つかの間
アメリアの長い長い質問に驚いて、アレクシアは何と答えたかはっきりと覚えていない。
はいと答えたかいいえと答えたか、覚えてもいない。笑ってごまかした気もするし、質問に質問で返した気もするし、そもそも答えていない気もする。
適当に考えた答えを言った気もするし、無難な言葉を選んだ気もするし、真剣に回答した気もするし、求められるままに返答した気もする。
それからアメリアから接触されることはなく、何だったのだろうと思っていたらもう数週間が経っていた。
今日のアレクシアはライドルトに稽古をつけてもらっていた。
ライドルトは騎士団の招集にも応じなくてはならないので忙しいはずなのに、以前より多い頻度で稽古を付けてくれている。
稽古終わりに、ふうと息を吐きながら訓練場の外にある芝生の上に座り込んでタオルで汗を拭く。
アレクシアのその腕にある擦り傷もかさぶたになっていて、あとはかゆいのを我慢しながら自然に剥がれるのを待つだけというところまできた。
柔らかいタオルを少し湿った肌に当てている間、からりと晴れた秋の空を見上げる。
薄青い空の色は、少し落ち着き始めた季節の色に良く映える。
陽はまだ温かいし外でも読書できるな、と思ったところでどさりと隣で音がした。
ライドルトだ。
2つ飲み物を持っていて、片方の飲み物をアレクシアに渡してくれたので、アレクシアももう一つ持っていた新しいタオルをライドルトに渡した。
「そういえば、ライドルトはアメリア様と話したことある?」
アレクシアが受け取った飲み物をグイっと飲んでのどを潤したところで話し出す。
それに返事をするライドルトは飲み物から離した口を拭う。
「第二王子の婚約者のアメリア?騎士団がオズワルドの屋敷の護衛に駆り出されてた時、よく話しかけられたけど。なんかあったの」
「ちょっとね。
…アメリア様って普段は、明るくて友達多い感じだよね」
「まあ、そうかもね。でも第二王子と一緒で、腹の中では何考えてるか分からない感じするけど」
アレクシアは、あの日話し終わった後のアメリアの顔を思い浮かべていた。
そしてその婚約者のオズワルドの顔も思い浮かべる。
金髪碧眼の派手なアメリアの隣に立つ、同じく金髪碧眼の豪華な王子。
豊かな稲穂を連想させるような金髪と、どこか満たされない底なしの海のような緑の目の第二王子。
人の目を集める華やかさがあるのに、何となく好きになれないオズワルドの笑顔が思い浮かんできた。
「…あのさ昔、ライドルトが騎士団の仕事でオズワルド様のお屋敷に行った時、オズワルド様が出て来た部屋の奥に女の子が見えたって言ってたことあったよね」
「いつの話だよ。全然覚えてないけど。部屋の奥にいた女の子って、メイドとかだったんじゃない」
「薄い桃色の髪の女の子だったって」
「珍しい髪の色かもしれないけど、覚えてないな」
「アメリア様じゃない女の子で、オズワルド様がその子のこと凄く嬉しそうな顔して振り返ってたって言ってたよね」
その話をライドルトから聞いた時、アレクシアは珍しく他人のゴシップに興味を持ったことを覚えている。
たくさんの女の子に囲まれても綺麗な微笑みを一切崩さないオズワルドが、目じりを下げて嬉しそうに笑いかけたくなる女の子が婚約者ではないなら、一体どんな子だろうと思ったのだ。
「あー…」
「思い出した?」
「そういえばそんなこともあった気がする。なんかお前、その子が第二王子の腹違いの妹なんじゃないかって言ってたな」
その話を聞いた時にそんな感想を述べた憶えはある。
王族でも隠し子がいる可能性は十分あるだろうし、金髪のオズワルドと薄桃色の髪の女の子に血のつながりがあるのが有り得ないわけではないのだが、今思えばなんとなく説得力に欠ける気がする。
「やっぱり恋人だったりして?まさかそれはないか」
「いや、あるかも。ちょっと今思い出せないけど、俺その女の子の名前も知ってた気がする」
ライドルトは必死に思い出そうとしていたが、そんなに気になっているわけでもないしまた思い出したらでいい、と言ってアレクシアは飲み物を飲んだ。
稽古終わりの少しの休憩の後、訓練場に来たついでにライドルトの分家の屋敷に寄り、彼に貸していた魔法陣の授業の参考書を持ち帰ることにした。
ここ5、6年は稽古こそ欠かさなかったが、それ以外でライドルトと一緒にいることはあまり無かった。
しかしノーラントと一緒にいることも一人で泣くことも無くなって時間がある今、アレクシアはライドルトとよく一緒に勉強したりもしている。
「って。お前は部屋までついてこなくても、広間とかで待っててくれればよかったんだけど」
「部屋まで取りに来た方が早いよ」
そう言ってライドルトが振り返って、後ろにいるアレクシアが彼を見上げた時には、二人とも既にライドルトの部屋の中にいた。
相変わらずの、武器屋とトロフィー屋を合わせたような部屋だ。
そこに申し訳なさそうに机とベッドがある。
机に一直線に向かって行ったアレクシアが、山積みの本の一角にお目当ての参考書を見つけ、引っ張り出す。
そのお目当ての参考書と共に、その上に重ねられていた本も出て来た。
少しボロボロになった図鑑。
易しい言葉で書いてある、分厚い図鑑。
「これは、懐かしいね」
魔法図鑑という本だ。
種類豊富な固有魔法が簡単に図解してある、職業図鑑の魔法版ともいえるような子供向けの図鑑だ。
アレクシアはその重い本を手に取って開いてみる。
懐かしい紙の匂いがした。
この本は、昔ライドルトがお兄さん面をして読んでくれた本だ。
でもいつもライドルトが読み間違えるので、指摘したらもう読んでやらないと言われたので、アレクシアが泣いた記憶がある。
読んでくれと泣いたら、ライドルトは仕方ないなと言いながらまた読んでくれた。相変わらず読み間違えていたけど。
「お前が火魔法を覚醒させる前は、自己再生の水魔法が使えるようになりたいってそれ見ながら言ってたな」
「そうだっけ。覚えてないけど、うちは火魔法の家系だから水魔法は流石に使えるようにはならないよね」
自己再生の水魔法。
魔法図鑑には今まで発見された色々な魔法が載っていたが、そのなかでも幼いアレクシアは自己再生の魔法が欲しかった。
昔たくさん怪我をしていたアレクシアは、痛いのが早く治るこの魔法が欲しかった。
だがそれを思ったのは幼い幼い頃で、ある時から崖から落ちて骨折した以外、怪我をしなくなったのでそんな風に思っていたことなどすっかり忘れていた。
「そういえばお前さ、昔ライドルトのお嫁さんになるのが夢ーって言ってたの、覚えてる」
アレクシアが懐かしそうにパラパラ図鑑をめくっていると、ライドルトが後ろからいつもの調子で声をかけてきた。
「…?いつのこと?」
「お前が5歳とか6歳の頃」
「そんなこと言ってたんだ。覚えてないな」
そのようなことは憶えてない。
でも違う事ならたくさん憶えている。
一緒に木登りしてアレクシアが木を折った時に、そのままにしておこうというライドルトを振り切って自ら怒られに行ったことや、捨て猫を一緒に拾ってきて飼いたいと言って泣いたことだとか。ライドルトは秘密で飼えばバレないだろと言っていたけど、結局アレクシアがライドルトを振り切って両親に捨て猫を飼う許可をもらいに行き、玉砕した。
今思うと、捨て猫のことについてはライドルトの言うことを聞いておけばよかったなと思う。
「覚えてないか。それでお前、二人で犬も飼うんだって言ってたけどね。あの頃はお前も小さくて、今みたいに頑固じゃなくて可愛かったなー」
明るい調子で言うライドルトを、アレクシアは『もうあの頃みたいに可愛くなくてすみません』という目で睨んでみた。
それを視線で表現しているうちに、ふと考えてしまう。
頑固だとか素直じゃないとかよく言われるが、こういうところが駄目だったんだろうか。そういうところも好きだと言ってくれたが、やっぱり可愛くなかったのでは、
…と思ったところでハッと我に返って首を振る。雑念を散らして、急いで会話の内容に意識を戻す。
「でも、ライドルトの旦那さん役になっておままごとしたことは憶えてるよ。その時も犬がいたら良かったのにって思ってたな」
「俺も覚えてるよ。お前は稼ぎがいい旦那さん役で、俺に楽させてやるからなって言ってた」
「ライドルトはお嫁さん役だったもんね。泥団子作ってたね。昔から器用だったよね」
そういえば、気持ちの良い木陰の下の芝生の上に布を敷いて、家に見立てて遊んでいた。
ライドルトはお嫁さんの役だったので、危険だから布の上から出てはいけないと言って、旦那さん役だったアレクシアが庭の隅まで行って小枝を集めていた。
その時は、お嫁さんに良い暮らしをさせてあげることができるお金持ちの狩人になりたかったので、お供してくれる大きな犬が欲しいと言っていたのも思い出した。
我ながらあまり女の子らしくない過去である。
色々思い出したら、アレクシアは少し楽しくなってきた。
小さいライドルトは何か文句を言いながらも、布の上でずっとアレクシアが庭の隅から帰ってくるのを待っていてくれて、それだけでなく泥団子も作って、夕ご飯だと言ってくれていた。
何だかんだ文句を言うが、きちんとお嫁さん役の使命を全うしてくれたあたり優しいなあとアレクシアは思い、大きくなった今のライドルトの横顔を見る。
アレクシアの横にいる手持ち無沙汰な彼は、本の山から適当な本を手に取って何気なくめくっている。
「ははは」
今のライドルトが布の上で座って泥団子を作っているところを想像したら面白くなってきてしまった。
ライドルトは手が大きいので泥団子も大きくなるだろうし、布だってあの頃と比べたら凄く小さく見えるだろう。とてもじゃないがお嫁さんという感じではない。
「なに笑ってんの。変なやつ」
「なんでライドルトがお嫁さん役やってたんだろうね」
「いや、お前がやれって言ったんだよ」
ライドルトはやれやれという顔をしている。
言われてみれば確かに、お嫁さん役をやってくれとライドルトに泣きついた記憶がある気がする。
やれやれだとアレクシアが笑うと、ライドルトはガシガシ頭を撫でてくれた。
相変わらず犬を撫でるみたいに撫でてくる。
それから会話がいち段落したところで、アレクシアは参考書を脇に抱えて家に帰った。
返ってきた参考書を自室で開いて勉強をしながら思う。
落ち着いて周りを眺めてみれば、アレクシアの今まではノーラントだけでできていたわけではないことに改めて気が付いた。
これからだって、たくさんのことでできていく。
それを忘れていたわけではないが、どうしても思い出す余裕がなかったことが今なら勿体なく思える。
勿体ない。他のことを感じる余裕がないなんて勿体ない。
そう呟いたら、視界が自由に開けた気がしていた。