる部屋の中の声が大人数のものになった気配がした。
だがそれでいい。誰かがあの男の火傷を手当てしてくれるだろう。
垣根をくぐり庭に出て、更に走る。
自分の息がはあはあと荒いのを感じる。素足で外を駆けるなんて、いつぶりだろうか。
…昔、素足で庭を駆けていたらノーラントに怒られたっけ。怪我するから靴を履けって言ってくれたっけ。それから自分の靴を脱いで貸してくれたっけ。
それじゃ自分が怪我をしてしまうのに。
アレクシアは昔のことをまた思い出してしまった。
いつも何かをすると、昔ノーラントと一緒にしたそのことを思い出してしまう。
…今は、そんなノーラントがいないから私の足にガラスの破片が刺さってるけど。
なんて自嘲していたら、虚しいことだと分かっているのにノーラントの顔が見たいという思いが急に湧き上がってきた。
無事だったのだから、男性に動きを封じられて肌を触られたことなど二の次であったかのように体は振舞っているが、心の底では大丈夫だったかと誰かに心配してもらいたかった。
いや、誰か、ではないことも認めなくてはいけないと思う。
その気持ちを意識し始めるとそれはむくむくと大きく膨らんだ。
ダンス会場にはリナリーと笑うノーラントがいることは分かっているくせに、もしかしたら彼が忽然と消えた私を不審に思うくらいはしてくれているかもしれない、という馬鹿らしい希望を持ってしまったのは、本当に愚かだった。
アレクシアは強い魔法も持っているし、武芸のたしなみも並みの女の子よりはあるので、あんなことがあっても気丈に振舞えていた。
だから自分でも朧にしか分からなかったが、きっとこの身に起こったことが怖かったんだと思う。だから馬鹿らしい希望を持っても今日くらいは叶ってしまうかもしれないという、気がしてしまったのだと思う。
周りの客たちに素足でいることを気取られないように姿勢を低くし、ボロボロのドレスを隠すようにこっそりとダンスの会場を覗いてみた。
人込みの中でも一瞬でノーラントを見つけ出したアレクシアの目に映った彼は、アレクシアを気にするそぶりを見せるどころか、リナリーとの話に集中していて周りさえ気にしていなかった。
彼はいつもと同じだった。
いつもと変わらず。アレクシアなんて存在していてもしていなくても、彼は変わらない。
アレクシアが襲われようと、誰と婚約してしまおうと、消えてしまおうと、何も関係ないのだ。
それを理解し、息を飲んだアレクシアは痛む裸足でその光景から逃げるように走って、送迎用の馬車に転がるように乗り込んだ。
馬車の中で破れて解れて乱れたドレスを直す。懸命に直す。
同じところを何度も何度もはたいて、汚れを落とす。
乱れた息も整える。
目を閉じる。パーティでの情景が浮かんでくる。目を開ける。
ならば、と窓から見える夜空の星を数えることで冷静になろうとした。
でも、何度も何度も同じ星ばかりを数えてしまう。
アレクシアが男に組み伏せられていた間にも、男に婚約を迫られていた時にでも、ノーラントはアレクシアのことなんて忘れてリナリーと幸せそうに笑い合っていた事実。それを反芻してしまう。
そんな昨日の出来事を、アレクシアはわざわざ誰かに言おうとも思わなかった。
誰かにあの男を裁いてほしいとも思わなかった。
それにあのアレクシアを慕っていると言った男はもうアレクシアのところに全身を焼かれるかもしれないリスクを負ってまで来ないと思う。
勿論ノーラントに言ったりすることもしない。
もうやめたいな、とアレクシアは思った。
もう…
アレクシアはいつのまにか、うすぼんやりとした視界の中にいた。
寝てしまってるのだろう。
…今何時だろう
と働かない頭で思った時、
全く霞がかって開いているのか閉じているのか良く分からない視界に、灰色がかった赤色の影が映った気がした。
その影はそこにあって、親指の腹のような固いような柔らかいもので、アレクシアの頬にある乾いた涙を拭ってくれた気がした。
それからその指の腹は移動して、唇に優しく触れた気がした。薄いガラスに押し付けるような、優しくて柔らかい感触だった。
ノーラントの夢?
はは、まさか。未練がましいにも程がある。
あんな体験をした後なのにこんなものを見て、嫌ではないのは私がここは安全だと思っているからだろうか、と脈絡もなく思った時にはまた意識が遠のいていて、それからどれだけか分からない時間が経った後、
コンコン
とノックされたドアの小気味よい音で、アレクシアは目が覚めた。