王位継承の儀式
コツ
アレクシアは馬車から降りる。
コツ
コツ
父親も母親ももうすでに会場入りしているし、ライドルトは騎士団として会場を護衛しているのでアレクシアと共に会場に入ることはない。
コツ
コツ
コツ
会場に向かいながら話している人の声よりも、自分のハイヒールが立てる音の方が妙に耳に響く。
コツ
コツ
アレクシアは会場である王宮の大広間に向かっている途中に誰かと挨拶をしたが、その人の名前はもう憶えていない。
誰かに声をかけられたが、何を聞かれ何と返事をしたかもう思い出せない。
別に緊張しているわけではない。
私は今日、ただじっとやり過ごすだけでいい。
自分に与えられた席に案内される。
思ったより舞台に近い席だった。
無難に上質で適度に派手で当たり障りのないドレスの裾を摘まんで椅子に腰かける。
ハイヒールのつま先を丁寧にそろえて姿勢を正す。
国賓や国の幹部クラスの人たちも向こうに見えるが、まだ当主にもなっていないので彼らに挨拶する義務はない。
クラスメイトの顔もちらほら見えたがアレクシアは、特に誰かに声をかけたり手を振り合ったりすることもしない。
暫く席について待っていたら、あっという間に式典が始まる時刻になった。
席を離れて誰かとペチャクチャお喋りを楽しんでいた人達も、いつの間にかしっかりと自らの席についていて姿勢を正している。
舞台に皆が注目する。
椅子も台座も全て白亜の石で作られているようで、絨毯も白、舞台の奥に見える国旗も白。
シミも影もない真っ白な舞台は清潔で神聖だった。
厳粛な雰囲気の中で長い前置きが終わり、客席がもぞもぞと姿勢を変えたり足を組み替えたりし始めた頃。
ようやくノーラントとオズワルドが舞台上に姿を現した。
二人とも、特に緊張した様子はなく淡々と定位置まで歩く。
左右に分かれたノーラントとオズワルドは濃い青の正装で最後に現れる女王の為に恭しく頭を下げる。
白いキャンバスのような舞台に表れた2人は、弾かれるように鮮やかだ。
最後に舞台の奥から現れた女王は真っ白なドレスに身を包み、重そうな長いマントを引きずっていた。
由緒ある式典に参加するときのこの国の王はいつも白いドレスと白いマントを身に着けている。
白はこの国を象徴する色だ。式典では王だけが身に着けることを許される。
高潔で誠実な色だと言われているが、良くも悪くも自由で中立、そして何色も拒まないこの国の歴史を反映しているような色だ。
舞台の中心に立った女王は、深々と礼をした二人の王子に顔を上げるように言う。
女王の両側に立つ王子はゆっくりと顔を上げた。
二人の王子に微笑みかけ、客席にも視線を投げる。
「第23代目王位継承者の任命式を始めよう」
アレクシアはこの凛とした声を持つ女王には何度か会った事がある。
特に親しく話した記憶はないが、性格は淑女や高貴な女性というより男らしい感じだったことを覚えている。
戦場にも率先して出ていくような女傑だったという逸話があるのも頷ける。
因みにアレクシアは、父が女王と近いところで仕事をしているという理由もあり、彼女から義理で誕生日プレゼントを贈られたこともあった。
女王が二人の候補者の名前を呼ぶ。
そして続ける。
「ノーラントとオズワルド、貴方たちはどちらも人らしく愛を持ち優しさを持ち、同時に愚かなところも臆病なところも持ち、それゆえに人の上に立てる強さも賢さも持っている。
そう、どちらも王になれる器を持っていると私は信じている」
「しかしこの国で王と名乗れるのは一人だけ。
今から名前を呼ぼう。
ここで王位継承権が与えられた者は明日、王家に伝わる神聖な儀式でその体に王の紋章を授けられる。それが完了すれば貴方は私が引退した後にこの国を治める王になる」
女王は貴方、と言うがその目はノーラントとオズワルドのどちらも見ていない。
今この場で余裕をもって息をしているのはこの女王だけだ。
他のものは息を殺して彼女の次の言葉を待っている。
張り詰めた空気にノーラントとオズワルドの筋肉がきしむ音が聞こえるかのようだ。
会場がそれくらい静まり返っている。
「ノーラント・ヴァン・オーフェン、明日貴方が王の紋章を受け取りなさい」
会場が一斉に息を吐いたことが感じられた。
ノーラントの顔がわずかに緩み、オズワルドの顔が小さく歪む。
真っすぐに左胸に右手を当て、ノーラントが深く礼をする。
顔を上げたノーラントの青いマントが身長の高い彼を更に大きく見せ、客席が彼を見る視線が一気に威厳のある王を見上げる目に変わった。
ノーラントが次の王。
アレクシアはノーラントが王になるのだと思ってはいたが、実際に呼ばれた彼の名前を聞いた時には意図せず鳥肌が立った。
彼には王にのみ許された白い正装が似合う事だろう。
やることは終わったとばかりに女王はスッと身を翻し、舞台上から消えた。
その後に宰相の男が流れるように出てきて粛々と礼をし、式の閉会を宣言した。
舞台上は厳格な雰囲気が漂っているままだったが、客席は音を立てずに興奮していて、しっかりと挨拶を聞いている者はアレクシアくらいだった。
皆これからの身の振り方を考えていたり、これからこの国がどうなるか持論を仲間と話したくてうずうずしているのだろう。
挨拶が終わって閉式した瞬間、アレクシアの隣の者は立ち上がって興奮したように何処かへ去った。
アレクシアの後ろでは大いに興奮した男性の話声が聞こえる。
客席は皆そんな感じだ。
舞台からそのまま客席に降りてきたノーラントは、無礼講だとばかりに近しい人間から祝いの言葉の洗礼を受けていた。
その中には笑顔のリナリーの姿もある。
青くて短い髪によく合う綺麗なドレスを着たリナリー。
第一王子派の各家とも関係は良好なようで、彼女はノーラントを囲む人の輪に溶け込んでいる。
あの中に私がいたはずだったのかなと考えることは、ただひたすらに無意味である。
アレクシアは動く気になれず、そのまま席に座ったままでいた。
「アレクシア・ヴァン・クロスライト」
それは突然だった。
ノーラントが放った鋭い声に、客席にいたアレクシアはゾクリとした。
好きだった人の口で、自分の名前が発音されたらしいと脳が状況を整理するのに果てしなく長い時間がかかった。
さっきまで大勢に囲まれていたはずのノーラントは、舞台の方からこちらに歩いてきているらしい。
ゾクリとして、足がすくむ。
なぜ彼がこちらに向かってくるのか。
よく考えたら、分かった。
思えばノーラントと婚約破棄をしようと踏ん切りをつけた後日、父には『すぐに婚約は破棄されることだろう』と言われていた。
アレクシアはその言葉を疑いもしなかった。
憎んでいるなら早く切り捨ててくれと婚約破棄を申し出てあれだけお膳立てしてあげれば、ノーラントは喜んですぐに婚約破棄をしてくれるものだと思っていた。
彼自身もすぐにすると言っていた。
アレクシアは婚約破棄をされたように振る舞って『破棄されたぞ』と父の口から聞けるのを待っていた。
しかしなかなか聞けないその言葉に、父も報告を忘れるくらい婚約破棄は自然なことだったのだろうと最近は思うようになっていて、アレクシアも進捗を聞くのが億劫で、ノーラントの名前さえ忘れるために都合よく目を背けていた。
だが直感した。
婚約破棄は今される。
彼は今日この日、王位を継承できることが決まったこの日に全てを清算したいと思ったのだろうか。
もしくは、大勢の来賓客の前で盛大にけじめをつけたいと思ったのだろうか。
それとも、ただアレクシアが憎くて大勢の前で断罪してやろうと思ったのだろうか。
理由は考えても分からない。
彼が何を考えているのかは、もうとっくの昔に分からなくなった。
だが、今彼がアレクシアの名前を呼ぶ理由は一つだ。
それだけは分かる。
待たされて待たされて、遂に婚約破棄をされる時が来た。
長かった。
その覚悟も疾うの昔にしていたが、やはりこの冷たい声を聞くとアレクシアの足はすくむらしい。
…しかし最後まで怯まず凛と立って居よう。婚約者から疎まれた私には、それしかできることはない。
「はい」
アレクシアはゆっくりと返事をして立ち上がった。アレクシアの深紅に光る髪が揺れた。
周りの客たちが何事かと顔を見合わせ、ノーラントとアレクシアを見ている。
アレクシアは目を開けて、目の前の舞台から自分の方へ向かってくるノーラントを見つめた。
彼女の果てしなく静かで深い夜のような藍色の瞳が、ノーラントの焼け付くような夕焼け色の瞳を捉える。
アレクシアは再びゾクリとした。
好きだった人の視界の中心に自分がいると感じて、震えそうになった。
…こんなにちゃんと目が合ったのはいつぶりだろうか。
大好きだった婚約者のノーラントが断罪の言葉を述べるまでに、果てしない時間が流れた気がした。
久しぶりに見た彼の目に、記憶の奥深くに埋めたはずの思い出が迂闊にも転がり出てきて、止まらなくなった。
これはもしかして死ぬ間際なのだろうかと思うほど、たくさんの美しい思い出が脳裏によぎる。
そんなものとっくに破いて千切って燃やして灰にしたと思っていたのに、溢れてくる。
花で冠を作ってくれた幼いノーラントの綺麗な顔。アレクシアが悪戯をしてノーラントを酷く怒らせた時の眉間にしわを寄せた顔。武術の稽古で負けて悔しそうな顔。誕生日プレゼントをあげた時の嬉しそうな顔。足を折った時にお見舞いに来てくれた心配そうな顔。
そして、『この国で一番のお嫁さんが貰える僕は幸せ者だ』と笑ってくれたノーラントの顔。
アレクシアは呆れたように笑った。
どれだけ覚悟していようと、どれだけ婚約破棄を望んでいたのだとしても、辛いものは辛いらしい。
吹っ切れたと思っていたのに、やはりまだ思い出してしまうらしい。
とことん救えなくて笑ってしまう。
いくら刺すような言葉で気持ちをボロボロにされても、何の感情もないガラスのような眼で見つめられてもう愛していないと伝えられても、嫌いも通り越して無関心になられても、やっぱり好きだったことを思い知る。
大好きだった、ことは思い知る。
でもそれは悟られてはいけない。
過去のことに流されてはいけない。
その為にこの半年準備してきた。
私だって、彼無しで楽しい毎日を送れている。
これからは愛するリナリーとお幸せに、と言って笑うんだ。
笑え、笑え、笑え。
「ッ…」
必死に言い聞かせたのに喉から出かかったのが祝福の言葉ではなく、嗚咽だったことにアレクシアが愕然とした時。
…え?
アレクシアはハッと顔を上げた。
幻覚とは思えない、目の前のノーラントの手が彼女の頬に触れていた。
アレクシアの涙を拭う体温を感じる。
今までアレクシアに向けてきた虫でも見ているかのような顔とは全く違う、優しい顔でノーラントが目の前にいる。
ノーラントの口は何かを伝えるためにはっきりと動いた。
「…………」
しかし突然雨が打ちつけるように何発も発砲された銃声により、彼のその声が何を伝えようとしていたのか、アレクシアの耳にその言葉は届かなかった。