クリーム
いつもなら神秘的な長寿の木で作られたような厳かな雰囲気漂う図書館が、今日は更に賑わっている。
勉強机はほとんど埋まり、数日前にアレクシアに散々言いたい放題言ってきたアメリアでさえ取り巻き達と図書館に訪れて、数冊参考書を借りて出ていった。
いよいよ試験勉強も大詰めだ。
参考書を流し読んでいたアレクシアが隣を見ると、ライドルトが頭を抱えてため息をついていた。
アレクシアが少し解説をすると理解したようだったが、また少ししたら頭を抱えていた。
アレクシアは思う。
ここ最近、ライドルトは勉強のしすぎなんじゃないだろうか。
ライドルトの得意分野は勉強ではない。
それを、最近アレクシアに付き合って、彼としては過剰に勉強している気がする。
アレクシアは何気なく、あることを提案した。
「は。今からって」
参考書とにらめっこをしていたライドルトが顔を上げ、声を上げた。
「うん。今から一緒に街行こ。それで、甘いものでも食べるの付き合って。勉強したから甘い物たべたい」
アレクシアは力を込めて頷いた。
「いいけど…お前もう試験勉強しなくていいの」
「私はしなくても余裕」
「俺は………今夜徹夜するわ」
アレクシアにそんなことを聞いた自分が馬鹿だったとライドルトの顔に書いてある。
彼は目の前の生き生きしたアレクシアを見て、諦めたように本を閉じて立ち上がる。
一方のアレクシアは優しい兄のようなハトコに感謝する。
ライドルトは、自己中な我が儘をあまり嫌がりもせずに聞いてくれた。
アレクシアがこんなことを言いだしたのも、ライドルトの息抜きだけが理由じゃない。
息抜きという名目で、何故だか急に我が儘を言って甘えてみたくなったのだ。
もう誰かに甘えてもいいのかもしれないと思えたのだ。
アレクシアはこういう事も、最近はずっと我慢していた気がする。
我が儘を言えばそれを武器にまた傷つけられる気しかしなかった。
甘えてみようとすれば、振り払われて冷ややかな目で見られる気しかしなかった。
この世には甘える自分を受け入れてくれる人なんて、誰一人としていなくなってしまった気がしていたあの時。
でも、そんな不安はきっともう感じなくていい。
アメリアにだって言ってやった。
はっきり声に出した。
はっきりと認めて、宣言した。
ノーラントは憎くさえない。
もう何の感情も残っていないと。
復讐なんて言って彼に関わりたいとも思わない。
全部終わったのだと。
「どこ行きたいの」
そう言ってカバンを持って歩き出したライドルトの横に並ぶアレクシア。
「今流行ってるデザートのお店に行ってみたい」
アレクシアが言うと、ライドルトが仕方ないなと頷いてくれた。
仕方がないと言いながら、彼の顔は優しかった。
あの落ち込んでいたアレクシアから普通の女の子みたいな我が儘を聞けたのだ。
きっと、そのことに安心したのだろう。
「へー、今こんなの流行ってるの」
もしゃもしゃと手に持ったクレープを咀嚼しているライドルト。
でも流行りに敏感な友達が何かこれのこと話してた気はする、とライドルトは言っていた。
「学園の女の子たちの間で人気らしいよ」
アレクシアもぎこちなくクレープを齧っている。
私は廊下で令嬢たちが話してるのをたまたま聞いたんだ、とアレクシアは言う。
街に繰り出した二人は、貴族がよく訪れる高級な商店街の一角にあるクレープショップでご令嬢やカップルたちの間に挟まって、20分ほど並んでようやく注文できた。
クレープショップは最近できたようで、真新しいピンクのこじんまりとした建物だった。
クレープにも沢山の種類があり、トリュフやフォアグラクレープなんて言うのもあった。
流石、高級な商店街に店を構えるだけある。
メニューを舐めまわすように見ていたアレクシアは、ようやくどのトッピングのクレープにするか二つに絞れたが、最後の二つで決めきれなかった。
苺とブルーベリーで迷ってしまった。
そんな彼女を見て、ここでもライドルトが仕方ないとブルーベリーを選び、腑に落ちた顔のアレクシアが苺を選んだ。
手で持って食べるクレープに少し苦戦するアレクシアは、隣に座っているライドルトの横顔を盗み見る。
ライドルトも手で持って食べるデザートなど食べたことはないだろう。
彼はアレクシアよりも重症で、すでに色々なところにクリームが付いている。
王妃候補だった頃は、こんなことは絶対にできなかった。
アレクシアは幼い頃から王妃になれるようにずっと窮屈な生活を強いられてきたからだ。
試験が目前まで迫っているのに放課後街に繰り出すような中流の貴族に友達は作らせてもらえなかったし、そもそも友達をたくさん作る暇もないほどノーラントに付きっ切りだった。
食べ物を手でつかんで口に運ぶことは許されなかっただろうし、野ざらしのベンチに座ることも、放課後街を歩き回ることもできなかっただろう。ましてやこんな風に街に来て、同年代の女の子たちに人気のデザートを食べる機会など完全になかった。
だが、これからたくさん、アレクシアにとって特別な普通のことだってできる。
これでいいと思うのだ。
変わることは、怖い事じゃない。
「ブルーベリー、味見させて」
アレクシアは、ライドルトのクリームが飛び出たクレープを指さした。
チビチビ食べるのに飽きたライドルトがグワッと齧ったらクレープの皮が破裂して、クリームが爆発したのだろう。
「あー…これクリームベタベタだし、また新しいの買ってきてやるよ」
アレクシアが一口貰おうとすると、彼はほっぺや手にクリームをつけながら困った顔をしてクレープをアレクシアから遠ざける。
「もう一回並ぶの嫌でしょ。それでいいよ」
「じゃあ…気を付けて齧れよ」
アレクシアの説得力のある一言に、ライドルトは爆発したブルーベリーのクレープを差し出した。
彼女はあまりクリームが飛び出ていないところを狙って齧りついた。
アレクシアの小さな口が食べかけのクレープを小さく切り取って、ブルーベリーのクレープを味わう。
感想としては、ブルーベリーより苺の方が好みだった。
いや、クリームが飛び出してしまって味わえなかったからこの評価なのだろうか。
「ありがとう。あとライドルト、ほっぺにもクリームついてる」
ハンカチで口の周りを拭きながら、アレクシアはライドルトに言う。
「知ってるって。全部食べてから拭くから」
ライドルトは恥ずかしそうに残りのクレープを口に押し込んだ。
それからもごもごと頬を膨らませて咀嚼している。
苺のクレープを既に食べ終わったアレクシアは、ハンカチを構えてライドルトに聞いた。
「ほっぺ、拭いてあげようか」
「いらね」
間髪入れずに返事が返ってきた。
「手を洗いにお店に戻った時、ほっぺにもクリームたくさんついてるから笑われるかも」
「でも自分で拭くって」
ライドルトは、手についているクリームをぺろりと舐めていた。
「ライドルトの手、クリームまみれだよ。それで拭いたらもっとクリームつくよ」
「大丈夫だって」
ライドルトが比較的クリームの付いていない自らの手の甲で頬をぐいっと拭った。
案の定、追加のクリームが顔に伸びる。
「ほらね」
ごしっ
堪らなくなったアレクシアは、有無を言わせずライドルトの顔を力強く拭いた。
それでライドルトを黙らせると、アレクシアは何気なく片手をライドルトのもう片方の頬に添えて、もう片方の手に持ったハンカチで頬についているクリームを拭う。
「騎士団の隊長が、子供みたい」
最後のおまけに、そのまま彼の顔を覗き込むようにして笑ってやる。
ライドルトの騎士団の同僚が、クリームをほおにつけてきょとんとしているライドルトを見たらどう思うだろうか。
みんな、可愛いと言って笑うかもしれない。
「アレクシア、近い」
身をよじったライドルトは唸るように言って、静かに眉間にしわを寄せている。
「近すぎるから。そういうこと、ハトコにするな」
「ハトコだからできるんだけど」
何食わぬ顔で元の位置に戻ったアレクシアはライドルトを横目で一瞥すると、ハンカチをたたんでカバンにしまい始める。
「…バーカ」
ライドルトは、いつもの調子で一言そう言った。
まったくいつもと同じ調子の声で。
まったく同じ過ぎて、誰も何も気が付かないような声で。
アレクシアはふっと笑った。
楽しいと、言える。
これでいいのだと考える。
ちゃんと笑える自分は幸せなはずだ。