今から3年ほど前
………ぁぁぁああああああああ!
14歳の時のアレクシアは悲鳴を喉の奥で押しつぶしていた。
体の中に押しとどめたおかげで、その声は頭の中に響き渡る。
「アレクシア!」
声を殺してうずくまるアレクシアの前に守るように立ちふさがり、姿勢を低くしたのは16歳の時のノーラントだった。
これは今から3年ほど前、アレクシアとノーラントが森で乗馬を楽しんでいた時のことだ。
アレクシアがまだノーラントの幸せな婚約者だった頃で、ノーラントの眼差しがまだ優しかった時だ。
草原を突っ切って入った森の中を走ったりした帰り道、2人は護衛たちと一列に隊列を組み崖沿いの広い道を馬に乗って山を下りていた。
パカパカと軽快な馬の蹄の音がする。鳥の声なんかは聞こえなかったが、風に木の葉が揺れていてのどかだった。
アレクシアは太陽の光に目を細めながら、遠くに見える切り立った白い山が青い青い空を突き抜けて立っている様に感動していた。
のに、
バツン
突然、肉を左右に力任せに引きちぎるような鈍い音がして、アレクシアは馬ごと吹き飛ばされた。
崖のある方向に弾かれた。
ほんの一瞬の出来事だった。
アレクシアの目の前の景色が歪み、空が反転し、体が重力を無視して浮かび上がる。手綱から手が離れる。それを反射的に宙に伸ばす。
吹き飛ばされたと思ったら、アレクシアはすぐに崖に吸い込まれていく。
それは、言葉通り一瞬の出来事だった。
その次の瞬間も、皆口をあんぐり開けていただけだった。
一人を除いてみんな。
ただ一人、アレクシアの後ろで馬に乗っていたノーラントを除いて。
ノーラントは、空中にいきなり放り出されたアレクシアに手を伸ばす。
アレクシアに手を伸ばして、
アレクシアから伸ばされた手を捕まえた。
だが乗り出したノーラントの体ももう宙に浮いていた。
崖から落ちて、落ちながらも、
アレクシアの手を引いて、自らの体に引き寄せて、
そして一緒に崖下に落ちていく。
アレクシアはノーラントに空中で抱きしめられて、彼が放った光魔法が落下の勢いを殺して、二人はボロボロになりながらもなんとか崖下の地面に着地できた。ノーラントのおかげで、衝撃でぺしゃんこになって死ぬことは避けられた。
そして、今。
「……ッぁああ!」
ぺしゃんこは回避した、と思ったのにこの痛みだ。
動かない自らの左足を一瞥して、骨が折れているな、とアレクシアは思った。
意識し始めたら冷や汗が止まらない。
耳の奥に心臓が移動してきたんじゃないかと心配になるくらい大きな音が、どくりどくりと聞こえてくる。
歯を食いしばり、また漏れそうになる声を我慢して目の前にいる大きな生物を睨みつける。
アレクシアは崖上で音もなく突然走ってきたこの生物に体当たりされて、載っていた馬ごと跳ね飛ばされたのだった。その生物の体がかすっただけのアレクシアの足で骨折なのだから、この生物の体当たりをもろに食らった馬は、はね飛ばされて宙に浮いた時点で死んでいるだろう。
目の前の生物は毛むくじゃらで大きな鼻と大きな牙を持ち、その間から血が混じった液体を滴らせている。一本変な方向に曲がった足からも血が出ている。
巨大な犬くらいの大きさのイノシシのような、岩イノシシと呼ばれる生物だった。
この高さの崖から落ちても死なないくらいの生命力と頑丈さをもつ、気性の荒い生物。
しかし気性の荒さだけでは説明が付かないほど興奮した様子のこの岩イノシシは、アレクシアの前で臨戦態勢のノーラントと向き合っている。
その殺気立っている岩イノシシを前に、アレクシアはノーラントのうしろで魔法を使おうとした。
丸焼きにしてやろうと思って膝を立てようとしたら、激しい痛みに襲われる。
アレクシアが涙目になって声にならない悲鳴を上げたのとほぼ同時に、前にいたノーラントが光魔法を使った。
圧縮した空気を放ったような音がして、一瞬目の前の景色が光の筋で真っ二つに割れた。
その光の筋の軌道上にはその岩イノシシがいる。
目の前を割った光の筋が消えたと同時に、化け物は小さく爆発するような音をさせて灰が散るように内側から崩れ落ちた。
彼の魔法が岩イノシシの体を一直線に貫いたのだ。
「アレクシア!」
化け物に魔法を放つやいなや、ばっと振り返ったノーラント。
崩れゆく化け物には目もくれず、彼は後ろでうずくまるアレクシアを抱き起す。
ノーラントは痛みに悶えているアレクシアが庇うようにしていた足を見る。そしてぎゅっと唇を噛んだ。
アレクシアの左足は赤紫色に腫れ上がり、今にも破裂して血をまき散らしそうなほど痛々しかった。
ノーラントはすぐに崖の側面に小さなくぼみを見つけ、そこにアレクシアを抱きかかえて運ぶ。
少し強い外の日差しとは反対にひんやりとした岩のくぼみにアレクシアを寝かせると、なるべく足に負担を掛けないように応急処置をした。
この崖のくぼみで助けを待つと決め、ノーラントはアレクシアが一番楽な姿勢を探してくれた。
くぼみの中の日陰で、土と石の壁にもたれたアレクシアの隣にノーラントが腰を下ろす。
このままじっと待っていれば護衛たちがすぐに下に降りてきて、二人を連れ帰ってくれるだろう。
アレクシアは痛みでじんじんしてほとんど何も考えられない頭で、無理やり楽しいことを考えようとしていた。
「アレクシア、大丈夫、すぐ助けが来てくれるから」
横から心配ではち切れそうになった声が聞こえる。
アレクシアが奥歯をすり潰さんと食いしばっているのを感じたのだろうノーラントは、ぎゅっと手を握ってくれた。
まるで自分が痛みに耐えているかのように、絞るように握る。
「君にはもう絶対怪我なんてさせないから」
泣きそうになっている彼の言葉に頷くアレクシアは、途端に申し訳ない気持ちになった。
崖が近くにあるのにぼんやりしていたのもいけなかったし、自分がもう少し周りに気を配っていたら、あの岩イノシシの奇襲も避けられていたかもしれない。
侍女が出がけに、神出鬼没の岩イノシシの繁殖期だから気を付けてくださいねとは言っていたが、まさか自分が被害に遭うとは思わなかったし、護衛の誰もまさかそんな岩イノシシが隊列の真ん中に突っ込んでくるとは思ってもいなかったと思う。
「…ーラント、ごめんね」
アレクシアが掠れる声で謝る。声は出ないだろうと思ったが、物理的に動かないのは足だけで、喉は動かそうと思えば動いた。
「何言ってるのアレクシア」
「巻き込んじゃって、ごめんね」
「謝らないで。
…それより君に手が届いて本当に良かった。本当に」
ノーラントの声が少し震えていた。
アレクシアの温度を確かめるようにしたその手も、少し注意深く見れば震えている。
確かに、本当に良かった。
一息ついて冷静になってみたら、今起こったことは怖い事だったのだと気が付いた。
突然吹き飛ばされたのに、ノーラントが物凄い反射神経で私に手を伸ばして、一緒に落ちながら宙で体を抱え込んでくれなかったら、死んでいた。
いくら業火の魔法の才能があると言ってもまだ未熟だし、攻撃的な炎魔法しか使えない今のアレクシアだけだったら周りを火の海にするだけで、まもなく死んでいた。
崖下の地面に叩きつけられて骨から何まで粉々にして死んでいたか、突き出た鋭い岩に体を貫かれて死ぬ。
痛いだろう。足の骨が折れるなんて比じゃないくらい全身が割れるように痛くて、すり潰されるように辛いんだろう。
それから痛みの後に、深紅の肉片と液体だけになってしまったそれは、もうアレクシアとして何かを愛したり、何かに苦しんだり喜んだりできない。
アレクシアもそれを想像したらゾクリとした。
「ねえ、何か気を紛らわせること、はなそう」
この空気を払しょくしようと、話題を変えようと試みる。
ずくずくと脈打つ痛みに耐えながら話すと舌が素早く回らないが、声を出したら痛みと怖さが少し和らいだように感じる。
自分の発した声を自分で聞いて、自分がまだ生きて話していることが認識できて安心できるからなのかもしれない。
「いいよ。どんな話がいい?」
青い顔をしていたノーラントもこのままではいけないと思ったのだろう、すぐに賛成してくれた。
「そうだな…」
アレクシアは少し考えて、
「…わたしの好きなところとか、あったらききたい」
そう言ってから小さく笑った。
ノーラントがもう少し小さかった時は、何かあるたびにアレクシアのそういうところが好きだと笑いながら言ってくれていたが、今はあまり教えてくれない。
でももしノーラントが答えてくれたら、ドキドキする心臓がズキズキする痛みを少し緩和してくれそうな気がした。
こんな時になんだ、とノーラントには思われただろうが、こんな時くらいいいかなとも思えた。
「そんなの、全部だよ」
言いながらノーラントが、横でその手を顔に当てたのが分かる。
アレクシアは足が痛くて首を動かすことさえ億劫だったが、その照れた顔が見たいなと思って盗み見てみた。
見ていると、ノーラントからは目を逸らされた。
しばらく沈黙が続く。
ノーラントが続きを話してくれない。
「はなし、おわっちゃったね。もっとはなしてよ」
「そういうのはちょっと恥ずかしいんだけど…」
「話してくれたら、痛いの紛れそう」
と言ってみた。
折角こんなに痛いのだから、ちょっと我が儘を言ってもいいだろうと笑ってみる。
「ずるいな…
全部好きだけど、アレクシアの笑ってる顔が好きだよ。泣いてても怒ってても困ってても好きだけど、やっぱり笑っててほしいと思うよ」
「はは」
少し早口に教えてくれるノーラントに、
私もノーラントの笑った顔好き、私を見て誰よりも幸せそうに笑ってくれる顔が好き、私を誰よりも幸せにしてくれるその笑った顔が好き、なんて言えず、間を持たせるように笑ったアレクシアも熱を感じる自分の顔に手を当てた。
顔が熱い。頬も熱い、目も熱い、鼻の奥も熱い。
愛おしさで胸が痛いと思う気持ちが、もう既に足の痛さに打ち勝ちそうだ。
「アレクシアの頑固なところも負けず嫌いなところも、意地っ張りなところも好きだよ」
「ほんとかなあ」
「ほんとだよ。それに紅い髪も、藍色の目も、綺麗な顔も、体もみんな好きだよ」
「はは、ノーラントへんたいみたい」
「…仕方ないよ。好きなんだから」
アレクシアは自分が聞いたくせに変に緊張して、堪らなくなって走って逃げたくなった。
この堪らなさより足の痛みを我慢する方が楽かもしれないとさえ思う。
「私の嫌いなところ、ある?」
「…あんまり僕に好きだって言ってくれないところ、とか」
囁くように問いかけたら、ノーラントは少し考えて小さな声で返してくれた。
ノーラントの頬だけでなく、耳も赤いのが分かった。
「私は恥ずかしいから、いつもいえないだけ」
そう言ったアレクシアの耳も赤い。
「じゃあ今、僕の好きなところも教えてよ」
「……………ぜ、ぜんぶ」
目をぎゅっとつぶって言うアレクシア。
その綺麗な目も優しい声も、賢いところも優しいところもみんなみんなみんな好き。
全部なんて言葉では言い表せないくらい好き。本当にぜんぶ大好き。
時々、言葉は心に追いつけないからもどかしい。
でも、他に何もいらないくらいノーラントのことが好きだと思う。
「まったく…
でも、絶対僕の方が先にアレクシアのこと好きになったと思う」
「嘘だ。最初会ったとき、ノーラント全然わらってくれなかったよ」
「最初は、あの親がいつものように用意した得体のしれない子がこれから一生僕の隣にいるんだって考えて諦めてたよ。でも違った。君が僕の婚約者で本当に良かったよ。
あの人達が僕にこんなプレゼントをくれるなんて考えてなかったけど、一番好きになれた女の子が僕のお嫁さんに来てくれるなんて、今でも夢なんじゃないかと思う時がある」
「ゆ、ゆめなのかもよ?
それかノーラントはわたしを好きになるように催眠術でもかけられてるのかも。
今までわたし以外の女の子の知り合いがいなかったから、そう思ってるだけなのかもしれないし」
アレクシアは素直に嬉しいと言えなくて、ついちゃかしてしまうけれど。
私もずっと夢を見ているようだと思ってたよ、と言いたかった。この足の痛みも感じられるくらいリアルな夢。
ずっと覚めないでいて欲しい。
「夢じゃないよ。それに僕は催眠にもかかっていない。
ほら、僕のもう一つの魔法…催眠術ならかけられるよりかけることの方が得意だ」
「はは、そうだね。ならノーラント、毎日私に催眠術かけてるでしょ」
アレクシアがこんなにノーラントのことが好きなのは催眠術にかけられているからか、と言う意味を込めて冗談っぽく言ってみた。
「残念ながら僕の催眠は僕が触れてる間しかかけられないし、これをアレクシアにかけることだけは絶対にしないよ。人にはかけちゃいけないと思ってるよ、絶対に。
…これを大事な人にかけるようになったら終わりだよね」
そう真剣に言ったノーラントは、二種類の魔法が使える。
一つは戦いに特化した光魔法。もう一つは洗脳系の闇魔法。
二種類の魔法が使える人と言うのは珍しくそれだけで貴ばれるものだが、ノーラントは催眠術をかけたり自白させたりできる自分の魔法のことは嫌いなようで、口外していない。知っているのは本当にごく少数の人たちのみだ。
彼はその闇魔法をずっと使っていないようだったが、いらぬ疑惑を生むし人も自分も疑心暗鬼にさせるような魔法は、捨てられるなら今すぐ捨てたいといつも言っている。
光魔法だって攻撃的なものより、第二王子のオズワルトのように瞬間移動ができたらいつでも城から逃げ出して遊びにいけるのに、と言って残念がっている。
「そうだね。私はノーラントがその魔法を使わないこと知ってるからいいけど」
昔のノーラントは今よりもっと人が好きではないようだった。まだ魔法が上手くコントロールできなかった時に嫌な思いをしたことがあると話してくれたことがあった。
今だって上辺は完璧に繕っているが、警戒を完全に解ける相手は少ないようだ。
それもこの闇魔法の影響も少なからずあるのだろう、とアレクシアは思う。
「でも、アレクシアが浮気とかしたら自供させるのに使っちゃうかもね、この魔法」
真剣な目をして考えていたアレクシアに、今度はノーラントがわざと軽快な口調で言った。
先程魔法は絶対使わないと真剣な顔で言ったくせに、今はひひひと笑っている。
「物騒だね…うわきとかわたしはしないけど、モテるノーラントはするかもね」
「いや、アレクシアの方が心配だよ。他の男に言い寄られてても気が付かなくて、ちょっとついて来てって言われたらついて行きそう」
「はは、ついていったりなんてしないよ」
ノーラントの少しいじけたような声が隣から耳に響いてくる。
それを聞いてアレクシアは首をゆるゆると振る。
「君のハトコに言われてもだ」
「ライドルト?
ライドルトは家族だから。そんなことしないし、そもそもライドルトは女の子にモテるけど騎士団の仕事で忙しいから、そんなひまなくてほんと勿体ないっていつもいってる」
「ふーん」
ノーラントが言った時、くぼみの外から人の声が聞こえてきた。
二人の名前を呼んでいるようだ。
助けが来てくれたのだろう。
…僕が、守るから
助けにきてくれた護衛たちを呼ぶために立ち上がったノーラントは、誰にも聞こえないくらい小さな声でボソッと呟いた。誰にも知られずに動いたその瞳はアレクシアを見ていた。




