最初の一曲だけでも
社交パーティの日は、仏頂面のノーラントがクロスライトの邸宅までアレクシアを馬車で迎えに来た。
小さく眉をしかめて、アレクシアが少し触れるのさえも気に食わないとばかりに手袋を整えてから、ノーラントは仕方なくだが馬車に乗るアレクシアに手を貸してくれた。
アレクシアは小さく礼を言ったが、ノーラントからは気遣いの言葉はおろか、返事もなかった。
会場までの道のり、馬車の中の向かい合う二人はしばらく無言だった。
向かい合う、といっても、ノーラントは馬車内の左隅に座るアレクシアから最大限距離をとるように、右側の窓に寄って頬杖をついている。
久しぶりにノーラントと招待された今日のパーティの為に仕立て直した、ノーラントが昔好きだと言ってくれた美しい赤のドレスを着たアレクシアのことは、勿論見ようともしない。
彼は青いストレートの髪が美しい小柄で愛しいリナリー嬢のことを考えているのだろう。
彼女とはパーティ会場で待ち合わせしているから、早く会いたいと思っているのだろう。
本当は、連名で招待状が来ていた都合で迎えに来なければならなかった私ではなく、リナリー嬢を迎えに行きたかったんだろう。
…リナリー嬢に我が物顔で嫉妬をして、婚約者から拒絶されてもまだ厚かましく婚約者面してる私は、彼にとって相当面倒な女に違いない。
物理的にも精神的にも遠いノーラントを見つめたアレクシアの心は吹いたら折れそうだったが、
でも、と何とか声を絞り出した。
「…ノーラント様、今日は最初の一曲だけでいいので一緒に踊りませんか」
幼い頃のアレクシアは、まさか自分がノーラントにこんなお願いをすることになるだなんて夢にも思っていなかった。
以前のノーラントは、パーティでは絶対にアレクシアから手を離そうとしなかったからだ。
これよりもっと大きくて正式な舞踏会でもそうだった。
そこで、狂ったように宝石を身に着けた第二王子派の家の女性たちに、笑顔の面を被ったような顔で皮肉を言われても、不自然なほどに光るタキシードの第二王子派の家の男性たちに無作法にからかわれても、ノーラントは凛とアレクシアの隣に立っていた。
『君がいれば僕は何を言われても大丈夫だ』と言ってくれた。
その時のアレクシアはノーラントの手を強く握り返して、大きくなったら嫌味の一つも言い返せる聡明な女性になろう、と思ったことも憶えている。
そんな事もあったのに。
そんな事は嘘だったみたいに、今のノーラントはアレクシアが手を伸ばしても、それを拒絶して他の女性の手を取る。
「何故」
彼の口が氷のつぶてのような言葉を発してきた。
夕日のように燃える色の瞳を持っているのに、冷たい目だ。それは何の表情も無く、アレクシアを見てもいない。
「い、一応、貴方の婚約者ですから…」
「何を言い出すかと思えば」
「…最初の一曲だけ」
「他の男と踊ればいい」
ノーラントは相変わらずアレクシアの顔も見ずに言い放った。彼は終始冷えた無慈悲な顔を貫いている。
「私は他の男性とは踊りません…でも貴方は、またリナリー嬢の所へ…」
「…私の自由だ」
そう言ったノーラントは、ようやくアレクシアを見てくれた。責めるような眼で。嘲笑うような、軽蔑したような眼で。
アレクシアはグッと何かせり上がってくるものを堪えた。
「あの、それに私のことが、憎いと顔に…それでは周りに気取られてしまいます」
「私はお前が嫌いだ。事実が周りに気取られて何かまずい事でもあるのか」
「いえ、私は…」
王位継承権を勝ち取るために必要であるはずの、優秀なアレクシアとの関係が冷え切ったものだと宣伝して歩くような真似をしていいのだろうか。
と心配するのは建前で、本当は少しでもいいから、そのきつく絞った眉根を緩めて欲しかった。本当は少しでもいいから、そのきつく結んだ口元を緩めて欲しかった。
…それにその建前だって、よく考えてみれば説得力はまるでないのだろう。
私などいなくても十分勝算はある。第二王子は優秀だが、ノーラントも優秀だ。彼はきっと王位を継承できるだろう。
「なんだ」
「せめて…というか………いえ、貴方には関係のない事でした」
アレクシアを鼻で笑うノーラントの冷ややかな視線はアレクシアに降り注いでいた。
この視線よりも、突然降り出した雨の方がまだ温かい。
「あの、無駄ついでですが…公の場で他の女性と抱き合ったりするのは控えた方がいいかと…」
アレクシアはこわばった体を無理やり起こして続ける。
そんなアレクシアに対して、彼は全身でアレクシアが嫌いだということを伝えてくる。疎ましく思っていて、嫌悪の対象なのだと表現してくる。
今ではもうノーラントを前にするとこれ以上傷つきたくなくて、何故だと聞くことも、やめてくれと言うことも臆病になりつつある。
でも、ノーラントを前に自分が怯えたように反応してしまうなんて、認めたくないという気持ちもまだあった。
「も、もちろん、人目につかないところでも控えて…」
「…もう黙れ」
ノーラントはもうアレクシアから視線を逸らしてしまう。
もうアレクシアのことなど視界に入れたくもないのだろう。
アレクシアが大好きなその夕日色の瞳は、外の会場の何処かにいるリナリー嬢を一瞬で探し出して、愛しい彼女の姿を早く映したいと思っているのだろう。
「…」
アレクシアは喉の奥でつまった言葉に苦しんだ。
もはや彼の名前を呼ぶことさえも躊躇われる。
過去の彼女にとって、ノーラントは王子である前に自分に1番近しい人だったので、親しみを込めてノーラント、と呼んでいた。
それが今では、彼の名前を他人行儀以下にしか呼べない。
ノーラントも昔は、一人称は私ではなかったしアレクシアのこともお前とは呼ばなかった。
アレクシアが息を潜めるようにして黙り、しばらくしてから二人を乗せた馬車はパーティ会場に着いた。
今度は馬車から降りるアレクシアに手も差し伸べず一瞥もせず、ノーラントは勝手に一人で会場へ向かっていく。
パーティはアレクシアの家と同じく第一王子派の七大公爵家のうちの一つの家の主催である。
特に改まった物ではなく、ただの交流を深めるための社交パーティだから無礼講なところもあるが、やはり周りの目があるので一曲目は婚約者がいるならその相手と踊るのが普通だ。
だがノーラントは当たり前のようにリナリーと踊っていた。
彼の隣にはもはや当然のようにリナリーがいる。
彼女は花が咲いたような笑顔でノーラントのことを迎え入れる。
先程までアレクシアといて鉄面皮を貫いていたノーラントも、両手を絡めて楽しそうに話すリナリーに向けて幸せそうに笑っている。
…私はもうあんな風に笑えない。
あんな風にノーラントを幸せそうに笑わせてあげることもできない。
ダンスを終えたノーラントはリナリーを連れて、他の招待客たちに挨拶をし始めていた。
本当に実際の婚約者同士のようだ。
王家が本当にリナリーのような爵位が少し低い侯爵家の女性を王妃として認めるのかは疑問だが、リナリーの学園での成績はすこぶる良い。魔法の力と武芸はアレクシアに及ばないものの、もしかしたらアレクシアより優れているのではないかと思われるくらい勤勉で、才女と言って差し支えない女性だ。
アレクシアは幸せそうな二人から目を逸らした。壁際で目立たないようにひっそりと立っている。
今ではひそひそ話も大分落ち着いたが、ノーラントがアレクシアを嫌いはじめ、パーティのダンスでも露骨に避け始めた時は特に惨めだった。
婚約者の王子は別の女性にご乱心。無様に放っておかれた可哀そうな令嬢。
政治の道具としか使われていないにしたって、あからさまに愛されていないみすぼらしい令嬢。
今はもう、そんな噂に対して惨めさを感じる器官が麻痺してきている。
ぼんやりとしていたら、一人の男性に腫物を触るように優しく声をかけられた。庭に出ないかと誘われる。
首を振ってそれを断るアレクシア。
婚約者が失礼な男性に下心丸出しで誘われているのに、勿論ノーラントはそれをけん制しに来たりなどない。
ノーラントはアレクシアなどどうなってもいいのだ。
会場にいることが辛くなったアレクシアはトイレに籠ることにした。
暫く洗面台の前で鏡に映る自分の顔をぼんやり見て過ごした。
昔、ノーラントが綺麗だと言ってくれた濃い藍色の瞳には生気がなく。昔、ノーラントが触ってくれた白い頬は青ざめていて。昔、ノーラントがキスをしてくれた赤い唇は悲しそうに曲がっている。
いけない。トイレにいても参ってしまう、と拳に力を入れて立ち上がったアレクシアはキュッと眉を上げて決めた。
…今日は思い切って帰ってしまえ。
一応クロスライト家の代表として主催者に挨拶はしたのだ。責務は果たした。
一応連名の招待状通りに、王子と一緒の馬車には乗ってきた。これでアレクシアは用済みのはずだ。
そして決定打は、ノーラントがこのような粗相をするアレクシアに怒ってくれることももうないだろう、ということだ。
決めた後のアレクシアの行動は早かった。彼女は姿勢を正すと、スッとトイレから出た。
人影のない廊下を出口に向かって、早足で進む。
門では誰でも使える送迎用の馬車が何台かは待機しているはずだ。
絨毯の敷かれた高級な作りの舞踏館の廊下を足早に進んでいたら、後ろから複数の人の気配を感じた。
しかしアレクシアは振り返ることなく進む。
…会場に戻ろうとするなら反対方向の廊下を使うべきだし、私と同じように帰ろうとしている人達がいるのだろうか?
となかなか消えないその人達の気配をアレクシアが気にし始めた時、
後ろから男性のものと思われる大きな万力のような手がたくさん伸びてきて、腕を掴まれた。
アレクシアはぞっとした。
どこかの貴族の従者たちと思しき恰好をした男性達がアレクシアを後ろから固定している。
アレクシアはその男性達に握られた腕を振りほどこうとする。
しかしたくさんの男性の手は流石のアレクシアも振りほどけないほど強い。
そして強い力で全身が引きずられる。
逃げられない。
男性達はアレクシアを何処かに引き摺り込もうとしている。
まずい、と思って咄嗟にハイヒールを脱ぎ捨てた。
自分で立って、自分で戦えるように脱ぎ捨てた。
本能的に、助けが来ないことは感じていた。
この会場で、私がいなくなった事に唯一気づけるはずのノーラントは、私が消えていても気にしないであろうという絶望的な自信があったからだ。
…この男等は第二王子派だが穏健派と見せかけて侵入した第二王子派の過激派の者なのかもしれない。
とアレクシアは必死に抵抗しながら思った。
同い年である第一王子と第二王子が学園を卒業するタイミングで継承の儀があり、そこでどちらが王位第一継承権を持つか決まるので、ここ一年ほど前から、第一王子派の父や叔父たちが他の3つの公爵家の面々と奔走していたのは知っている。
だから第二王子派が、第一王子の持つ強い武器の一つである、優秀な妃候補のアレクシアを妃として機能しないようにしようとしているのには合点がいく。
…合点が、いく…か?
いや、ノーラントの王位継承争いにアレクシアの力は必要ない。よってこれから王子に破棄をされるみすぼらしい武器である令嬢をわざわざ傷物にしたところで、ノーラントに打撃を与えられるとは思えない。
ノーラントがアレクシアを死ぬほど嫌っていて、リナリーを正規の婚約者に据えるのは時間の問題だというのは、ほとんど周知の事実のようになってしまっているのだから。
怖い、と思ったが、同時に激しい虚しさが湧き上がってきた。
アレクシアがそれを感じた瞬間には、もう強引に休憩室という名の小部屋に引きずり込まれていた。